パヴァリア村
はぁっはぁっ。
額を流れ落ちる汗が目隠しの布を湿らす。
右手に構えた短剣は、12歳の子供が握るには中々の重量だが、重さを感じる間もなくジュードの蹴りがルカの腰元へ繰り出される。
背後へ大きく跳びすさり、体勢を整え、重心を低くし、構えた短剣を構え直しつつ相手の懐へ突き出す。
突き出した短剣は、素早く最小の動きで身をかわしたジュードには届かず空を切り、手刀で落とされたガラ空きになった右手首を掴み、そのまま背負い投げを取られてしまった。
「くはっ!」
受け身を取ったものの、背中へ走る衝撃で、一瞬呼吸が出来なくなる。
「…今日はここまでだ」
肺に呼吸を取り込むのに忙しかったが
「はぁっ…はぁっ…すみません、もう一本お願いします!」
「いや、終わりにする。集中出来ていないからな」
そう言ってジュードはルカの腕を引っ張り上げる。
「申し訳ございません…」
正直、昨晩聞いた話の衝撃であまり眠る事が出来ていなかった。
一晩二晩寝ないで動く訓練はしているが、稽古に集中出来ていなかったのは明白だ。
「…あとは自主鍛錬でいい。帰りにケルト草でも摘んでこい。…擦り傷がある」
言われて、肘を擦りむいていた事に初めて気付く。
「…ジュード。僕はどうすればいいのでしょうか」
どうしても昨日の母からの話が頭を過ぎる。
「俺が教えられる範囲はお前に仕込んである。冷静でいろ」
これ以上伝える事は無いのか、ルカに背を向け歩き出すジュード。
ふと、足を止め振り返り
「…12歳おめでとう」
普段から口数の少ない寡黙な彼の、滅多に聞く事のない穏やかに響く声音で告げた。
「ルカ!お誕生日おめでとう!」
「何歳になったんだっけ?」
体術の稽古後、帰宅中。
ルカの家は山間に少しの平原が広がる場所に位置し、少し山道を下ったあたりにパヴァリア村の家々が並び立つ。
そこに住む、少ないながらも同年代の少女と少年、ミアとケインが声をかけてきた。
「ありがとう。12歳になったよ。二人は僕の家からの帰り?」
「うん!先生、今日は調子良さそうだった!」
栗毛色でウェーブのかかった胸まで伸びた髪を三つ編みにして、ちょっとだけそばかすを散らしている明るいミア。
その隣のケインは焦げ茶色の短髪に、日に焼けた健康的な肌。
このまま親御さんの手伝いに行くのだろう。
二人は週に2回ほど、ルカの母親から勉強を教わっている。
「ルカあんまり元気無い?」
ケインが心配そうにルカの顔を覗き込む。
「…12歳になったから。ちょっと落ち着こうと思って」
「ルカは昔から落ち着いてるのに〜?」
ミアが不思議そうに返す。
この国に、法に則った成人の定義は無い。
早くて15・16歳頃には嫁に行くか婿に入り、家を継ぐ。
子供のうちから家の仕事を習い、兄弟の面倒や親の手伝いをするのが慣わしだった。
「…何か手伝える事があるなら俺たちに言えよ。先生には世話になってるし」
「ルカはいつも真面目だもんね!」
ルカの目元は傷跡を隠すために布で覆われている。
表情は見えづらいはずなのに、ちょっとした機微を敏感に感じ取ってくれる、心優しく穏やかな二人に、自然と柔らかい笑みが浮かぶ。
「…ありがとう。これ、さっき摘んできたケルト草。沢山あるから二人で分けて持っていってくれ」
体術の稽古場から少し山中に入った所に群生してるケルト草は、擦り傷や打身によく効く薬草だ。
「わーい!ありがとう!お母さん喜ぶ!」
「目が見えないのにすごいよなぁ」
喜びを全身で表現するミアと、感嘆の吐息を漏らすケイン。
「見えない分、鼻が良いみたいなんだ」
苦笑混じりに答える。
確かに鼻や耳は良い方だが、本当は違う。
"声"が聞こえるのだ。
何者の声なのかは分からない。
"この実は美味しいよー!"
"そこに岩があるから気をつけてー!"
"ミア、前髪に寝癖ついてるー!"
二人の容姿ですらも逐一細かく伝わっていた。
どこにいても何かしらが常に話しかけてくるこの声は、私にしか聞こえていないようだった。
母とジュードからは、誰にも言ってはならないと固く禁じられている。
元より、誰にも言うつもりはない。
自身に対して協力的な言葉だけじゃなく、不安を駆られる言葉を発っする声もあるのだ。
『まだ生きてるの?』
『何で生きてるの?』
ここ最近、初潮が来てからは頻繁だった。
「じゃあ、俺は畑に行くから」
「あっ私も妹の世話しなきゃだったんだ!またね!」
「うん、また」
この村は人口も少なく、豊かではないものの、他所から来た人間にも優しく温かい。
穏やかでゆったりとした時間と、自然に恵まれた美味しい空気と、どんな人間も受け入れてくれる人々に共同体。
パヴァリア村をルカはこよなく愛していた。
それが、ミアとケイトと話した最後だった。