禰宜と魯鈍
少し驚いたように彩は添えられた手を見つめてから振り返った。
「今のは旦那様の御力なのですか? なんと暖かく力強い霊力なのでしょう。」
すると悠は自分でも驚いたように自分の手を見つめた。
「霊力… っていうか、ちょっと前まで幽霊みたいなもんだったしなぁ。」
そこへ何やら遠くから声が聞こえてきた。
「彩どのぉ~っ! おぉ、彩殿、御無事であられたか。」
現れたのは山伏姿の大男と華奢な男だった。
「これはこれは深谷様のところの劉焔殿ではございませぬか。お久しゅうございます。」
彩は華奢な方の男に向かって深々と頭を下げた。その様子に訳もわからず立ち尽くす悠を劉焔は訝しそうに眉を顰めていた。
「星の宮に魍魎が現れたと聞き急ぎ駆けつけて参りました。九条殿は何処に? 」
劉焔の問いに彩は項垂れていた。劉焔も宗織の霊気を感じられない事から状況を察した。
「そうですか。惜しいお方を亡くされた。して、何者ですか、この魯鈍そうな者は? 」
まだ、この世界の事を理解していない悠が劉焔にはボーッとしているように見えたのだろう。
「わたくしの旦那様ですっ! 」
劉焔に悠を魯鈍と言われて彩が語気を荒めに睨み付けた。
「これは失礼。して旦那様というのは主君ですかな? それとも夫君ですかな? 」
「ふふふふふふふ夫君ですっ! 」
彩は顔を真っ赤にして答えた。彩と悠は宗織から言葉で聞いただけなので魂儀を婚儀、魂因を婚姻、結魂を結婚だと思っている。つい先程聞かされたばかりなので照れもある。結果としては都合もよかった。どちらかに何かがあれば、もう一方にも同じ事が起きるという状況だ。だから一緒に居た方が無難なのだが夫婦でもない年頃の男女が常に一緒に居るというのは、この世界では忌々しき事態であった。
「それは残念。彩殿には我が深谷家か下仁田家の誰かに嫁いで頂けるとばかり思うておりましたのに。」
劉焔は不服そうに悠の事を見ていた。無理もない。九条家といえば禰宜という職責の中では名門中の名門であった。その家の息女と婚姻し婿に入れば名門の家柄が手に入る。これは千載一遇のチャンスになる筈だったのだ。それを何処の馬の骨とも知れぬ魯鈍な者に奪われたとあれば不服ともなろう。
「して、彩殿の夫君、御名前は何と申されるのかな? 」
「本日は旦那様も魍魎退治で疲れておりまする故、御挨拶は後日にさせて頂きます。」
名門九条家を潰す訳にもいかない彩としては、まだ出逢ったばかりで互いの事もよく知らない状況で迂闊に他人と悠を話させるべきではないと判断した。
「… この者… 彩殿の夫君が魍魎退治を? 九条殿をも殺めるぼどの魍魎を? 」
正しくは宗織を喰らった魍魎と、悠と彩が倒した魍魎は別なのだが、そんな事よりも劉焔が不審に思えたのは悠から全く霊力を感じなかった事にあった。その事には彩も気がついていた。先ほどまで、あれほど暖かく力強く感じられた悠の霊力が今は感じられないのだ。
「今宵はお帰りくださいませっ! 」
彩の毅然とした態度に劉焔は渋々と引き揚げていった。
「大丈夫? 」
劉焔が帰って緊張の糸が切れたのか、彩が崩れるように倒れ掛けたのを悠が抱き止めた。
「暫し… 暫し、このままで居させてくださいませ。」
そう言って彩は悠の腕の中で泣きじゃくり始めた。魍魎と対峙していた時も、劉焔の前で緊張していた時も九条家の娘として堪えていたものが一気に崩壊した。無理もない。中高生ほどの少女が、つい先ほど目の前で父親を失ったのだ。悠も彩の事を黙って抱きすくめると頭を撫でてやる事しか出来なかった。一方、星の宮を後にした劉焔は、まだ腹立たしそうにしていた。
「くそっ。下仁田を出し抜いていち早く駆けつけ、彩殿の御心を掴む筈が、とんだ道化ではないか。あんな霊力の欠片も感じられない魯鈍な者が彩殿の夫君だと? 一乗寺、お前はどう思う? 」
劉焔は山伏姿の大男に問い掛けた。
「自分は深谷家に仕える身。九条家の事に口を挟む立場にはござりません。」
抑揚もなく淡々と答える一乗寺に劉焔は溜め息を吐いた。
「そうだったな。お前は、そういう奴だった。ならば魍魎祓う深谷禰宜として命じる。あの者が真に九条禰宜として魍魎を祓うに値する者か否か、探ってまいれ。悪戯に彩殿が色恋で惑わされているようであれば目を覚まさせて差し上げねばならん。」
「… 御意。」
一乗寺も劉焔の私的な感情は感じていたが、そこは深谷家に仕える身。反論する事は出来なかった。その頃には彩の涙も止まり悠を連れて九条の屋敷へと帰ってきた。
「お帰りなさいませ、お嬢様。旦那様はどちらに? それに、そちらの御仁はどちら様でしょうか? 」
帰りの遅い宗織と彩を心配して待っていた門番が彩に尋ねた。
「こちらは新しい旦那様になります。詳しい話しは後で使用人たちにも伝えますので、取り急ぎ母上を呼んでください。座敷でお待ちしていますと。さ、旦那様。今日からは旦那様の御屋敷となります故、遠慮のお上がってくださいませ。」
門番は悠の手を引いて門を潜っていく彩を唖然と見送ったが気がついて、もう1人の門番に彩の母親を慌てて呼びに行かせた。