アナとシモの女王
ニーベルンデン首都の丘には、青の宮殿がある。丸いドーム型の天井を持つ建物が中心にそびえ、青い外壁には燃え盛る炎のレリーフが散見される。建築されたのは百三十年前と比較的新しく、それまでニーベルンデンには腰を落ち着ける城というものが存在しなかった。
冬は雪が根深く、地味の少ない北の大地は収穫経済に適していない。
獲物を探して定住することがなかった彼らにとっては、権威を示すための建築よりも、部族としての結束が重要だと考えられていた。自然の猛威と魔物の脅威に立ち向かうために迅速な意志決定が必要だったからだ。
慣例として王が亡くなると十二ある部族の長の中から、最も強い者が次の王として選ばれた。王の権力は絶対で、何人たりともその決定に逆らえなかった。
現在は、カンザス家の長女、チェスカルーヤが女王として君臨している。
二千年以上続くニーベルンデンの歴史の中で、女性が王位についた例はチェスカルーヤを除いて二名しかいない。それだけ男性優位の社会が続いていたのだが、チェスカルーヤの代で情勢は変わりつつある。
エルフが治める砂漠の経済大国ユミルとの国交をはじめとした外交経済政策に加え、
グラナダとの亡命問題に対処する国家安全保障局(軍事、警察、諜報を管轄する機関)にも女性職員を積極的に起用し、血気盛んな雄の暴発を防いでいる。
「女だから、争いが嫌いという決めつけは偏見ではないでしょうか」
女王執務室室長アナ=デルコスは意見を述べて、足付きのグラスに赤い液体を並々と注いだ。デルコス家も十二ある部族の裕福な家柄の一つである。
「女の方が血の気が多い事も時にはあろう。だが、時期ではないと男を諭すのも女の務めなのじゃ」
女王チェスカルーヤは、藍色の玉座に座ったまま嘯いた。赤と青の宝石をはめた王冠は、こぶりな頭に比べてだいぶ大きい。
彼女の外見は頭からつま先まで光沢のある灰色の毛並みに覆われ、突き出た鼻、大きく裂けた口からは鋭利な犬歯が覗く。狼に似た獣狼族だが、彼らはそう呼ばれるのを嫌い、アニメモ(古の民)と呼ばれるのを好む。
アナもチェスカと似た見た目をしているが、全体的に毛並み黒っぽく、やや大柄だ。獲物を長距離追うために発達した大腿部が顕著で二本足で歩く。アニメモの平均身長は二メートルで、雄の中には三メートルに達する者もいる。洋服を着る習慣はないが、女王は紫の花の刺繍のはいった前当てをつけている。
アナはグラスに鼻を突っ込み、頭を後ろに傾けた。毒味だ。ゴクゴクと豪快に嚥下している。しかし毒味にしてはやけに長い。
女王は辛抱しきれなくなり、アナを叱りつける。小娘のような頼りない高音は、王の威光にはほど遠い。
「これ! 飲み過ぎじゃ。わらわの分がなくなるではないか」
「あ、すみません。好物なので。ザクロジュース」
アナはとぼけた顔で舌を舐めた。まだ未練がありそうにグラスを持っている。
ニーベルンデンの国民の間ではザクロジュースが大人気だ。南方の植民地で栽培され加工されたジュースを専売公社が販売している。
「全くお前は、毒味と言ってはわらわの食事をかすめ取るのう」
度重なる無礼に対しても、口調はそこまで厳しくない。二人とも年齢は近く親戚のようなもので、付き合いは十数年に及んでいる。
「仕事ですので。念には念を入れませんと、ね」
口実を設け、何とかジュースを飲もうとするアナの手から女王はグラスを奪う。朝はザクロジュースを飲まないと調子が出ないのだ。
「して、客人の様子はどうか」
チェスカはグラスの底に溜まったジュースを舐めてから、アナに訊ねた。
「お二人は仲むつまじく暮らしておられます。今頃はお湯に浸かっておられるかと」
「ほう、朝からヌルヌルズッポンか」
女王の重々しい口調にアナも重々しい反応を示す。
「はい。ヌルヌルズッポンです」
チェスカは狩猟本能に目覚めたように、玉座から飛び上がる。
「それは聞き捨てならぬ。風呂を覗きに行くぞ、アナ。支度をせい」
女王の奇行をアナは頭ごなしに否定せず、次の予定を淡々と告げる。
「この後、国家安全保障局の会議がございます」
「そんなもの、兄上にまかせておけ。わらわはヌルヌルズッポンで忙しい」
「ディドルート様はお休みでございます。正午まではお目覚めになられません」
チェスカは呆れたように鼻を鳴らしたが、身内に対する気安さを感じさせた。
「兄上はそれで良い。では行くぞ、ついてまいれ」