知らないこといっぱい
エチカから竜王不在の理由を聞いた俺は、長屋の外に出た。アテナが古い井戸に腰掛け、子供と遊んでいる。目が合うと、にっこり微笑まれた。さらさらの金糸の髪にすらりとした長い四肢、掃き溜めに鶴の例えそのままだな。側にどぶ板がなければもっと様になっていたかもしれない。
「まだいたのか」
「だって、リリスちゃんに頼まれたんだもん」
アテナの意外な責任感の強さに驚く。俺は鼻をかいて、近寄った。
「なあアテナ、八重頭神社って知ってるか」
「聞いたことあるよ。この国でも限られた人しか入れないから行ったことはないけど」
「竜王はそこで儀式をするらしいんだ。一週間以上飲まず食わずで」
竜王が現れる以前から、リョクメイ国はひどい干ばつに見舞われていた。水竜の言い伝えがある国だ。溺れるものは藁をも掴む勢いで、竜王に助力を求めた。そして、竜王はその訴えを無視できなかった。
元々、竜王に雨乞いの力はなかったらしいが、師である神官に反抗してまで無理筋の力を身につけた。夏祭りの日に怪我をしていたのは、その修行のためだったのだ。
身を削るようにしてまで竜王がこの国に尽くす理由はエチカも知らなかった。
「でもそれはリリスちゃんが決めたことだから、ショータ君にはどうすることもできないんじゃないかな」
アテナが、もっともらしい正論を吐く。俺は感情的になって詰め寄った。
「一人を犠牲にして万民を救うなど衆愚の政治だ。俺は認めん」
「ひぃ……! 怒らないでよ。アテナ難しいことわかんないから」
頭を押さえて涙目になるアテナを、これ以上責めても仕方ない。次善策を考えよう。
「神官の力を使って神社に渡れないのか」
「うーん、多分無理かなあ。この国では神官の地位があまり高くないから」
そもそも、竜王が警戒していた神官に力を借りるのは本末転倒な気がしてきた。この際だから腹を割ってみる。
「神官も竜王を狙ってるのだろう? 水不足の地域が他にもあるのか」
「?? 狙う? リリスちゃんは優秀な冒険者だから大切だけれど、ショータ君の言いたいことがアテナにはわからないよ」
困り顔で首を傾げるアテナ。嘘をついているようには見えない。こいつは多分下っ端の神官だから事情を知らないのかもしれない。
「ええい、大事なことを何も話さないあいつが悪い。助けたくともできないじゃないか」
「リリスちゃんは助けてって言ったの?」
「それは……」
竜王が俺に泣きつく姿は想像できない。俺が勝手についてきて振り回されているだけだ。それでも俺はあいつのお守りで、最後の砦でいたい。
「それでも俺はあいつの力になりたいんだ。できないならここに来た意味がない」
「ショータ君はリリスちゃんのことが好きなんだね」
しみじみとアテナに言われると、恥ずかしくて顔がほてる。
「ふん、そんな低次元の問題で片づけるとは、情けない。やはりお前は未熟だな、アテナ」
「そうなの? いいなーと思ったんだけど」
アテナはしゃがみ込み、蟻の行列に目を落とした。
「アテナ、昔の記憶がないの。好きっていうのはどんな感じなんだろう。難しいなあ」
アテナは生まれた国はおろか、自分に関するあらゆる情報を失った状態で発見されたらしい。そんなことがあるのだろうか。記憶障害の類につけ込まれ、利用されているとしたら哀れだ。アテナのいうお父様とやらはろくでもない奴に違いない。
お父様に頼るのは論外として、何らかのコネがないと神社に渡れないのはわかった。リヒターに頼むか。それだと寺に戻ることになって堂々巡りだ。
「ねえ、ショータ君ってば!」
アテナの胸が俺の顔面にぶつかってきた。深い谷に鼻が埋まったと思ったが最後、天使の弾力に負け、俺は尻もちをついた。
「何をする……!? 俺を殺すつもりか」
「アテナ、そろそろ帰りたいんだけどな」
竜王に頼まれたのは、俺の引き受けだけだろうしな。あまり手を煩わせても可哀想か。
「お前、どこら辺に住んでるんだ」
「え? えーと……」
何故か言いよどむアテナ。警戒せずとも、つきまとったりしないぞ。俺の場合、前科があるから信用できないのかもしれないが。
「実はわからないんです」
アテナは俺の鼻先に地図を突き出した。大丈夫か、こいつ。




