うさぎとかめと42.195km
うさぎとかめが最初の競争をしてから、八百年が経ちました。
あの頃はただ、青々とした草に覆われた緩やかな丘が連なっていた野原も、ブナやモミに覆われていた山も、今は姿を消し、豊かで便利な街へと変わっています。
遠い昔、最初のウサギとカメが出発した場所は、ビルの裏口に。最初のカメがゴールした場所は、アパートの庭に変わり、今では誰もその場所を覚えていません。
うさぎ達の暮らしも変わりました。
もう野山を駆け回って食べ物を探さなくても、真面目で働き者のかめさん達のお店に行けば、ただで美味しいものがもらえるのです。
「うさぎさんですから、お金はいりませんよ。どうぞ、持って行ってください」
「うさぎさんの為に作ったキャロットクリームとイチゴのケーキですよ、是非持って行って下さい」
住む所だって、かめさん達が作ってくれるので、昔みたいに穴の中に住まなくても良いのです。
「こちらはうさぎさん専用マンションです、うさぎさんなら無料で住む事が出来ます。全室4LDK、南向きで収納も豊富ですよ」
うさぎさんは学校にも行かなくていいのです。もちろん、大きくなっても働く必要もありません。
うさぎさんは旅行に行くのもただ、遊園地もただ、もちろん動物園もただ。
どんなものでもかめさんが用意してくれる国で、幸せに暮らしていました。
そんなうさぎさん達の中に、変わり者のうさぎが居ました。
名前をぴょん太といいました。
ぴょん太は毎日、マラソンの練習をしていました。
ぴょん太は息を切らして走りました。かめさん達が作った街を。公園を。
綺麗に整備され、洪水を起こす事も無くなった河川敷を。
街灯に照らされ、深夜や早朝でも安心して走れる街道を。
それはみんな、かめさん達が造ったものでした。
うさぎの仲間達は口々に言います。
「ぴょん太は何で走るんだい? 遠くに行きたければタクシーに乗ればいいじゃないか、ただなんだから」
ぴょん太は答えます。
「遠くに行きたいんじゃないんだ、マラソンに出たいんだよ」
「マラソンか、それはいいな。うさぎの本当の速さを見せつけてやるんだな」
今ではマラソンと呼ばれるようになった競争は、国中で続けられていました。
うさぎ達もマラソンは好きで、毎週のように開かれる大会にはうさぎ達もたくさん参加していました。
マラソンの大会はみんなかめさん達が運営していました。
何だかんだ言って、ほとんどのうさぎさん達はほとんどのかめさん達より、ずっと足が速いのです。
小さな町のマラソン大会では、ほとんどうさぎが優勝します。
うさぎさん達は練習なんかしなくても、大概のかめさん達には余裕で勝てます。実際にぴょん太だって、町のマラソン大会ではかめさん達になんて負けません。
だけど、ぴょん太は知っているのです。
うさぎ達が喜んで出るような町のマラソン大会は、距離がとても短いのです。だけど本当のマラソンは42.195kmも走るのです。そういう大会にはうさぎはほとんど出ません。さらにその中でも大きい、数年に一度の大会では……うさぎなんか、出場すら出来ません。
うさぎ達は「あんなくだらない物、見る必要が無いよ」と言って、そういう大会を、テレビで見ようとすらしません。
だけどぴょん太はいつも、目にいっぱい涙を溜めて、テレビでその大会を見るのです。
その特別なマラソン大会に出場する、何年も何年も、辛い練習を積み上げたかめさん達は、他のかめさん達とは全く違いました。マラソン選手のかめさん達は、手も足もとても長く、甲羅も極限まで薄くスマートです。
そのかめさん達は生まれながらの特別なかめさんではありません。皆、普通のかめさんが努力してそうなるのだというのです。
他のうさぎ達は、そんなかめさん達の速さを認めようともしません。
時計を見比べようともしません。
「本気を出せば、うさぎの方が速いに決まってるんだから」
みんなそういうばかりです。
だけどぴょん太は違いました。そういうかめさん達に憧れ、自分もあんな風に速く走れるようになりたい、自分もいつかあの舞台に立ちたいと、いつも願っていました。
ある日、ぴょん太は意を決して、そういうかめさん達が練習している場所に行ってみました。
かめさん達が造ったトラックと言われる練習場で、かめさん達のチームが黙々と練習しています。
みんなとても真剣です。
二十匹くらいで、固まって走っているかめさんが居ます。皆とても速いです。
ぴょん太はじっとそれを眺めていました。
やがて一匹のかめさんが、集団の中から少し遅れ始めました。
かめの監督が「遅れるな! 遅れるな!」と檄を飛ばします。
遅れそうになったかめさんは、必死に歯を食いしばり、ついて行こうとします。
「あんなに速いのに、あの中ではびりか」
ぴょん太はつぶやき、そして思いました。何という厳しい環境で練習しているんだろう。
うさぎが勝てないわけです。自分なんて、気の向くまま好きな所を走っているだけなのです。
ここまで来たのだから。ぴょん太はそう自分に言い聞かせ、勇気を出して呼びかけました。
「すみません! 皆さん! 御願いがあります!」
ぴょん太が大声で呼びかけると、何匹かのかめさんが振り向きました。
「御願いします! 僕も練習に入れて下さい! お邪魔はしませんから、どうか御願いします!」
邪魔はしないから練習に入れて欲しい、ぴょん太は心からそう願ってそう言ったのですが……かめさん達はみんな、一旦練習をやめてまで集まって来てしまいました。
「違うんです、皆さん、僕の為に練習をやめないで下さい、御願いします、邪魔はしませんから練習に入れて下さい!」
かめさんの監督は答えました。
「大丈夫ですよ、うさぎさん、ちょうど休もうと思っていた所でしたから。勿論、うさぎさんが練習に入ってくれるなら、大歓迎しますよ」
ぴょん太は喜びました。かめさん達の本格的な練習に入れてもらえて、本当に嬉しいと思いました。
「僕もトラックを走るのに入れて下さい! これでも少しは練習して来たんです!」
それは決して嘘ではありませんでした。ぴょん太は自分ではたくさん練習して来たつもりでした。
ぴょん太は二十匹のかめさん達の先頭に立ちました。そしてどんどんスピードを上げました。かめさん達は一生懸命ついて来ました。
かめさん達の練習は、同じ所をぐるぐる回り続けます……ぴょん太は少し退屈だと思ってしまいましたが、気を取り直して頑張りました。
だけどぴょん太は少し疲れて来ました。振り向くと、かめさん達の集団は皆半周も後ろに居ます。ちょっと速すぎたみたいです。
やっぱりうさぎは速いのかな。ぴょん太は一度はそう思いました。
けれども、それからほんの三周もすると……もうかめさん達は10m後ろまで迫ってきました。
これはいけない、これから頑張ろう。ぴょん太は頑張って走りました。
二周、三周……今度は差が縮まらなくなりました。
よし、いいぞ……ぴょん太はもう一度、そう思いました。
だけどそれから二十周もすると、もうぴょん太はそんな勢いでは走れなくなって来ました。
この練習ではこのトラックをあと七十六周しなくてはなりません。もうとてもそんなに走れません。
ぴょん太はスピードを落としました。何とか走りきれそうなくらいにまで落としました。
だけどかめさん達は追いついては来ませんでした。
百周の練習が終わりました。結局、ぴょん太は一番でゴールしました。
「ぴょん太さんはとても速いですね!」
「やっぱりうさぎさんだ!」
「良かったら是非明日も来て下さいね、ぴょん太さん」
ぴょん太は何も答えられませんでした。
練習に入れてくれたかめさん達に何も言えないまま、ぴょん太は肩を落とし、家に帰りました。
ぴょん太にははっきり解っていたのです。自分のせいで、今日のあのかめさん達の練習は台無しになってしまったと。
かめさん達はわざと自分を勝たせたのです。うさぎだから遠慮してたのです。
走り終わった後で、二十匹のかめさん達は疲れたふりをして地面に寝転んでいたけれど……ぴょん太はすぐに気づいたのです。かめさん達は誰一匹として汗もかいていませんでした。
家についたぴょん太は泣きました。声を上げて泣きました。
あまりの自分のだらしなさや、一瞬でも思いあがってしまった自分の驕りが許せなかったのです。
かめさん達が真剣にやっている練習の邪魔をしてしまった申し訳無さにも……我慢が出来なくて、泣きました。一時間も、二時間も、泣き続けました。
ぴょん太は思いました。
この世界はいつからこうなってしまったんだろう。
最初の競争から八百年経っても、かめさん達の努力を認めないうさぎも悪い。
だけどかめさん達も悪い。どうしてかめさん達はうさぎに気を使い続けるんだ。
これではいつまで経っても世界はこのままだ。
どうすれば変える事が出来るんだろう。
翌日。ぴょん太は図書館に行きました。
うさぎの図書館にはかめさんが描いたうさぎ用のマンガくらいしかありません。
ぴょん太はかめの図書館にも行ってみました。かめさんの本は漢字だらけでほとんど読めませんが、マラソンの本は写真や絵で解説している物も多く、少しは読めました。解らない所はかめさん達にどんどん聞きました。
ぴょん太は百貨店に行って腕時計も貰いました。うさぎなのでタダです。うさぎ用の見た目ばっかりで使えないものではなく、かめ用の不細工だけど多機能な物を貰いました。頭を下げて貰いました。
それからぴょん太はいつもの河川敷で、決められた距離を決められた時間で走る練習を始めました。
うさぎはとにかくこれが苦手なのです。うさぎに勝たせる為の町内マラソンはたいがい、距離も1kmくらいです。
まず、10kmを50分で走る。それが出来たら、一周1kmのコースを5分で走る。これを何周出来るかやってみる。それが二十周出来るようになったら10kmを45分で走る。そんなふうに。
腕の振り方も考えました。かめさん達のようにしっかり肘を引くようにしました。
テレビでマラソン大会の中継があったら必ず見ました。
一般の選手が参加出来る大会には、物好きなうさぎ達もいくらかは出ていました。うさぎ達はいつもスタートラインの一番前に並んでいました。
そういう大会では1km先にうさぎ用のゴールがあって、スタートから全力疾走するうさぎ達は、そこで優勝だ優勝だと大騒ぎをしています。
その1kmですら半分のうさぎはかめさんに抜かれているのに。そのかめさん達はそのあとそのまま40km以上走るのに。ぴょん太はそれを悔しく思いました。
雨の日も、風の日も。ぴょん太は走りました。
暑い夏が来て。涼しい風が吹いて。寒い冬が来て。また暖かくなって……それを二回繰り返したある日。
ぴょん太はもう一度、あの、かめさん達が練習しているトラックに行きました。
ぴょん太は今度は朝早く、かめさん達が練習を始める前にトラックに行きました。かめさん達の練習の邪魔にならないようにする為です。
この二年間、ぴょん太は色々な事を学んで来ました。練習の前には準備運動やストレッチを欠かさず行います。
もちろん、いきなり全力で走ったりしません。しっかりとウォーミングアップをして、怪我をせずに力を出せるよう、しっかりと体を温めます。
かめさん達は、ぴょん太が先にトラックに来ているのを見て驚きました。
ぴょん太は急いでかめの監督の元に走って来て、言いました。
「二年前のうさぎです! 今度はしっかり準備をして来ました! お願いします、もう一度練習に参加させて下さい!」
かめの監督は言いました。
「もちろんです、ぴょん太さんならいつでも大歓迎ですよ」
かめさん達は、うさぎが言う事ならたいがい何でも許してしまいます。それは今のぴょん太にとっては悲しい事でした。
とにかく、練習が始まりました。
今日のぴょん太は、絶対に出しゃばりません。練習は全部、かめさんがするのを見て、かめさんがする通りにやりました。
トラックを走る練習になっても、絶対に前に出ず、集団の一番後ろにぴったりとついて走るようにしました。
そんなぴょん太に、かめさん達の方が戸惑いました。ぴょん太は他のうさぎさんと全然違うのです。
かめさん達は最初、どうすればびょん太さんが喜んでくれるのか、一生懸命考えました。
「わざと勝たせてあげなきゃ」
「僕たちが転んだ方がいいのかな」
だけど、そうではないのだと、すぐにかめさん達にも解りました。ぴょん太は本当に、かめさん達にも負けないくらいたくさん練習して来ていたのです。
うさぎにはランニングクラブがないし、うさぎのコーチも居ない。うさぎの為の本もなく練習場も無い。だからせめて、かめさんよりたくさん練習しないと、かめさんには追いつく事も出来ない。
ぴょん太はそう考えて、本当に本当にたくさん練習して来たのです。
それが、かめさん達にも伝わりました。
「こんなに練習して来たうさぎさんを、特別扱いする方が失礼だ」
「僕たちも普通に練習すればいいんだ」
その日は朝から夕方まで、ぴょん太は、かめさん達のチームで一緒に練習をしました。ぴょん太は、はみ出す事も、抜け出す事もなく、かめさん達との練習をやりきったのです。
「お願いします!明日からも練習に参加させて下さい!」
ぴょん太は、かめの監督に頭を下げてお願いしました。
かめの選手達も口々に言いました。
「監督、ぴょん太さんを普通に参加させてあげて下さい!」
「ぴょん太さんに、かめと同じトレーニングをさせてあげて下さい!」
「特別扱いなしで、ぴょん太さんを仲間にしてあげて下さい!」
かめの監督は暫く腕組みをしていましたが、やがて言いました。
「私はうさぎさんの指導をした事が無いので、どこまで出来るか解りませんが、やるからには最善を尽くさせていただきます」
かめの監督はそう言って力強くうなづきました。
ぴょん太は練習に入れて貰えて嬉しかったけれど、どうしてうさぎにはコーチが居ないのだろうと思うと、寂しくも思いました。
ぴょん太の生活は変わりました。
ぴょん太はこの二年間、本当にたくさんの練習をして来たけれど、どんな練習も自分の思いつくまま、気の向くままにやって来ました。
だけど今は、監督の言う事を聞いて、チームと足並みを揃えて練習するようになりました。
マラソンのテレビも、かめさん達と一緒に見るようになりました。
かめさん達と見るマラソンは、一人で見るマラソンとは全然違いました。みんなとてもマラソンが好きだし、マラソンの事を良く知っているのです。
「この選手は去年怪我をしてしまって心配だったけど、元気になって良かった」
「とても速いんだけど、怪我をし易いフォームかもしれないな」
「みんなもっと速く走りたいんだよな。気持ちは解るよ」
「だけど怪我をしたら勿体無いよ、その間練習も出来なくなるし」
ぴょん太はかめさん達のそんな話を聞きながら、やっぱり寂しく思いました。どうしてうさぎ達とはこんな話が出来ないんだろう。
そして一年が過ぎました。四年に一度の、大きな大会まであと一年です。
四年に一度の大会には、誰でも出られる訳ではありません。それまでの大会で立派な成績を収めた選手だけが出る事が出来ます。勿論、うさぎなんて出た事すらありません。
そんな大きな大会の予選を兼ねた大会には、うさぎも出る事が出来ますし、実際にたくさんのうさぎが参加しています。
うさぎ達はうさぎの特権で、スタートの時も一番前に並びます。この大会でも、五十匹ばかりのうさぎが、前に並びました。
だけど今年は、後ろに並ぶかめ達の間に、一匹のうさぎが居ました。
「うさぎさん、前に行って下さい」
「いいんです、僕は皆さんと同じように並びたいんです」
そのうさぎはもちろん、ぴょん太でした。
沿道には、たくさんのうさぎが居ました。スタートの周りのいい場所には、だいたいうさぎが居て、うさぎの旗などを振っています。
「うさぎ頑張れ!」
「かめなんかに負けるな!」
スタートのピストルの合図はかめです。大会の運営などの仕事は全部かめがやるのです。
「用意……スタート!」
号砲が鳴りました。先頭のうさぎ達は猛ダッシュで駆けて行きます。
「いいぞ、うさぎ!」「うさぎは速いぞ!」
沿道のうさぎ達が騒ぎます。かめ達も拍手をします。
うさぎの選手達が目指すのは1km先のゴールです。だけど中には100mも走らずにやめてしまううさぎも居ました。
「ああ疲れた、もういいや」「僕はここで一等だ」
後ろの方で、かめの選手達と一緒に、ぴょん太もスタートラインを越えました。勿論、ぴょん太のゴールは1km先などではありません。
「随分遅いうさぎが居るな」「君! 恥ずかしいからもっと頑張れ!」
何も知らない沿道のうさぎ達が、怒って言いました。
ぴょん太は少しだけ悲しい気持ちになりましたが、すぐに思い直しました。よーし、あいつにだってびっくりさせてやろう。そう思ったのです。
やがて。1km先のうさぎゴールに、うさぎの一等がやって来てゴールテープを切り、そこに並んでいる御馳走に飛びつきました。
「今年もうさぎが一等賞だ!」
うさぎゴールの周りにはたくさんのうさぎの観客が居て、皆で大喜びをしています。その後も、次々と……うさぎゴールにうさぎの選手がやって来ます。
そのうちに、かめの先頭選手もやって来ました。かめの選手は勿論こんな所では止まりません。
「かめより遅いやつは御馳走無しだぞ!」「あははは」
先頭の亀より遅くゴールしたうさぎ達は、御馳走を分けてもらえず、がっかりする事になります。
やがてぴょん太もやって来ました。
「君も御馳走無しだ!」
近くのうさぎがそう叫びました。だけど勿論、ぴょん太はうさぎゴールになど入りません。
「おい君、うさぎはこっちだぞ……?」
ぴょん太は、前に居る三十人近い、かめの先頭集団の少し後ろを、しっかりと固めたフォームを崩さず、走って行きました。
うさぎ達も気が向けば、マラソンのテレビ中継を見るには見るのですが……うさぎ用のチャンネルは普段、1km先のうさぎゴールの様子しか映しません。ですから中継はいつも10分くらいで終わります。
テレビ局で働いているのはかめだけなので、うさぎ向けのチャンネルも実際に運営しているのは、かめでした。そのかめ達は少し困っていました。
「どうしよう、今年はまだうさぎさんが走っている」
「でも……そろそろ次の番組を流さないと」
実際、テレビ局にはうさぎからの苦情の電話が何本もかかって来ていました。次の番組はまだか、マラソンなんか早く終われと。
「このまま流そう。少なくとも、あのうさぎさんが先頭集団から離れるまでは」
「ですが……編成局長……」
「いいんだ。僕はあのうさぎさんに局長生命を賭けようと思う」
かめの先頭集団からも、少しずつ選手が脱落して行きました。五匹、十匹……その中には少し離れた集団を形成する選手も居ましたが、怪我をしたのか、無念の表情でリタイアして行く選手も居ました。
みんなたくさん練習して来たんだろうな。ぴょん太は思いました。自分もたくさん練習をして来たからこそ、遅れて行くかめさん達の無念が、痛い程解りました。
この辺りまで来ると、沿道で応援しているのはかめさんばかりでした。みんなぴょん太が通ると、一生懸命声援を送ってくれました。
ぴょん太の後ろには十匹ばかりのかめの選手がついていました。ぴょん太の前にも一匹。それから20m離れて先頭集団……ぴょん太は少しだけ加速しました。
「おーい! マラソンなんかやめろ! うさぎが負けたら恥ずかしいだろ!」
「走るなら先頭を走れー! うさぎー!」
テレビを見て沿道に飛び出して来た二匹のうさぎが、ぴょん太に向かって叫びました。
ぴょん太は、あれも応援だと思う事にしました。スタートから10km。先頭集団は十五匹になっていて、ぴょん太はその一番後ろについていました。第二集団はもう40m後ろです。
うさぎのマラソン選手は今まで居ませんでした。ぴょん太とかめの監督は一生懸命考え、工夫し、映像などを分析しながら、今のぴょん太のランニングフォームを完成させました。これが最高の正解なのかどうか、それもまだ解りません。
とにかくぴょん太は、かめの監督の事を深く信頼していました。絶対にフォームは崩さないぞ。ぴょん太はそう決めていました。
実際にレースをしてみると、それはなかなか難しい事でした。道は常に平らではないし、声援は時に選手の判断を狂わせるのです。
「追い越せー! 追い越せうさぎ! かめの後ろを走るなんてそれでもうさぎか!」
時々、沿道を併走してまで、野次を飛ばして来るうさぎも居ました。
かめの監督がレース前に言っていました。どんな野次を聞いても応援と思うようにと。そして絶対にペースを崩さないようにと。
折り返し地点を過ぎ、25kmに差し掛かる頃には、先頭集団は八匹になっていました。ぴょん太はまだ、集団の一番後ろにつけていました。
かめのテレビ局も大変な事になっていました。
「局長、苦情の電話は二百件を超えましたが、視聴率も20%を越えました」
ぴょん太は腕時計を見ました。どうやら思った以上に出来ているようでした。だけどもう少しだけ我慢です。スパートを掛けるにはまだ早いのです。
周りの様子も変わって来ました。テレビで見るマラソンで、こんなにたくさんのうさぎが沿道に居た事はありません。
「うさぎ頑張れー!! かめに負けるな!」
「早くかめなんか追い越せ!!」
うさぎの応援は、だいたいそんな感じでしたが……
「御願い、最後まで走って!!」
「走り切ってくれー!」
ごくたまには、そういううさぎも居ました。
そして35kmを過ぎる頃。ぴょん太の前選手は四匹だけになっていました。
先頭の選手は30km付近からスパートをかけ、集団から離れて行きました。
それを追い掛けて他の選手も加速を始め、それについて行けない選手が遅れて行ったのです。
沿道の応援はぴょん太一色になっていました。慌てて出て集まって来たうさぎだけではありません。かめさん達も皆、ぴょん太のまさかの快走に興奮し、声援を送っていたのです。
それはぴょん太自身も感じました。かめさん達はいつものうさぎへの遠慮で応援しているのではなく、うさぎが頑張っている事に驚いて、本気で応援してくれているのです。
ぴょん太はスパートを始めました。この5kmは離れて行く先頭の選手を見ながらじっと我慢していました。あの選手には追いつけない。ぴょん太はちゃんと自分の力を考えて走っていました。
今回は、順位より他にどうしても欲しい物があるのです。
ぴょん太は腕時計を見ました。そして、これならばぎりぎりで間に合う。きっと行ける。そう思い、信じました。
ぴょん太が欲しかったのはタイムでした。四年に一度の大きな大会に出る為のタイムです。
ぴょん太のゴールが近づいて来ました。
先頭のかめさんは素晴らしい記録で走りきり、ゴールテープを切りました。
二番目のかめさんもやって来ました。こちらも素晴らしい記録です。
どちらも大勢の観客の拍手で迎えられました。
最後の角を曲がり、三番目に直線に現れたのは、ぴょん太でした。
一番の選手が来た時の何倍もの大きさの歓声が、拍手が巻き起こりました。
「うさぎさんが! 最後まで! 立派なタイムで走った!」
「凄い! うさぎさん凄い!」「うさぎの勇者!」「速いようさぎさん!」
ゴール地点にはうさぎの観客もたくさん来ていました。今まで、この42.195kmのゴールにうさぎの観客など居た事はありませんでした。
「三位じゃだめだ! 二位を抜かせ!」「かめなんか追い越せ!」
「負けるなんてうさぎの恥だぞー!」「かめより速くないなら走るなよ!」
まだそんな事を言っているうさぎも大勢居たのですが。
「偉いぞ! よく走ったな!」「頑張ったねー!」「うさぎのヒーローだ!」
そう言っているうさぎも少なくありませんでした。
ぴょん太はその時は、ただただ嬉しい気持ちで一杯でした。タイムもどうやら、目標に20秒程の余裕を持って間に合いそうです。かめの監督と計画した通りの走りです。
二位のかめがゴールすると、まだ無責任に抜かせ抜かせと言っていたうさぎ達はがっかりしました。だけどごく一部には、二位のかめさんに拍手を送るうさぎも居ました。
それから。一位のかめ、二位のかめの数倍の歓声と拍手を送られながら。ぴょん太は三位でゴールしました。
ぴょん太はその時は、ただただ嬉しい気持ちで一杯でした。たくさんのうさぎやかめに褒められました。直接文句を言って来るうさぎも少しは居ましたが、多くはありませんでした。
ぴょん太の活躍は大きなニュースになりました。
それは……ぴょん太が思っていた以上に。
うさぎ達の世論では最初、わざわざかめの競争に出て三位になったぴょん太は恥ずかしい、というのが優勢でした。
しかしすぐに、今まで誰も頑張ろうとしなかった事を頑張った、ぴょん太こそ英雄だという論調が優勢になりました。
そしてそれは、ちょっと練習しただけの初マラソンで三位になるんだから、やっぱりうさぎはかめより速いのだという論調に変わって行きました。
ぴょん太は、うさぎの中ではひっぱりだこの人気者になりましたが……
「四年に一度の大会では、当然優勝するよな! 今度こそ、本当はうさぎの方が優れているのだという事を証明してくれよ!」
そのような事を言われる機会が、増えて行きました。
ぴょん太はあのレースの後も、かめのランニングクラブに通っていたのですが……
「ぴょん太君! もうかめのランニングクラブなんかに行くのはやめなさい! あそこにはもう、君より速いかめは居ないんだろ?」
「そうだそうだ、練習ならうさぎとすればいい、うさぎの方が本当は速いんだから」
ぴょん太の周りのうさぎ達は、そんな事を言うのです。
ぴょん太は勿論、これからもかめの監督、かめのチームメイトの皆と練習したかったのに。酷い時は、うさぎがかめのランニングクラブの練習の邪魔をしに来るのです。
「僕たちもぴょん太みたいに練習させてくださーい」
「僕もぴょん太みたいな人気者になりたいでーす」
そうして入って来たうさぎ達はやる気も無く、勝手な事をするばかり。これではかめさん達も練習になりません。
「もう無理だ……皆に迷惑は掛けられない」
自分が行くのをやめれば、他のうさぎも来なくなる。
ぴょん太は、かめのランニングクラブに練習に行けなくなってしまいました。
ぴょん太は一人で練習を続けました。
かめの監督は、ランニングクラブの指導の合間に、時間を作ってこっそり、ぴょん太の練習を手伝っていました。
ところがそれも、うさぎ達に見つかってしまいました。
「ぴょん太、あいつの言う事を聞いていたら、いつまでもかめの子分のままだぞ。お前はもう一番速いうさぎなんだ、かめの指導なんか受けるんじゃない」
あるうさぎにそう言われて、ぴょん太は反論出来ませんでした。
そのうさぎが言っている事とは少し違うのですが……かめさんの親切に甘えたままでは、うさぎはいつまでも変われないという事。それだけは身に染みて解っていたからです。
「監督、今まで本当にありがとうございました。ランニングクラブには迷惑を掛けてばかりでごめんなさい。本当は僕だって、監督の指導抜きで何か出来る自信なんてありません。だけど……うさぎも一度くらい、かめさん達の親切なしで頑張らなきゃいけないんです」
「ぴょん太さん、私も貴方からたくさんの事を学びました。本当にありがとうございます。あの……レースに出る前には必ず、お医者さんに診てもらう事だけは忘れないで下さいね」
ランニングクラブも監督も失ったぴょん太に出来る練習は、走る事だけでした。
ぴょん太はただひたすらに走りました。とにかくたくさん走りました。
質の悪い練習しか出来ないなら、量を増やすしかないのです。それは故障のリスクも高くなるし、効率の悪いやり方だとは解っていましたが、他に出来る事はありませんでした。
せめてフォームだけは崩さないように。かめの監督と一緒に、苦労して作り出したこのフォームだけは。ぴょん太はそれだけは気をつけて、ひたすら走りました。
雨の日も風の日も。
足が痛んでも、胸が痛んでも……
四年に一度の大会の日が迫って来ました。
今までその大会で盛り上がっているのはかめだけでした。このレースにはうさぎ用の1kmゴールはありませんし、今までうさぎの選手は居なかったのです。だからうさぎは誰も見ませんでした。
だけど今年は違います。
うさぎ達の盛り上がりは異常な程でした。
うさぎ達は始まる前からぴょん太が優勝したような気持ちでいました。
「我らのヒーロー! ぴょん太君を大いに励ますぞ!」
「いいぞ! いいぞ!」「ぴょん太ー!」「ぴょん太さーん!」
大会が近づけば近づく程……ぴょん太はうさぎ達に呼び出され、あっちのパーティだ、こっちの壮行会だと引き回されました。
かめさん達が経営するパーティホールで。かめさん達が経営するレストランで……ぴょん太は夜遅くまでうさぎ達につき合わされ、サイン会やら、トークショーやらをやらされました。
ぴょん太も出来ればそんな事はしたくなかったのですが、出来るだけ多くのうさぎに伝えたい事があったのです。
「みなさんの中にも、このままではいけないという気持ちはありませんか? いつまでもかめさん達に甘えたままではいけないんです!」
けれども、そういう話になった途端、ほとんどのうさぎはそっぽを向いてしまいます。
それでもぴょん太は、時間の許す限り、みんなにそれを訴え続けました。
「うさぎも、頑張れば出来るんです! 僕が頑張るのを見て、少しでも感じる所があったら、皆さんも是非、頑張ってみて下さい!」
そしてついに、その日はやって来ました。
四年に一度の大きな大会が。選ばれた選手達による、マラソンのチャンピオンを決める大会がやって来たのです。
かめの選手達も皆、緊張の面持ちで準備をしていました。かめ達にとっても、このレースだけはうさぎさんだからと言って譲れるレースではありませんでした。
それでも、かめの選手達はぴょん太を尊敬していました。
「一緒に走れて光栄です、ぴょん太さん」
「頑張りましょうね、僕も負けませんよ」
ぴょん太は、かめの選手達と話すの久しぶりでした。
「よろしくな! お互い健闘しような!」
かめの監督にも久しぶりに会えました。
「ぴょん太さん! ……メディカルチェックには行きましたよね?」
「ええ、大丈夫ですよ、監督」
ぴょん太は嘘をつきました。
うさぎに医者は居ません。うさぎは病気になればかめの医者に診てもらいます。
だけどうさぎ達は、ぴょん太が病気でもないのにかめの医者に診てもらいに行く事を許してくれませんでした。
四年前の大会では、うさぎの観客なんて数える程しか居なかったスタート地点のスタジアムは、ほとんどがうさぎで埋め尽くされていました。
ぴょん太はそれをとても複雑な気持ちで見ていました。
自分が頑張ったおかげで、これだけのうさぎがマラソンに興味を持ってくれた。
自分が頑張ったせいで、うさぎがこんなに集まったもので、また多くのかめさんが席を譲ってしまった。うさぎ達はお金も払わずにかめさんが券を買った席に座っているのです。
自分が走る事で何かを変える事が出来るのだろうか。ぴょん太は自分の胸に聞きました。うさぎ達を。かめ達を。
そんなのは……解りません。結局の所、自分はただ、走るだけなのですから。
スタートの時間が迫ります。
この大会のスタート位置はタイムによって決められています。うさぎだからってズルは無しです。
ぴょん太は靴ひもをしっかりと締め直しながら、スタート時刻を待ちました。
「スタート位置に集合して下さい」
かめの係員が言いました。
ぴょん太はもう一度、辺りを見渡しました。大会を運営しているのは皆かめです。うさぎは仕事をしません。このスタジアムも勿論かめが造りました。その先の道も、ビルも、高架線も、自動車も鉄道も。
観客はうさぎばかりです。四年前にはかめばかりでした。
ぴょん太はもう一度考えました。
僕は、何を変える事が出来るだろう。
「位置について。用意……」
号砲が鳴りました。
ぴょん太は今日は積極的に前に出ました。
今日欲しいのはタイムではありません。一番でゴールする事です。
三十九匹のかめと一匹のうさぎの中で、一番でゴールする事です。
スタジアムを出て最初のコーナーを曲がります。先頭に立とうとしていたのは四匹のかめと一匹のうさぎでした。
結局の所、先頭はかめが取りました。次にうさぎ。予選で一番のタイムを出したかめは三番手になりました。
「うさぎ、前に出ろー!」
「慌てるなー! 最後に抜けばいいんだ!」
うさぎ達の間でもマラソンの話をするのはちょっとした流行になっていました。そのせいか、無茶な事を言ううさぎは一年前に比べると減っていました。
こんな所でも、僕が変えられた事があったじゃないか。ぴょん太は思いました。
交通整理をするかめ。中継カメラを向けるかめ。白バイで先導するかめ……
今日、この大会でも。働いているのはみんなかめさんです。
世界はいつからこうなったんだろう?うさぎには先生が居ないし学校も無いので、もう解りません。
世界にはただ、勤勉なかめさんと何もしないうさぎが居るだけです。
最初の給水所が迫って来ました。ぴょん太は少しぼんやりしていました。
「あっ……」
ぴょん太がそう思った時には、給水所はもう過ぎていました。
ただ、この最初の給水所に関しては、最初から取らないで行こうかとも考えていました。
最初の10kmが過ぎました。ぴょん太は二番手をキープしていました。
沿道の観客はうさぎとかめと半々でした。
「ぴょん太ーっ! 行けー!」
「負けるなよぴょん太ー!」
勿論うさぎ達は全員ぴょん太の応援です。かめ達はぴょん太もかめの選手も応援します。
後ろの選手が少しずつ迫って来ました。先頭の選手のスピードがあまり出ていません。
ぴょん太はあまり先頭には出たくありませんでした。それだとうさぎの声援がきつくなり過ぎて、ペース維持が出来なくなりそうだからです。
ぴょん太は出来れば前に一匹だけ居て貰って、走り続けたいと思っていました。
けれども先頭の選手がだんだん下がって来て、代わりに後ろの選手が四人くらい固まって上がって来ました。
次の給水地点が迫って来ました。
ぴょん太は少し嫌な予感を感じました。ちょうど選手が固まってしまったのです。
今度は確実に給水を取ろう、そう給水所に近づいた矢先でした。
「きゃあああ!」
沿道の観客が悲鳴を上げました……給水を取ろうとした、かめの選手同士が接触してしまったのです。
二人の選手が転倒し、それを避けようとした選手同士も接触しました。
ぴょん太も他の選手にぶつかってしまいました。
「……」
それ以上の接触や転倒は避けられたものの。ぴょん太はこの給水も取りそびれてしまいました。
ぴょん太は、さすがにこれはまずいと思いました。
スタートから15km。ぴょん太は、先頭集団の八匹の中に居ます……この八匹の中では、今の所順位などは無いも同然です。
けれども観客のうさぎは煽ります。
「ぴょん太ー! 前に出ろー!」
「うさぎが一番速いんだー!」
その声に煽られ……ぴょん太は、ほんの少し前に出てしまいました。
大歓声が沸き上がりました。
とうとう、うさぎのぴょん太が先頭に立ったのです。
四年に一度しかない、マラソンのチャンピオンを決める大会で、ついにうさぎが先頭に立ったのです。それは、今まで出場する事さえ出来なかった、うさぎのランナーの快挙でした。
20km地点、折り返し地点……ぴょん太は先頭を走り続けました。二番手のかめのランナーは5m後ろ、三番手以降の集団はさらに10mも離れてしまいました。
次の給水が迫ります。ぴょん太の喉はもうカラカラでした。
この給水は絶対に失敗出来ないぞ。絶対に。絶対に……ぴょん太は100mも前からそう考えて手を伸ばしていました。
ぴょん太の手が、しっかりと給水ボトルを掴みました……
「…………ゴホ! ゲ……ガハッ!!」
ぴょん太は、激しくむせました。余りにも慌てて、たくさんの水を一気に飲もうとした為、かなりの水が、肺に入ってしまったのです。
「ゲホッ! ゴホッ!!」
ぴょん太は咳き込みながらも、何とかフォームを維持しようと頑張ります。
しかし……
「何やってんだ! 抜かれたぞ!」
「かめになんか抜かれるな!」
失速したぴょん太を一匹のかめの選手が追い越した途端、歓声は野次に変わりました。かめの観客は一生懸命応援してくれるのですが、うさぎの観客は容赦なく野次を浴びせます。
「早く追い越せ!!」
「のろま! 恥知らず!」
ぴょん太はこの時、昔かめの監督に言われていた事を思い出せませんでした。
「ゴホッ……ゴホッ……」
激しく咳き込みながら、ぴょん太は加速しました。そして……
「やったあ! いいぞぴょん太!」
「それでこそうさぎだ!」
ぴょん太は再び先頭に立ちました。
「ゴホッ……ゲホッ……」
30kmを過ぎても……ぴょん太の咳は少し、出続けていました。
大会のメディカルスタッフも勿論かめでした。かめの医者は自転車でぴょん太に近づき、聞きました。
「咳が続いてるんじゃないですか? 肺は大丈夫ですか!?」
しかしそれを見たうさぎの観客達は。
「かめー!! 汚いぞー!!」
「ぴょん太の邪魔をするなー!!」
しまいには、物を投げ出す者もいる始末。自転車のかめさんは仕方なくぴょん太から離れました。
「グフッ……フ……」
ぴょん太は口元を押さえて咳をしました。
「……」
手のひらに。赤いものがついていました。
そして35km地点……ぴょん太はまだ先頭だったのですが……
「ゲホッ! グ……ゴホッ……」
咳は収まるどころか酷くなっていました。だけど……大変な量の練習を積んで来たぴょん太の足は、それでも止まりませんでした。
「いいぞーぴょん太! かめなんか倒せ!」
「うさぎはかめより偉いんだー!」
まだそんな事を言っているのか……ぴょん太は思いました。
僕を生まれ変えさせてくれたのも、皆にこのレースを見せてくれているのも、かめさん達なのに……
ぴょん太の心の中に。弱い気持ちが生まれました。
――僕がこんなに頑張っても、何も変わらないのか……
いつからこうなってしまったんだろう。本当にこれでいいのか。このままいつまでも、これで上手く行くのか。うさぎとかめはこれでいいのか……
「ゲホッ……グハッ!?」
ぴょん太は……一際大きくむせました。
「きゃあああ!」
観客の誰かが悲鳴を上げました。ぴょん太の白い毛並みに……たくさんの赤い染みが出来ていました。
「止めて! ぴょん太さんを止めて!」
「ぴょん太さん、走るのをやめて!」
かめ達は口々に叫びました。
「走れー! 優勝しろぴょん太!」
「かめ共! 勝てないからって邪魔するな!」
うさぎ達はそう叫びました。
だけど、もうぴょん太は、そんなに速くは走れませんでした。
――ごめんなさい…………みんな…………かめさん達…………うさぎも…………
僕には…………変えられなかった…………
ぴょん太のスピードが落ちました。うさぎ達は叫びました。
「何してるんだ! 速く走れ!!」
「負けたら許さないぞー!! ぴょん太ー!!」
――ごめんなさい…………
かめの選手達は、心配そうな視線を向けつつも、ぴょん太を追い越して行きました。
ぴょん太はそれでもまだ走ろうとしていました。だけどもうその足には今までの力強さはなく、その目は前を向いてはいませんでした。
「ぴょん太さん……もうやめてー!」
一匹のうさぎが叫びました。
ぴょん太は……ゆっくりと倒れました。
スタートから38kmの地点。その場所は、もう誰も覚えてはいませんでしたが……八百年前、最初のうさぎが眠ってしまった場所でした。
ぴょん太は短い夢を見ました。
――あのご先祖様も……きっと、眠りたくて眠ったんじゃなかったんだ……
「ふざけるなー!! ぴょん太!! 起きて走れ! 追い越せ!」
「うさぎの恥だ! 最初から出なければ良かったんだ!!」
うさぎの観客が口々に叫ぶ中。
ぴょん太は、二度と覚めない眠りに落ちて行きました。
うさぎ達は怒り、勝手な事を喚き散らしながら、残りのレースを見る事もなく、帰って行きました。
「やっぱり、うさぎがマラソンなんかするなんて馬鹿げている!」
「うさぎは偉いから、競争なんかしなくていいんだ!!」
けれども。
全てのうさぎがそう考えた訳ではありませんでした。
あれから、四年――。
四年に一度の、大きなマラソン大会がまた開かれました。
各地の大会で基準タイムを満たし、この大会の出走権を得た選手が、今回は四十八匹居ました。
その中には、六匹のうさぎも居ました。
ぴょん太の志を受け継いだ若いうさぎ達が、各地で努力を積み、ここまで上がって来たのです。
頑張っているのはランナーだけではありません。
『うさぎラジオ』と描かれた揃いのTシャツを着たうさぎが、自転車に二匹乗りをして待機していました。うさぎだけで作った小さなラジオ局が、この大会の中継に参加する事になったのです。
前のうさぎは自転車を、後ろのうさぎはアナウンサリングを一生懸命練習して来ました。
「俺達も最後まで走るぞ!」「もちろんだ!」
交通整理、給水、救護……大会の運営にも、まだまだ数は少ないものの、何匹ものうさぎが参加していました。
大会の協賛スポンサーにも。数十社のかめの会社に混じって、うさぎ運送、うさぎ食品、うさぎ工務店……うさぎ達が始めた会社の名前が、小さく載っています。
客席にも、いつもの野次馬ではなく、マラソンの好きなうさぎが、自分もマラソンをするうさぎが大勢居ました。
「スタート位置に集合して下さい!」
うさぎの係員が、大きな声で言いました。
「よーし、始まるぞ!」
「お互いに頑張ろうな!」
「ええ! もちろん!!」
うさぎの選手達、かめの選手達が、お互いに声を掛け合いました。
うさぎのランニングクラブも全国に出来ました。この大会に出られなかったうさぎのランナー達も、テレビの前で、あるいはラジオの前で、スタートの瞬間を待ち侘びていました。
「位置について。用意……」
号砲が鳴りました。