鬼物語
逃げても埒が明かないが、居場所をなくすのが怖かった。今から弁明して許されるだろうか。そもそもアテナが現実の人間だなんて知らなかった。ゲームのキャラだから何をしても許されると思った。今となっては全て詭弁か。アテナはいつも嫌がっていた。それを無視していい道理はなかったのだ。
謝罪の意思を固めたはいいが、道に迷った。店はどこも木戸が閉められ、数メートル先も見通せない。月明かりだけが頼りだが、見えている月は俺の知っている月なのだろうか。自信がない。
「うっ、うっ……」
女のすすり泣きが聞こえた気がして、身震いする。気のせいだと思いたいが、どんなに進路を変えても遠ざかることはなく、むしろ近づいているのが不気味だ。
柳の木の下で、着物姿の女がしゃがんでいる。声をかけるべきか迷ったが、夜道に一人残しておくのもはばかられる。
「どうされた? 俺でよければ力になるが」
「……、ないの」
哀れを誘うような声が、心の琴線に触れる。なんとかしてやりたいと思った。
「捜し物か? 暗いから明日にしたらどうだ」
「明日にはなくなってしまうのよ」
儚い謎かけは俺を困惑させる。とにかく目的がわからなければ力になれない。
「手伝うから何をなくしたか教えてくれないか」
「巾着」
失せものはすぐに見つかった。市松模様の巾着だ。女のすぐ背後に落ちている。先ほど似た状況に偶然の魔力を感じた。
「そお。そこにあったんだあ!」
女が暗い喜びの混じった声と共に振り返る。もし、最初から女の正面に回り込んでいたら、俺は手助けなど申し出なかっただろう。
何故なら、女の口は耳元まで裂け、親指ほどの大きさ牙がのぞいていたからだ。
女は地面を蹴立て距離を詰めてきた。逃げる暇もなく、俺は組伏せられる。両肩を押さえつけられ、今にも首に食いてきそうだ。女の目は、正気を失ったようにあらぬ方を向いている。口からは魚の腐ったような臭いがした。
初めてタルタロスに来た時に出会った子鬼に似ているが、ここは市中で、しかも最初は会話が成り立っていたのだ。彼女が本当に化け物かどうか確認が必要だ。
「待て待て! どうして俺を狙う。巾着は拾ったじゃないか」
女は歯ぎしりするばかりで、会話が成立しない。肩に爪が食い込んできて血がにじんできた。抵抗しても振り払えないし、命乞いもできないとなると、
「死ぬしかないのか俺は」
こんな所で、終わるのか。女の爪が肉を引き裂く音が聞こえる。観念して宙に目をやると、桜の花弁が舞っているのが見えた。まるで、
「命を散らして燃えているようだね」
何者かの声に、女の注意が向いた。
「でもそれは仮初めの生。気づいているんだろう? 彼を巻き込むのは止めなさい」
のしかかっていた女の体重が消える。声の主に襲いかかったのだろう。瀕死の俺の目に飛び込んできたのは刀を抜いた男と、膝をついた女。
「ご、めんね……、ぼうや」
女の体は灰のように崩れ、俺の頬を掠めて見えなくなった。
彼女の目にほくろがあったかどうか、よく覚えていない。考えるのも嫌だった。
刀を鞘に納める音がして、俺は我に返る。助けてくれたのは、例のごとく白い制服のようなものを着た若い男だった。ボタンには天秤のマークが刻まれている。
「雨が上がった日は鬼が出やすい。あまり出歩くものではないよ」
昨日会った二人より穏やかに忠告してくるが、その実力に隔絶したものを感じた。
「さっきのは……」
「鬼を見るのは初めてかい。あれは既に死んでいる人間を操っているんだ」
数時間前まで生きていたはずだ。納得はいかなかったが、あのままでいたら確実に命を落としていた。
男は俺の体をひとしきり確認すると、まなじりを下げた。
「よし。傷は浅いな。汚染もないようだし、このまま帰って大丈夫」
「あんたは、強いな」
俺の一言に、柔和だった男の顔が厳しくなる。
「強さの質にもよるさ。さっきの鬼から人々を守るために力を振るっているけれど、驕らぬよう常に自分を戒めているよ」
力の是非を決められるのは、この男が力を持つ側だからだ。俺には選択肢がない。巾着を握りしめ、吠える。
「強く……、なりたい。どうすればいい!」
男は自分の被っていた制帽を俺の頭にのせた。
「君、冒険者だね。名前は?」
「ショータ」
俺は何の力も持たない餓鬼だと痛感した。いっそ、鬼のように強くなりたいと思った。これ以上、悲しい鬼を増やさないために。




