お春
傾斜のゆるい坂の上は並木道になっていた。ここからずっと向こうへ至るまで、整然と桜の木が植えられ、ふと見上げてみれば、空は枝ばかりに占領され視界が狭くなる。今は見どころがないこの道も、春に訪れさえすれば、きっと壮観に違いなかったろうが、惜しくも桜前線はインド洋で撃ち落とされ、それ以来ずっとアウターが必須という天気が続いている。当然ながら、ここへは花見をしに来たのではなかった。
「いやはや。わたくしも近頃、抜け毛が酷くなってきましてな。抜け毛が酷いって共通点だけで、犬猫になれたらなあと思うんです。」
「ははは。まさにエッシャーの足踏みというやつですな。」
たった今すれ違った、二人の八十年代スーツを纏った男たちの会話である。二人とも、顔は口調よりもずっと若く見えた。ああいうレトロファッションを楽しむ人たちでも、犬や猫になりたいと思うことがあるというのは、ちょっと意外な気がした。
そのまま視界から誰もいなくなって、相変わらずの咲いていない桜並木だけの景色になると、途端にあくびが目頭をせり上がって来て、実に正直なあくびが出た。それと同時に、寒いけど眠いから、とっくに春みたいなものだなあ、というのんびりした感想も湧いて、ひょっとしたら、私はただ背丈が人間なだけの犬猫なのかもしれない。もう一発、より一層でかいあくびが出た。
「桜、桜と考えるうちに、脳みそが風流なピンクに変色するのがいい。」
あくびで滲んだ聴覚を、訳の分からない言葉が通り過ぎて行った。
途端に坂の上から衝撃音が、見るとグランドピアノが高速で転がり落ちてくるのだった。私は冷静さを欠くも、ピアノに踏みつぶされるギリギリのところで横に跳び、避けることができたが、さっきのレトロファッションの二人は大丈夫だろうか。
坂の上で誰かが、口の周りに手を当てて、こちらに何かを呼び掛けている。
「トントンドントントンドン、トントンドンドンドンジー。」
一体何事かと思ったのは私も同じだ。
聞く限り、あの坂の上で何を叫んでいるのかというと、正しくは言っているというより鳴っているのだが、レコードに針を落としたときの、トンともドンとも言い切れないあの音が、あの人の口から出ているのである。最後のジーと言う音も、同じくレコードのノイズに酷似していた。
眠気を突かれたせいもあって、この奇妙な出来事の連続に、私はすっかり恐ろしくなってしまい、とにかく下の方へ逃げようと足を前に伸ばすが、まったくそれが叶わない。それどころか風景はみるみる遠ざかり、転がっている小石は膨張し続け、枯れた桜の木が一列に成長を開始すると、坂道に落ちる枝の影は、いつの間にか私のことなど易々と飲み込んでしまっていた……私の方が縮んでいるのか?
「そういう卑下に走る現実逃避はクセになるぞ。そうなっちまっていいのか。」
「……誰。」
その声に顔を上げてみるが、周りには誰の姿もなない。おまけに自分の体が小さくなったなんて嘘で、完全に妄想だったらしい。
「誰、じゃないだろう。ほれ坂の上の方を見てみろよ。お礼を言うのが先じゃないか。」
「坂の上……。」
言われるがままに向くと、あのレコード声の人が、こっちへ駆け下りてくる真っ最中である。まさに真っ最中だったのだ。
「なんで止まっているんだ。」
「あれね、オレの力だからさ。アイツさ、グランドピアノのことでお前にいちゃもん付ける気だったぽいよ。」
「ピアノ? ピアノのことならこっちが被害者じゃないか。あと少し反応が遅れていたら死ぬところだったんだぞ。」
「そうだろうけどよ、グランドピアノって、高いんだぜ。それなのにアイツの恰好、見えるか。全然金持ちって感じがしない。近くには軽トラも見える。あっちはあっちで、案外死にかけてるのかもな。そんな奴と対面しちゃったらさ、お前、こっちが被害者だーの一点張りじゃ勝てねえだろう。助かったなあ、オレが居て。とりあえず時間ならいくらでも稼いでやるよ。」
乾いた喉を鳴らして、ネジを巻くみたいにいつまでも笑っている。
「ああ、ありが……そうだ、アンタ結局誰なんだよ。そっちからは全部見えてるのかもしれないけど、私からは顔すら見えないんだ。そうやって笑っていられると気味が悪いよ。」
私からの指摘を受けてもなお、笑い混じりに、「ああ、うん、そうだそうだ」と思い出したみたいに振る舞い、そして決して名乗らないまま、
「こっちもお願いがあったんだよね。そうじゃなきゃわざわざ助けるわけないからね。はい、これ食べて。」
何かを渡すような声とともに、急に私の口に向かって謎の物体が放り込まれると、呼吸のタイミングも相まって、抵抗できずにこれを飲み込んでしまった。形状が丸っこいおかげで、喉に突っかかりはしなかったが、腹に落下したその重量と体積からは、なぜか命を感じるのだった。三つ目に、妊娠というワードが連想されたその時である。私の記憶はここで一度途絶えた。
夜中、金縛りにあって目が覚める。寝相のせいでしわくちゃになったシーツが、湿っぽく凍えていて、まるで氷の上にいる気分だった。しばらくして最悪の事態に気が付く。どうやら眠っているときから今まで、水便をずっと垂れ流しにしていたらしい。オレはショックで動けないまま、漠然と現実逃避を試みる。しかし腹の内臓は熱いまま、腰回りはぬめって、その面積はまだまだ広がりつつあった。
またここで私の記憶に戻る。さっきの夜中の惨状はほんの一瞬ではあったが、一瞬でも強烈過ぎてしばらくは忘れられそうにない。あの不快感と焦り、それと認めがたい心地よさ。
「なんだ……今のは。」
「終わったみたいだな。実はな、その、昨日オレ、やっちまったんだ。」
「やっちまった? もしかして今のは……アンタのことなのか。でもどういう……。」
「いいか、オレがお前に食わせたのは、オレの夜中の記憶だ。お前にも飲み込めるくらいのサイズに切り分けた。あとはPCと同じだよ。」
「この際アンタのことは鵜呑みにしよう。実際に私は、アンタの記憶を見たんだからね。」
「正確には見たではなく、体験したんだ。」
確かに見たというよりも、私は体験したのだろう。あのベッドに寝たままどうしても動けなかった窮屈さや、何よりその原因となった、あの不快な感触が今でもはっきりと背中に残っている。
だが、何はともあれ、私の感想はこれに尽きる。
「アンタは一体何をしたかったんだ。私を助けたのは、こんな嫌がらせをするためだったのか。」
顔が見えないから、ムカつきもしない。単に不思議で仕方なかった。
対する顔の見えないアイツは、不思議がる私とは違ってとてもあっさりしていた。
「なんでこんなことをしたのか。単純だろう。共感して欲しかったんだよ。」
「はあ? 共感?」
「そう、共感。共感というより、お前には体験してもらったけどね。まあ、体験は究極の共感って、とりあえずそれっぽい言葉でも鵜呑みにしとけ……で、どうだった。本当最悪だっただろう。」
「いや、最悪だったけど……。」
「だよなあ。本当、屈辱っていうかショックっていうか。気づいた瞬間、眠くても一発で目が覚めるよな。」
「……でも実は、ちょっとだけ、気持ち良くもある。そう、だよな。間違ってないよな。」
「お前……よくぞ言ってくれた。見込んだ通りの、勇気溢れる言動。ありがとう。最高の共感者だよ。」
コイツの全部を受け入れたわけではないが、こう言われるのに関しては別に悪い気はしなかった。
「オレ、夢があるんだ。」
私に共感を得てからというもの、コイツは止まることを知らなかった。脈絡もこちらの事情も吹っ飛ばすので、坂の上からレコード声が接近していたことなど私も忘れていた。
「特別にそっちに影落とすから、ちょっと待ってて。」
「影?」
その影というのが現れると、なるほど、私の中でコイツの正体に納得がいったような気がし、ついその考えが独り言に漏れていた。
「ああ、三次元の物体が二次元的な影を落とすなら、四次元のアンタは三次元的な影を落とすわけか……。」
「……急にそんな難しいこと言われても。こっちにはそっちみたいに大学なんてないんだぞ。悔しいけど。」
「ああ、ごめん。独り言だった。」
「なんだそうか……じゃあ気を取り直して。」
影が出ても、ヤツの顔はまったくはっきりしない。その癖して、いっちょ前に「こほん」と咳き込むと、声色を渋くして言い放った。
「拍子に合わせ、両手両足を揺らす、ただそれだけのダサダサダンスを、お前にお目にかけよう。」
そして奴の影の背後に、また別の影が複数現れた。どうやらギターやベース、ドラムまで用意されており、間髪入れずに演奏が始まった。するとどう聞いても、彼らはかの有名な音楽家が生んだ架空のバンド、Ruben & The Jetsであり、こればっかりはいくらコイツが四次元の存在でも説明はつかないだろ! そんな文句を打ち消すように、一緒に踊った。