四劫
明け方まで酒を呑んでから、リヒターを川釣りに誘った。石に腰掛けてだいぶ立つが、俺の釣り針は流れに弄ばれるだけで、一向に魚が食いつかない。水は冷たく、指はかじかみそうだ。
少し下流にいるリヒターは、立ったまま微動だにしない。息をしているかも怪しいものだった。ところが、当たりが来ると片手で悠々と竿を引き、びくに獲物を入れていく。
「上手いじゃないか」
俺があくびまじりにお世辞を言うと、釣り名人は謙遜するような笑みを見せる。
「毎日のように来てるからね。最初は餌を触るのも嫌だったけど、随分慣れたよ」
リヒターは岩の上に置いた生きたままのミミズに針を刺し、淡々と釣りを続けた。俺は半ば釣りを娯楽として捉えているが、リヒターにとっては生活の一部なのだろう。居候している家の食膳に、釣った川魚が並ぶという。
国と蜜月関係にあるこの男が、肩身の狭い生活をしているのが奇異でならない。片腕が不自由なものの、日常生活に支障はないようだ。公爵という肩書き通り、どこかの領地から上がりを得ているため、財産もある。
俺への当てつけをまず疑った。根拠になるかかわからないが、ある日尋ねるとリヒターが粥をすすっていた。食べさせてくれというので、匙ですくって口に運んだ。やけに旨そうにすする。まるで久しぶりの食事のようにどん欲に顔を突き出していた。生きることの醜さを伝えるようで、俺は目をそらした。
それ以来、こいつの顔を見るのが心底嫌になった。
リヒターは、しゃがみこんで澄んだ川面をのぞきこんでいる。これ幸いと、俺は彼の背後に立った。
流れの激しい場所でぶつかり合う水音が、俺の足音を消してくれる。溺れたことにしてしまおうか。川には足のつかない場所もあるらしいので、うっかり滑って転んだことにしてしまえば、溺死を装える。早朝だったので、リヒターの家の者に挨拶せずに来た。俺がここにいることを知る者は誰もいない。完全犯罪にお誂え向きな状況だ。
「鉄道の株式を君に譲ろうと思うんだ」
俺が手を伸ばしたタイミングで、リヒターが申し出た。俺はあえぐような声で聞き返す。
「何の話だ?」
「言葉通りの意味だよ。これで名実共に君が代表だ」
大陸を縦断する鉄道会社の株式は国が三分の二、リヒターが三分の一を握っている。どんな交渉をしたかは知らないが、莫大な利益を上げるだけでなく、国の政策決定に影響を及ぼしかねない正に千本桜の切り札だ。
「いるかよ、そんなもん。俺が国と上手くやれると思うか」
「できるよ。僕もサポートする。そろそろ身を固めてアテナさんを安心させておやり」
無神経な発言に、一度衰えた殺意が再び沸き立った。
「お前に口出しされる筋合いはない。何が目的だ」
「今日はずっと座ってたね。辛いか? 四劫が進んでるから僕に会いに来たんだろ」
俺はこいつに決定的な弱みを握られている。それがあるから簡単にはリョクメイ国を離れられない。
「僕には進行を遅らせることしかできないからね。悔いのないように過ごして欲しいだけさ。友人として心配するのはおかしいかな」
友人、か。額面通り受け取れないのは、俺の弱さゆえか。
「ありがとう。でも、株式はお前が持っててくれ。俺が金持っててもすぐに呑んじまうからな」
また楽になり損ねた。リヒターを殺せば全て終わるのに。俺も、世界も、何もかも。
昼前に釣りを切り上げ、俺は診療所に足を向けた。カトーが経営しており、町民も安く治療を受けられる。最近では輸入ワクチンの認可も下り、子供の死亡率が大きく下がったという。
受付を済ませると、ソファーに座って診察を待つ。赤い顔をした子供を抱えた女が診察室から出てきた。その後、しばらくして名前を呼ばれた。
水色のカーテンで仕切られた診察室には、ベッドの他に薬瓶の入った棚と机が置いてあった。
「実は薬と呼べるようなものはほとんど手元にないのですよ。まだ高くて」
白衣姿のカトーは、俺に椅子を勧めて苦笑した。やや肥満体で大柄だが決して偉ぶるところはないし、私財を投じて骨折る姿は皆の尊敬を集めている。彼は竜王の仲間だったが、島には渡らずここで渡世を送っている。
「女王蜂から買ってるんだろ? 手数料をそんなに取られるのか」
「どちらかというと輸送費でしょうか。ユミルから運んでもらってますから致し方のない面はあります」
女王蜂が進めていた製薬会社の誘致は、どうやら流れそうだと話すと、カトーは少し肩を落とした。
「彼女にこの国は狭すぎたのでしょう。ところでトモダチ、今日は二日酔いですかな」
「いや、四劫が進んだ。変化がないか見てくれ」
俺は半裸で椅子に座り、カトーの判断を仰いだ。俺の神格は、四つの段階を経て破滅に至る。成劫、住劫、壊劫、空劫。段階が上がって強くなればよかったのだが、俺の場合、下がるだけだ。アテナに神格をもらい、リヒターに調整してもらった時点で、住劫に入りかかっていた。それから持ち直していたのだが昨日、下から二番目の壊劫に突入したことがわかった。
簡単な問診の後、聴診器を当てられ、血を採られた。カトーの表情はやけに深刻で、俺は吹き出しそうになった。
「君は残酷ですね、トモダチ。儂に医学の無力さを伝えに来るとは」
「医学は無力でも、冒険者のあんたは無力じゃないだろ。俺の耐用年数を教えてくれ。あとどれくらい持つ」
俺は治療を期待して来ているわけではない。これは病とは別の現象だ。機械の故障を医師に尋ねても無意味だということはわかっている。それでも話さずにはいられないこともある。
「若干の生命力の衰えは感じますが、はっきりしたことは言えません。なにせ前例がないものですから。リヒター君はなんと?」
「あいつが俺に有利になることを言うと思うか? 内心では苦しむ俺を見て笑ってるだろうさ」
カトーは腕を組んで、診察室内を歩き回った。俺は身支度をして帰る準備を始めた。
「君たちは仲がいいとばかりに思っていましたが」
「仲がいいからこじれるのかもな。遠慮がないから。さっきも身を固めろなんて図々しいこと言いやがるし」
俺が川での会話を持ち出すと、カトーは破顔してリヒターの肩を持った。
「良い! それは実に良い案ですよ、トモダチ。相手はアテナさんでしょう? 申し分ないではないですか」
今更、アテナに求婚した所で何が変わるのだろう。バカバカしいと思ったが、カトーは男女の結婚生活がいかに心身に良い影響を及ぼすかということを熱っぽく語った。巧みな話術に、仕舞いには俺も悪くないかもしれないと乗せられそうになった。
「帰ったら忘れずにプロポーズするんですよ」
「はいはい、わかったわかった」
その他、能力の使用と酒を控えるように言われ、胃薬をもらって診療所を出る。
家にさしかかると、浮かれていた気持ちは嘘のようにしぼんだ。行為の空しさにおぞけが走るほどだった。酒が恋しい。遊廓に行こうと思ったが、手持ちの金は底をついている。うちはお小遣い制で、財布はアテナが握っている。こんなことなら株をもらって金に変えとくんだった。
そんなしょうもない考えを抱いて、家の敷居をまたいだ。アテナは洋間で黙々と編み物をしていた。
「おい、アテナ、結婚するぞー」
途端、時間が停止したようにアテナの指の動きが止まる。
お小遣いの折衝をしようとしていたのに、俺は何を言ってるんだ。訂正しなくては。ところが、アテナは俺の話を真に受けたように頬を染めている。
「は、はい……、よろしくお願いします」