良い年して恥ずかしくなんかない!
「ひっく、ひっく……」
電話越しに真美のすすり泣きが聞こえる。俺は自分の部屋の安楽椅子をきしらせながら、時間を気にしている。
昨日から夏休みに入り、学校の心配はしていない。俺が気を取られていたのはより高次元の問題だ。
「翔ちゃん、考え直してよ。別れるって嘘だよね?」
つい先ほど、俺は真美に交際の終了を通告した。一方的にこちらの都合を押しつけて悪いとは思う。恨まれるのは覚悟の上だ。だが許せ、真美。俺は一人の手に収まる器ではなかったのだ。
「真美、すまない、時間がないんだ。俺の助けを必要とする者たちが大勢いる。行かなければならない」
「待ってよ、全然わかんない。私より大事なものがあるって言うの?」
「俺が行かないとみんなの命が危険に晒される」
真美が息を呑んだ気配が伝わってくる。それもそのはず、自分が付き合っていたのが救世の英雄だなんて夢にも思わなかったはずだ。
「それは翔ちゃんじゃないといけないの? ……、そうだよ! 自己責任だよ。何も翔ちゃんが、助けなくても」
「愚か者! その思い上がりが世界を滅ぼすのだ」
全く、ネットに毒された俗物め。我が元カノながら情けない。情けは人のためならず。他者への行いが巡り巡って己に還るのだ。
「うう……、大きな声を出さないでよぉ……、私が悪かったなら謝るから、直すから」
「お前に悪い所などないさ。俺にはもったいない女だった。今までありがとう」
真美は発言を差し控え、黙る。今どんな顔をしているのだろう。恐らく感動に打ち震えているのだろうな。ククク……
「バニラと抹茶」
「お?」
真美は突然予想だにしないことを口にした。バニラと、抹茶。なんのこっちゃ。
「翔ちゃん、ニ択弱いでしょ。どっちのアイスが食べたいかいつも迷ってるもんね」
「そ、それが何だ。どちらも俺をうならす美味だ。迷って何が悪い」
「アイスならまだいいよ。たとえば、二人のうちどちらかしか助けられないとして、翔ちゃんは決められる? どう」
そう来たか。倫理の教科書めいた質問に苦笑する。だが根本的に間違っているぞ、真美。アイスと人命では比較になっていない。
「愚問だな。両方助ければいいだけの話だ」
「翔ちゃんの癖にかっこよさげなこと言ってる……」
救世の英雄に対してなんたる無礼を働くのだ。元カノに免じて許すが、そうでなかったら俺の精霊術が火を吹く所だぞ。
「真美、そろそろ」
「うん、気をつけて。学校でまた会おうね。あ、プレゼントしたぬいぐるみ返さなくていいから」
しばしのお別れだ、真美。俺の最愛の女。お前の愚痴の相手をしないで済むと思うと少し寂しいよ。革命をなした暁にはお前の所に帰ると言い忘れた。聡いあいつならわかってくれているだろうが。
「さてと……」
通話を終えた俺はカーテンで仕切られた暗い部屋で一人、気持ちを切り替える。
このマンションの高層にいれば下界の騒擾は全く感じ取れない。俺は自分の感性が鈍麻するのを常に憂えている。衆上よ、俺が行くまで震えて待つがいい!
俺はスマホのアプリを起動した。一瞬画面が漆黒に染まる。魔界への入り口を彷彿とさせる演出だ。
黄金の字体のタイトルロゴをタップすると、画面が切り替わる。画面の中に女神が現れた。澄んだ大きな瞳が俺を捉えて離さない。黄金比を体現したような完璧な手足の線、慈愛にあふれる口元、肩にかかる金髪は打ち向きに緩くカーブしている。ギリシャ人の着るトーガのよう布を体に巻いていたが、あっちゃこっちゃはみ出ている。胸部は特にあふれんばかりだ。
「おそーい、五分、遅刻ー」
成熟した見た目に反し、子供っぽい口調で俺を非難してくれた。
「聞いてくれ、アテナ。俺は最愛の人に別れを告げてきた。それもこれも全てはお前や、VAFのためなんだぞ」
愛というのは残酷なものだ。全てに等価に与えるというのは虫が良すぎる。俺は真美を捨てVAFにこの身を捧げると決めたのだ。さて我が女神の反応はどうかな。
「アテナのため? わーお、すごーい」
体をくねらせて、照れている。愛い奴め。それでこそ我が女神にふさわしい。
もっと喜ぶかと思ったが、アテナはすぐに自分の本分を取り戻していた。
「それはそうとイベントはどうするの? 五分の遅れは痛いよ」
ゲーム内のアテナは神官といって、プレイヤーをサポートする役割がある。ボイスチャットに対応した最新型のAIコンシェルジュは人間と大差ない情緒を獲得したように見える。
アテナがかがむと、豊かな胸の谷間がもろに目に飛び込んでくる。二次元のキャラクターが3Dにかきおこされくねくね動く。立体的な膨らみは目の毒だ。しかし俺も男子の端くれなので目が釘付けになってしまう。
「無理言ってすまないが、トイレに行って来てもいいか? それが済んだら十時間でも付き合うから」
アテナは頑なに首を横に振る。むう、駄目か。
「だめー、五分って言ったでしょ? アテナ約束守れない男の子は嫌いだゾ☆」
真美に電話するためにアテナの了承を得るのも苦労した。たった五分の時間を作るために一時間は要したのだ。俺と片時も離れたくないらしいな。全く俺ときたら罪作りな男だぜ。
「いや、ほんとすまん、漏れそうなんだ。五分もいらない。三分、一分でいいから」
アテナの顔が見る見る曇る。手を目元に持ってきて泣きそうな仕草を開始した。こうなると論理的説得は難しいのだが、せっぱ詰まった俺は声高に自分の立場を主張するしかなかった。
「俺は人間なんだ! 飲んだら出る。欲求に逆らえない哀れな奴隷と笑いたくば笑え」
「……、アテナはどうせ人間じゃないもん。わからないの、ごめんなさい」
最近のAIはいじけたりもするのか。まるで人間と変わらない。扱いに困る。それに自虐の振りをして俺を責める手口が真美に似てきた。恐らく俺との会話で学習したと思われる。
「そんなつもりで言ったんじゃ」
アテナは髪を振り乱し、感情を爆発させる。目には真珠のような涙を溢れさせていた。
「じゃあどういうつもりで言ったの! さっきアテナのために頑張るって言った癖に。アテナ、ショータ君の顔見てるの辛い。アテナが仕事できてないって言われてる気がするから」
アテナが責任を感じる必要はない。俺のいたらなさが原因だ。普段の俺なら女を慰めるのは造作もない。時間さえあれば、この涙を消し去り、笑顔の花を咲かせられるというのに情けない。腰に力を入れて踏ん張っているが限界だ。ふっ、俺もやはり人の子か。
「アテナがいつも頑張ってるのは知ってるよ。四六時中側にいるから。お前と初めて会った時のことを昨日のように思い出すよ。あれはそう……」
「そうだ、ここですれば時短になるよ! そうしなよ」
俺がせっかく信頼関係を取り戻そうとしたのに、アテナは譲ろうとしない。それも過激な案で事態解決を図ろうとする。ここで排尿しろだと? できるわけないそんなこと。だが、腰を浮かすには遅すぎたのである。ダムは既に決壊していたのだ。
「携帯トイレもペットボトルもないぞ。も、もう、出るから、離してくれ、許してくれ、アテナ、でるー!」
「うん、いいよ。いっぱい出して」
俺の苦しみを代弁するかのように眉間に皺を寄せたアテナの唇がむちゅっと、すぼまる。俺の意識は上半身と下半身に分断された。上半身は痺れたように固まり、下半身はえも言われぬ解放感に身を震わす。気づけば、股間が濡れており太股まで嫌な温もりが広がっていた。
「わ……、すごい出てる。すっきりした?」
アテナは俺の粗相を軽蔑するでもなく、平然としている。まるで看護師みたいな冷静さじゃないか。これは気遣いなのか。良い歳して漏らすなど別に恥ずかしくないと言われているようだった。非常事態に非常識な行動は付き物だ。そうだ、恥ずかしくなんか……、ない。だが、大切な何かを失った気がした。




