卒業の展望
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
もうあと半年くらいで、ここからの眺めも見納めになるね、こーらくん。「卒業生はいい景色を堪能してもらいたい」っていう理由で、ウチの学校では最高学年の教室が、一番高い階層にあると聞くけど、どこまで本当なんだろ?
景色って、高さが違うと本当に変わってくるよね。この階層まで来て、ようやく拝めるものもたくさんある。ほら、あのずっと遠くにあるお城、見える? かすかにだけどさ。
あれ、ここから3つほど行った駅の辺りにある、城址公園のものでしょ? こんな遠くまで見通せるって、本当に昔は高さが正義だったと思うよ。敵が近づいてくるのが早めにはっきり見えるからさ。
眺めっていうのは、まさに僕たちにとって生命線といえる。見えなかったら、知ることのできないまま、大変な目に遭う可能性も少なくない。
実は僕の先輩も、景色をめぐって不思議な体験をしたらしくってね。こーらくんも、この手の話、好きだったと思うから気に入ってくれるといいんだけど。
先輩が卒業する年。やはりこの階層の教室で過ごすことになっていた。そろそろ周りがすっかり受験モードに入っていて、先輩もひとりだけ、のんべんだらりとしていることに、違和感を覚えてしまうくらい。
でも、特に進みたい高校があるわけでもなし。親には「やりたいことがないなら、なおのこと少しでもレベルの高い高校に行きなさい。資格とか取るのに役立つから」と、口をすっぱくして言う。
「自分からやる気を出せないものに、人生の時間をかけてもなあ……」とぼんやり考えながら、結局、見かけだけ参考書を開いて外を眺める、休み時間中の先輩。けれども今日は、見慣れた景色の中に、妙なものが移り込んでいる。
こーらくんも、この窓からの景色。城よりもっともっと学校よりを見てごらんよ。ちょうど視界を横切る、自動車の専用道路が確認できるだろう? 県西部各所につながっているバイパスの一部だ。真下へは、ここから歩いて3分とかからないだろう。
そのバイパスの向こう側。本来なら数キロ先にある三角頭の鉄塔まで、遮るものがないはずの空間に、その日は学校と同じくらいの高さを持つ、細長いビルが建っていた。
――あれ、知らぬ間にあのあたり、工事したんだっけな?
自分の埒外にあることには、とんと関心のない先輩。あちらは自分の帰る方向でもないし、普段からさほど気にしていなかった。教室にいる何人かのクラスメートに声をかけ、外の風景を見てもらったけど、その時にはすでにビルは消え、元の鉄塔が見えている。
何度か試してみた結果、どうやら自分ひとりで見ている時。そして3階のこの教室からじゃないと、ビルが視認できないことに気がついたらしいんだ。
自分だけ、他の人とは違う何かを持っている。これが何とも心をときめかせる年頃だった先輩は、あのビルにどうにか乗り込んでやろうと、考えたらしいんだよ。
外に出ると、まったく姿が見えなくなってしまうビルの位置を特定するのは、素人の先輩には容易なことじゃなかった。だいたいアタリをつけて、近辺を探るよりない。
ビルの足元は、ちょうど専用道路や付近の民家に隠されてしまって、はっきりと確かめることができなかった。先輩は天候にかかわらず傘を持ち歩き、道路の下をくぐると、しきりに石突の部分を前に繰り出して、ビルの壁にあたる部分はないか探し続けたらしい。
二週間余り、他の家の敷地内などは遠慮しながら歩き回ったものの、進展はなし。定期試験も近づいてきて、先輩はいったん探索を打ち切ったらしい。今度の試験の点数は、これから出る成績。ひいては進路に影響を与える大切なもの。あまりに不甲斐ないと、また親からお小言を食らいかねなかった。
テストが終わった時は、初めてビルを見かけた時から、一カ月が過ぎようとしていた。まだ成績表は出ていないけれど、今からじたばたしたところで、点数が変わるわけでもない。先輩はその日もビルの姿を眺めようと、窓へ顔をやった。
思わず自分の目を、何度もこする先輩。なぜならビルは専用道路をまたいで、こちらへ近づいてきていたのだから。これまではビルの前を横切っていた道路と車たちが、今はビルの背中に隠れている。その足元は、今やはっきりと見えている。
バイパスの真下より、わずかに手前。ごく狭い田んぼとの間に設けられた、車同士がすれ違いできない、狭い道路の上にビルは鎮座していたんだ。
平日の昼間、あの道路を使う人や車はそう多くない。今、こうして先輩が見ている間も、誰かが通ることはなかった。だがこれは、千載一遇の好機。
先輩はホームルームが終わると、もう一度ビルの位置を確認。この3階を離れてしまったら見えなくなってしまうから、念入りに脳へ刻み込む。学校から出ると、先輩はさっそくかの地点へと向かう。
これまで傘で探る時も、周りに人がいないか注意していた先輩。この時も近くに人がいないのを確認したうえで、例のビルの足元らしきところまで来た。やはり肉眼ではただの空間があるばかり。先輩は三回、学校と目の前を見返して場所を改めると、そっと両手をビルの壁面へ伸ばしたんだ。
次の瞬間。横からビルに触れたはずの先輩の身体は、学校の窓と向き合う形で「気をつけ」をしていた。きつく縛られているらしく、その姿勢のまま動くことができず、転がろうと力を入れても、身体が動かない。いや、それよりも道路の真ん中でこんな棒立ちになっていたら……。
そうしているうちに、右手から車のエンジン音。あっという間に近づいてきた気配に、逃げようとする先輩だったけど、やはり体は言うことを聞かず。かわすことはできそうにない。
ブレーキ音か、ぶつかる衝撃か。覚悟してぎゅっと目をつむった先輩のすぐ近くを、車の揺れが通り過ぎていく。音の源を見やると、車はもう遠ざかっていくところだったとか。
自分をかわしていった、ということも考えられなくはない。けれど、今のはもしかすると、すり抜けていったような……。
そう思った矢先、先輩の足元から地面の感覚が消える。同時に視線が勝手に高くなっていく。先輩の身体が、おのずと昇り始めたんだ。まるでエレベーターに乗っているかのように。その動きは緩慢で、上から重い何かで押さえつけられているかのごとき、印象を受けたとか。
「3年1組、浅井……」
唐突に名前を読み上げる、抑揚のない声が降ってきた。声は名前を告げた後、ビデオテープを早送りにしたかのように、続く言葉を早口で告げていく。先輩には何のことだか分からないけど、その次の「井上」を読み上げる時にはまたゆっくりになる。そしてその後に続く言葉は早回しになり、「鵜飼」でまたゆっくりと……。
高さが増すにつれ、読み上げられていく名前に、先輩は聞き覚えがあった。この学校の3年1組の生徒たちが挙げられているんだ。そして、名前の後に加速する言葉の羅列もいくつか同じ発音をするものが混じっている。
先輩は何度も用心深く耳を澄ませて、ようやく判別した。進路相談の時、さんざん耳にしたことのある、この辺りの高校。それらの名前を猛烈な速さで読み上げていたんだ。
やがて1組が終了。2組に入る。これは先輩のクラスで、先輩の名字は「加藤」。順番としては5番目に当たった。4番目の生徒まで同じように名前と、無数の高校名を挙げられ、いよいよ先輩の番……のはずだった。
「3年2組、加藤……」
名前が呼ばれる。けれど、その後に続くべき高校の名前が続かず、声が沈黙を保つ。昇り続けた先輩の身体は、ちょうど自分の教室と真っすぐ向き合える高さまで来ていた。教室の中には、まだ残って勉強しているクラスメートたちの姿が見える。
とたん、先輩の身体は背中からばねに似た感触を受けて、前方へ飛び出した。わずかな浮遊感ののち、先輩は自然と身体がつんのめっていくのを感じる。落ちた視線は窓から、真下に広がる田んぼの地面へ。
見えたと思ったら、すでに身体を叩きつけていた。あれほどの高さから落ちたのに、痛みはそれほどでもなかった。だがちょうどあの道を何人かの生徒が通っているところで、土まみれの先輩は、少し白い眼で見られたらしいとか。
その日はそそくさと家に帰った先輩。風呂に入りながら、今日のことを思い起こす。
おそらく、自分はあの他人には見えないビルの中に入り込んでいたんだ。いや、それどころか触れることさえ叶わないのかもしれない。
そして身体が浮くと同時に、耳にした名前と高校名。後者に関しては聞き取りづらいところもあったが、記憶に残っている箇所がいくつかある。
ものは試しと、昨日聞くことができた同じクラス、1番から4番の子を捕まえて、志望校を尋ねてみると、案の定だったらしい。あのビルの中で聞いた高校の名前がいずれも含まれていたんだ。
そして引き続き、先輩しか知らないことだけど、窓から見る例のビルは、また少しずつ学校へ近づいてきていたらしい。
あの日、先輩が投げ出された田んぼの上。それを横切り、学校のフェンスに重なったあたり。そして受験直前期には、外の景色が全く見えないほど、窓の外が、ビルの壁に覆われていたらしいんだ。
その壁はなお真っ暗で、中をのぞくことはできなかったけど、声がかすかに聞こえてくる。自分たち3年生の名前と、高校名を次々に挙げていく、あの声が。そして放り出された先輩の後の部分も、高校名が補われている。そこは先輩が滑り止めで受験をする私学の名前。ただひとつを、ずっと読み上げ続けていたとか。
受験の結果、先輩は件の私学へ行くことになる。卒業式の日、学校から見える景色に、あのビルはもう影も形もなかったようだ。
先輩はあのビルは進路、ひいては未来を教えてくれるものなんじゃないかと、考えているらしい。未来がどんどん近づき、今と重なって、結果となったんだと。
もしあのまま過ごしていたら、自分は落ちていたかもしれないと語っていたんだ。