過ぎ去った時間
ずっとこのままでいたい。
全てを忘れて。
暖かくて優しい時間だけが過ぎて、大気と溶け合ってしまえればいいのに。
何もかもが夢で…
"このままでいいのー?"
このままがいい。
"忘れたいのー?"
忘れたい。
"友達も村の人もー?"
友達も…
"お母さんもジュードもー?"
…
"何もかもー?"
…
『お前は許せてしまうの?』
いつもの子供達と違う、嘲笑うかのような中性的な声が耳元に響いた。
瞼が開く。
あたりは枯葉が舞い散り、秋の実りの香りと乾いた冷たい風が頬を撫でている。
背後にはルカを包み込んでいた巨木。
その巨木の根元に、蹲るようにして膝を抱え込んでいた。
掌を広げると、母から渡された赤錆びた鍵。
全ては悪い夢だったのか、現実感の無い穏やかな空気と物静かさ。
ただ一つ、夢では無かったのが分かるのが、瞳が目の前の景色を映している事だった。
12歳のあの時まで、何も見えてないはずだったのだから。
巨木の裏を少し行けば、緩やかな小川が下流へ向かって流れている。
一歩ずつ足元を確かめながら、水が流れる音のする方へ踏み出した。
四つん這いになり、恐る恐る川面へ自身を映すと、銀髪が水面に浮かぶ。
頬の丸みの無くなった輪郭に、切長の目元。
薄い唇と左目の下に黒子、髪は胸の下まで伸びていた。
触れてみれば、陶器のようにきめ細やかな肌があった。
自身のあまりの変貌ぶりに、吐き気が込み上げ嘔吐する。
「ぐっ…うぇっ…」
最後に見た母を水面に見たようだった。
脳裏に浮かぶ、躊躇いなく小刀を首に押し当てる姿。
男達に蹂躙される姿。
意識を手放すまで、瞬きもせず唇を噛み締めて、母の最期を直視し続けたあの時。
「…っ…こんな…どれくらい経ったんだ…」
"ルカが寝てからー?"
"もうすぐ3回目の冬ー!"
"いっぱい寝たねー!"
"寝過ぎだよねー!"
"待ちくたびれたー!"
子供達の声が無邪気に駆け巡る。
「3回目…三年近く眠っていた…?」
話が確かなら、あと少しで15歳になる。
着ている服も、胸囲と臀部はパツパツで、手足が出ている部分は中途半端な丈になっていた。
フラつく身体とモヤが掛かった頭を抱えながら立ち上がる。
「…家に、パヴァリア村へ、帰らなきゃ」
纏まらない思考を抱えたまま、それでも何とか森を抜け家路に向かう。
辿り着いた我が家の外観には変化は無いようだった。
小さいけれど、暖かみのある木造の一軒家。
この家で過ごした優しい時間。
激しく壊されている様にも見えない。
意を決して玄関から入り込むと、居間には大人数が侵入した形跡が残されていた。
棚は倒され、花瓶や食器類は粉々になっており、食卓は埃で塗れている。
何者かに荒らされたあと、数年経過しているのが見てとれた。
心臓が締めつけられる。
重い足を引き摺りながら、母の部屋を目指した。
扉は空いたまま、居間以上に引っ掻き回されていた。
全ての戸棚はひっくり返されており、寝台は斬り裂かれ、鏡台の鏡は割れている。
ルカの中にある思い出も何もかもが、土足でめちゃくちゃに踏み躙られてしまったかのよう。
「…許してなるものか」
部屋に染み付いた陽だまりのような優しい香りが、ほんの少しだけ鼻腔を掠める。
「母上…」
涙が一雫、零れ落ちるのを堪えきれず、ルカは声を上げて慟哭した。