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陸王睦の論述勉強。

陸王睦は猫派である。

作者: 正井舞

 「陸王くんはイケメンではないけど、イケメンの一歩手前という感じ?」

 と、中学の同級生だった少女が言った。彼女はまあまあ可愛らしい子ではあった。教師からよく化粧の注意をされて、色付きのリップクリームだとかなんだとか、言っていた。

 「コーヒーブラック?かっこよ。」

 「スコーン甘いじゃん。甘いのに甘いのヤじゃね?」

 どうやら彼女のお眼鏡に叶う容姿になったらしい陸王睦は、飲み物は音を立てて吸わないように言われて育った。食べ物を噛むときは口を閉じて。左手は卓の上にあるように、今はスコーンの粉が落ちないように皿のようにして。耳にかけた黒いマスクが野暮ったくはある。高校大学で男は変わる。彼女は中学時代から愛らしい女だった。

 「うちは甘いものしか認めなーい。」

 「僕は好き嫌いしない奴がいい。」

 ゑ、の形に彼女の唇が歪む。毎日風呂に入って、不潔な部分は削ぎ落とす。目にかかる程度の前髪はブルーライトカットレンズの邪魔をしない程度に癖をつけている。白と黒は葬式を思い出すから意識的に避けた。この程度で中学時代に面皰と痘痕が青春だった十人並みはそれなりになる。

 「その口紅、似合ってない。」

 「えぇ……。」

 ついに彼女はドン引きのツラをして、しかし可愛らしい栗色のウェーヴはライトブルーのネイルに絡む。典型的な寂しがり。中学高校学年カーストを仕切っていた彼女は、ネイルやスマホカバーをゴテゴテ飾ってはいるものの、彼女自身はワンピースに小さなバックの出立ちであるから不思議である。陸王の母は荷物を纏めるのが下手で、そのくせ買い物の最後にはエコバックをきっちり使い切って帰ってくる女だった。

 「陸王くん、美大だっけ?」

 「芸大。」

 「どう違うの?」

 「君はどう思う?」

 「めんど。」

 だったらとっととラテを持って去ればいいのに。陸王はちろりとくちびるの端を舐め、ウエットティッシュで指を拭う。くちびるを拭って、皿から外れた屑を皿にぱらぱら戻しておく。アイスコーヒーは黒いテーブルの上で結露を垂れ流してい、スマホアプリに参考書籍のPDFを表示させる。色彩に寄る感情表現、色彩から受け取られる情動、感動を表現する色彩、理論がぐるぐる回って段々玩具めいてくる。

 「うち、それみたことある。」

 「これ?」

 「ん、見して。」

 「やだよ。自分のスマホで見なって。」

 「通信障害、知らないの?」

 「僕のは平気だから。」

 エアドロップ、ライン、インスタ?設定から共有オン?やってやって、と彼女はスマホのホーム画面をつるつるやって、本体ごとくるりと向けてくる。カバーの淵には分厚いネイルストーンが並んでい、彼女はプライバシーの一式を陸王に投げてきた。こんな面倒事は降参して、陸王はSNSのアカウントのQRコードを表示させると彼女にスマホで読ませた。リクエスト認証までやって、しかし自分で処理したPDFをくれてやる義理は無いし、そもそも他社の著作物をPDFにすることは問題ないが、配布は違法である。著作の販売リンクを送信してスマートフォンを彼女に返却する。

 「やっぱこれ知ってる。おかしいって思ったもん、これ。」

 「おかしいの?」

 「うん、黒が高級ってのは解んのよ。けど、青が悲しいとかは解んない。」

 「青は冷静でしょ。金銭がらみのとこに青を置いてないとこはやばいって。」

 「どゆこと。」

 「人間は青色を認識すると、冷静な感情になる。金銭の扱いは冷静にやれって。」

 「だからレジのトレーって青いの?」

 「そうじゃないの。知らないけど。」

 赤は気分が上がるんよ、それはわかる、黄色は警戒色、じゃあ青信号って逆じゃない、と彼女は閉鎖されたテラス席を見る。中学時代から変わらないピンクのリップに、オレンジ系のアイシャドウに、チークは薄め、丸顔に近いからシャープな線で影を作ってある。形状の認識は正確であるが、色彩の見極めは彼女の通った美容系専門学校では疎かだったのか、それとも彼女が疎かなのか。きっと後者であれ。

 「てゆーか、りくおーくんって喋りやすい。」

 「僕は君が馴れ馴れしいのって何のせいかなって思う。」

 社交性の違いか。彼女は昔からお喋りで、華やかで、可愛らしい女だった。学生時代焦茶色で注意された髪は地毛だった。今の明るい茶色は丸顔を強調するからやめたほうが、と考えたがしかし、彼女はその色の髪が好きなのだろう。昔から。彼女たちはファッション雑誌に載るために、わざわざ学校帰りに華やかな通りを歩いていた。ゲームセンターで写真を撮って、スタンプラリーのように配り回って、SNSに掲載するときは口元を犬のスタンプで隠していた。陸王は猫派である。人間はお猫様の奴隷である姿が望ましいと思う。

 「君は、子犬みたいだった。昔から。」

 キャアキャア黄色い声ではしゃいで、ピャアピャアと桃色の声を出し、ちょうちょうとオレンジ色の声でハイタッチをしていた。小さな体でくるくるよく動き、その癖群れが違う相手にはぴしりと視線を動かさず警戒していた。陸王が大学で学んだ人間の集団や社交というのは、少女たちにはその頃からすでに身に着けておかねばならない教養ですらある様子だった。桃色の声でいやらしい濁声を覆った大人が声をかければ、たちまち比類なきほど冷たい声音で両断するのだ。真実、彼女の友人は読者モデルを高校生ながら務め上げていた。どうにもそうやって格上の自分に成長するのも手段であるらしい。

 「バカな犬。」

 彼女の口から出た嘲笑は、ホーム画面の小型犬をネイルで突いた。蝶だったか扇だったか、陸王には小型犬であることしかわからない。猫で言うところのハチワレ模様で、色褪せた赤い首輪をしている。血の色が透けた舌を出しっぱなしにしているのが、どうにも陸王ははしたなくて好かない。人間愛してる、ときらきら光る黒い瞳も好かない。もっと素知らぬ振りをされたい。

 「普通さ、飛び出さないと思うじゃん?」

 「躾次第じゃないの、犬って。」

 「……うち、躾って嫌なんよ。」

 本音であると思う。躾とは身を美しくと書く。陸王は食事の時は、沢庵しか音を立ててはいけないと躾られた。敷居を踏んではいけない、畳の縁を踏んではいけない、本を読むときは姿勢良く、誰かに物を尋ねるときは丁寧に、例え相手が仕事で丁寧に接していると知っていても丁寧に接し返す。これらの幾つかは、とても不条理で時代に即しておらず、しかし幾つかは、間違いなく身を美しく見せる技術であると思う。

 「僕も、嘘は吐くなと躾けられたけれど、それだけは守れなかった。」

 口から出た虚実は、案外根強かった。延々地面を掘り返している男だとか、電柱の足元にしゃがみ込んだ女だとか、家の屋根の上に塒を巻く巨大な蛇であるとか、男性教師の肩に絡んだ裸の老女であるとか、女性教師の腰に縋り付いている少年であるとか。嘘に塗れた子供時代は、ある程度の自己が確立すれば嘘ではなかったと解った。誰もが気づいて知って、知っているのに見ない振りをする。街中で刃物を持って暴れる全裸の男からは誰でも逃げる。

 「どうして逃げなかったの?」

 「逃げたら、怒るじゃん?」

 「怒らないよ、普通は。」

 「怒るよ、普通。そんで殴るよ。」

 「暴力は普通じゃない。」

 「だってあいつ、普通じゃなかったもん。」

 「普通じゃない連中からは、逃げるが吉。これマメな。」

 きゃっきゃっきゃ、彼女は随分と高い声で笑い出した。きゃっきゃっきゃ、きゃっきゃっきゃ、けらけらけら、腹を抱えてスツールから転げ落ちんがまま、ただ可笑そうに笑う。もう、ひどい、そんなふうに時折言葉を転げ落としながら、ひたすら楽しそうに笑った。

 「普通の人は、普通の人を、殴らないんだよ。」

 中学の時の教師に必要だったものは、色付きのリップとコンシーラーに隠れたくちびるの傷を、養護教諭に相談することだった。彼女に必要だったのは、怪我を化粧で隠す技術ではなかった。母親に抱き抱えられて教育テレビを見て、学友と共にネット配信を見て、推しがああだこうだと笑って、遊んで学んで、愛犬を抱き抱えて実母と実父から逃げることが、彼女には必要だった。

 「なあ、犬って成仏すんの?」

 「成仏ってのは知らん。けど、君の足元で楽しそうに毛玉が転がってる。」

 「ピンクの首輪してる?」

 かつ、とネイルでスマホの画面を叩く音がした。ぽたんと水滴がテーブルを叩く音がする。

 「水色じゃないの?ハチワレには似合ってないけど。」

 「おて!」

 「ちゃんと教えたの?おかわりが先に来てんじゃん。」

 「まじか、まじか!ぱーちゃん、まだお手とおかわり逆なの!?」

 「飼い主に似たんじゃないの。」

 ずごっと氷が鳴るので、アイスコーヒーは暫く手慰みにはならない。ただ、彼女の足元をころころやってる水色の首輪の毛玉がはしゃぎ回る様子を見る。初めて貰った首輪を今でも宝物のように見せびらかして、どうにも成長と共に小さくなってもずっと大事にしていたらしい。犬の宝物置き場には、糸屑になった水色の首輪があった、らしい。やっぱりぴかぴかきらきらした黒い瞳が彼女を見て、弾んだ息を舌に乗せ、彼女に膝に乗ったところで陸王は仰け反った。やっぱり生理的に小型犬は駄目だ。牧羊をできる程度に強い犬がいい。人間に軽々しく抱えられる小型犬は、やっぱり壊れそうで怖い。

 「君の望みは解決した?」

 「したした!りくおーくんが幽霊見えるって、マだった!」

 「嘘だと思うなあ、僕は。」

 どうしてこうも、簡単に納得するのだろう。陸王の眼にしか見えない不思議な生き物たちは、皆死んでいる。死んでいるのに生きているように振る舞うから性質が悪い。おかげで彼女をまじまじと見てしまった。

 痩せ細って傷だらけで、それなのに短いスカートで繁華街の植え込みでSNSのダイレクトメールなんてやりとりしていた彼女を。図書館でレポートの引用箇所を確認して、あとは電車と徒歩で帰るのみ、駅前の繁華街は昔から声かけだとかが多い地帯ではあったらしい。条例規制で迷惑な声かけは減ったが、その分声かけを待つ女が駅前には度々所在無げに立つような場所だった。

 「いーの!はぴぴちゃんが元気なの、わかったし。」

 ぱーちゃんではなかったのだろうか。多分、犬はハッピーだとかそういう名前で、呼んでいるうちに、ぱーちゃんだとかはぴぴだとか、ぴーたんだとか、愛称が増えるのだ。猫を飼っていてもよくあることだ。

 「じゃあね、ぴぴちゃん、うち、そのうちそっち行くからさ。んーーと、どんくらいだろ。」

 「令和三年の女性の平均寿命は87.57年だって。」

 「うわ、60年くらいあんじゃん。」

 けらけらとアイシャドウを涙で拭う彼女は、ぎゅっとぴぴちゃん(仮名)を抱きしめて、はぴぴちゃん(仮名)が頬を舐める仕草をしたから、青白い頬がぬるりと禿げた。ぱーちゃん(仮名)は小さな後脚で彼女の腿を踏み締めて、蝶々のような大きな耳がはたはた彼女の耳元に羽ばたいた。

 「はあ、がんばろ。」

 まずは昼職?Pはもうやめたほうがいいかなー、とラテの結露を彼女は弄ぶ。アルバイト、就職、自分を粗末にしない職場選び、専門学校は辞めてしまったから、また入学し直してもいい。彼女のライトブルーのネイルがアプリを起動し、

 「うん。」

 手をつけていないアイスラテの中、ごしゃりと氷が崩れた。ミルクとコーヒーと氷で崩れた薄いプラスチックの容器には、まっさらなグリーンのストローが刺さっている。結露は飛び散っているのに、ラテと溶けた氷の層に分かれた中身はすっかり表面が透き通ってしまっている。

 「……頑張れ。」

 鞄を肩にかけて、氷だけになったプラスチック容器を捨てるには何処かと店内を翻っていれば、店員がお預かりしましょうかとアイコンタクトを寄越した。スコーンが乗っていた皿もある。マスクをかけ直してお願いしますとトレイで手渡した。ご馳走様でした、と見た目よりもずっと軽い扉をくぐりつつ、そういえばレポートの改善箇所が見つかる。黒は高級とあるが、それは黒という色が近寄りがさを持つからであろう。犬の黒い瞳は、高級な宝石というよりは、作り物めいたびいどろ玉に着色したようにも見えるから。

 店員は、全く手付かずで置き去られたアイスラテを見て、首を捻った。



この物語はフィクションです。

実在の人物、団体、出来事とは一切関係ありません。

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