母
「母上、失礼致します」
扉をノックし、なるべく静かに母の寝室へ滑り込む。
「ルカ」
寝台の上で上半身を起こす衣擦れの音が聞こえた。
側にある椅子を寝台の横へずらして座る。
花瓶に生けているらしい微かな花の香りと、陽だまりのような優しい匂いが部屋に満ちていた。
「今日は一日何をして過ごしましたか?」
柔らかく慈愛に満ちた優しい声音で母が尋ねる。
「午前中はジュードから体術の修練と古代語の復習、午後は薪集めと水汲みを」
過ごした一日を簡潔に伝える。
「体術の稽古中、ジュードの靴紐が解けて自分で踏んづけてしまったようでして、顔面から転んだんですよ。転んだ瞬間の顔が見たかった」
「あら、だからジュードの顔に擦り傷があったのね」
母が珍しく笑い声を立て、釣られてルカも微笑んだ。
ここ最近は寝台で過ごす時間の長い母。
日常のふとした瞬間で一緒に笑い合えるのは久々だった。
「母上は体調どうですか?」
「少し肌寒くなってきたけれど、今日は調子が良いの。ルカ、顔をよく見せておくれ」
痩せて骨張った手を伸ばし、ルカの左頬に優しく触れる。
調子が良いと言った母の言葉は嘘では無いようで、冷えた頬に温かいぬくもりを感じた。
ルカの目元は白い布で覆い隠されている。
頭の後ろ側にある結び目を解き、母のか細い指が、両瞼の上を一文字に伸びた傷跡をなぞる。
ルカは5歳の時に負った怪我のせいで両目が見えない。
「明日であなたは12歳になりますね。話しておかなければならない事があります」
「…はい」
緊張に身体を強張らせ、言葉を待つ。
母も緊張しているのか、しばらくの間沈黙が続き、深い吐息を吐いてからゆっくりと話し始めた。
「…気付いていると思うけれど、私達はサヴォイア国民ではありません」
はっきりとした口調で、一拍置いてから母は続ける。
「あなたが2歳の時にタクシス帝国から亡命し、この村へ行き着きました」
母とジュードの日常の会話から何とは無しに理解はしていた。
だが、改まって自身の出生に関わる話をされるのは初めてだった。
平時は常に冷静でいるように入念に教え込まれている。
何とか動揺が伝わらぬよう押し隠し、話の続きを待つ。
「私はもう長くありません。あなたが一人でも生きていけるよう、ジュードから叩き込まれていますね」
息を呑む。
母が言うように、体術や古代語だけで無く軍事戦略や戦術、細かい所では貴族の作法に至るまで全てを詰め込まれてきている。
使う機会など到底あるとは思えないが、それは母がいなくなる前提で教え込まれたものだとは想像もしていなかった。
だが確かに目が見えないルカでも、身体を拭く際の介助で痩せ細った母の体型は理解していた。
「そのような事、仰らないで下さい。薬が必要なら、僕が何とかしますから…」
声が震えないよう、両掌を握りしめる。
「薬でどうにかなるものでもないのですよ。私が私に課した呪いなの」
フゥッと息を吐き、哀しげに微笑んだ様子が伝わってきた。
"呪い"についてはこれ以上話すつもりはないらしい。
それが比喩表現なのか、はたまた本当の意味での呪術的な呪いなのかルカには判断がつかない。
「…ルカ、数日前に"初潮"がきましたね。胸の発育も隠せぬものになってきました。母として、あなたを有るべき姿で成長させてあげられなくてごめんなさい」
母が言う通り、ルカは今、成長過程の女性だった。
普段は少年の格好をしている。
目の傷跡は白い布で隠し、村に住む少年達と同様、動きやすい下穿きを履いていた。
髪の毛は染色効果があるという木の根を抽出したものを利用し、焦げ茶色に染め上げて短髪にしている。
ここ最近は胸の膨らみを隠す為サラシを巻いていた。
今のところ、周囲の村人達はみなルカを男の子だと信じて疑う人はいない。
"ルカは女の子だよねー!"
"隠しても意味無いのにねー!"
"分かっちゃうよねー!バレちゃうよねー!"
どこからか幼い子供達のような声が響く。
「この先何が起こっても、タクシス帝国の皇家に連なる人間に見つかってはなりません。私達の系譜と歴史を知った時、それでも生きたいと思うかはあなたの意思に委ねます」
「…」
息が詰まりそうだった。
「…トロイへ向かいなさい。この地へ逃れて来る道中、立ち寄った島です。あなたは小さかったから覚えていないでしょう。タレスという長を訪ねなさい」
お前一人で行きなさい、と、暗に込められているのを悟った。
瞑った両瞼から涙が溢れ落ちないように目を顰める。
顰めた目元を母が撫でた。
そしてルカの瞼へ優しく口付ける。
幼い頃に涙を流しては、宥める為に母が施してくれたおまじないだ。
「…一つ歳を取るのに、泣き虫は直りませんね」
フフッと、柔らかな吐息を洩らす。
「もう一つ伝えなければならない事があります。…あなたには双子の兄がいるの」
「…兄、がいるのですか?」
血の繋がった兄の存在は全く予想だにしていなかった。
「その子の名はハーデス。あなたと同じ銀の髪と銀の瞳。帝国皇家の第一皇位継承者として大事に育てられているはずです」
ハーデス。
双子の兄の存在に想いを馳せ、胸が沸き立っていたのだが、兄は王家の人間だと聞いて更に驚愕する。
「兄上が皇子なら僕達も…皇家の人間、という事ですか?」
疑問を投げかけると、母は苦しげに呻くように言葉を紡ぐ。
「…口で伝えるには憚られる、穢れた一族です。ハーデスとは決して顔を合わせてはなりません」
重苦しい沈黙が落ちる。
母は、皇家に連なる者に見つかってはならない、双子の兄とも決して会ってはならないと言う。
何故なのかは何も分からない。
母の様子から察するに、今ここで詳しい事情は聞かせて貰えないようだった。
「ハーデスは、あなたを必ず見つけ出そうとする。そして惹かれあってしまう…。もう隠せないの。あなたが生きていて、銀髪銀目を持った一族の女である事は」
戦慄する。
母の声には今まで聞いた事のない、憎悪と悍ましさが込められていた。
「ルカ…あなたの存在理由を理解した時、あなたが生と死のどちらを選ぶのか、私には想像もつきません。真実を知ったとして絶望しても…それでも私はあなたに生きていて欲しいと願ってしまう」
話はこれまでとばかりに最後に、
「出来なかった…私とあなたでこの血を絶えさせる事が…」
ルカの手を取り握り締めた甲に、母の涙が滴った。