フロレンツィア
室内の甘ったるい空気を吸い込みすぎないよう、顔の下半分、鼻から口までを布で覆いながら薄暗い室内を見回すと、女性物の化粧台・クローゼット・ウサギのぬいぐるみ・小洒落たテーブルと座り心地の良さそうなフカフカのソファ、そして奥の壁際には天蓋付きの大きな寝台がある。
壁紙も薄緑に桃色の小花柄で、突然どこにでもある貴族の令嬢の居室に迷い込んだ様だった。
一見すると何とも可愛らしい部屋に見えるが、室内に猫足の浴槽と排泄用のおまるも設置されているのが、この空間の異質さを醸し出していた。
室内をじっくり観察しながら天蓋付きの寝台の方へ進んでいくと、何かに気が付いたらしいアサギに手を掴まれて引き止められる。
彼の見開かれた目線は天蓋の内側へ向いていた。
クラウディアがその視線の先を注視すると、奥から衣擦れの音と身じろぎする何者かの気配する。
引き止めるアサギの手を振り払うようにして寝台へ近付くと、天蓋の中で長髪の女が壁にもたれかかっていた。
長い前髪から覗く痩せこけた頬とカサついた唇。
レースで縁取られた寝衣を纏った女の銀髪が揺れ、ゆっくりと顔が上がる。
瞳は銀目の、穏やかで懐かしい顔だった。
『……フロレンツィア…姉様……!』
姉様が生きていた!
喜びに心が弾み思いのまま駆け寄ると、離れた位置からは分からなかったフロレンツィアの寝衣姿には、あるはずの手足の部分に膨らみがない。
そっと注意深くフロレンツィアの腕を掴もうとすれば、握ったのは寝衣だけだった。
次に、脚があるはずの部分へ手をやる。
何も無い。
四肢が見当たらない。
腕を背中へ回され拘束されているでも、膝を折って正座しているわけでもない。
切断されていた。
『……姉………さ…ま……』
あまりの光景にフラつく身体をアサギに支えられる。
実の姉の壮絶な姿に慄き、絶句するクラウディアとアサギを見つめながら、フロレンツィアは緩やかに口角を上げ蕩けたような表情で何かを呟いた。
声が出せないのだろうと、必死に姉の口の動きから言葉を読み取り、代わりにクラウディアが声に出す。
『……し…あ……わ…せ…』
一瞬、姉の放った言葉の単語の意味が分からず、続けて声に出した。
『は…やく……た…ね…ちょ……だ…い…』
理解した瞬間、戦慄した。
クラウディアの肩に手を回し、支えてくれているアサギの腕を掴み爪を食い込ませる。
口元を覆う布も取り落として、二人してフロレンツィアを凝視する。
金縛りにあったかのように身体が動かない。
その空間は、狂気と恐怖に支配されていた。
まだ何かを伝えようとする笑顔のフロレンツィアの口元を凝視したままでいると、もう一つの違和感に気付いてしまった。
口内にポッカリと深い闇が広がっている。
姉は声が出ないのでは無い、出せないのだ。
舌が切り取られている。
咽喉の奥からはヒューっと、掠れた小さな音しか鳴らない。
限界だった。
今にも倒れ込みそうな身体を、アサギの腕だけが支えてくれていた。
これ以上、無惨な有様のフロレンツィアを見ていられない。
頭を抱えて泣き叫びそうになるクラウディアの身体を支え直して、アサギが言った。
『……帰りましょう』
彼の言葉に頷き返す事も出来ず、引き摺られるようにして元来た扉の方角へ後ずさる。
クラウディアを扉のそばの壁まで連れて行くと、寝台のそばの床に落としていた口元を覆う布もアサギが回収し、急いで扉の外へ這い出て鍵をかけ直す。
クラウディアは扉の外へ出るまで、フロレンツィアがいる寝台から一度も目が離せなかった。
その後はどうやって神殿を抜け出し、城塞都市から脱出したのかクラウディアの記憶に無い。
アサギによると、事前に被験者達の監禁部屋がある通路の奥に隠し扉を見つけていて、そこが神殿の外に繋がっていたのだと言うことだった。
神殿から脱出した所でクラウディアは嘔吐して気を失ったらしい。
『貴女の心が死んでしまわなかった事だけが、唯一の救いでした』
宿屋の一室まで逃げ帰り、意識を取り戻したクラウディアを見てアサギはそう小さく呟いた。




