Awaken the power
夜が明けるまで、ほとんど兵がまんじりともせずに過ごした。ニーベルンデン側のさらなる攻撃の可能性も捨てきれなかったからである。
無事朝を迎えても、駐屯地では冗談一つ聞こえないこりかたまった空気が漂っている。
兵の士気が下がることを憂えたらしいリヒターが、一席設けることになった。兵を羊の群れのように操って平原に集める。
平原には白い装束に身を包んだ聖歌隊が待機しており、鎮魂とグラナダの兵を慰撫するために歌を披露した。
大仰な身振りで指揮を取るのは、リヒターその人である。聖歌隊は彼の所属する騎士団のメンバーであり、十五歳以下の少年少女たちで占められている。全員白いブレザーに半ズボン姿、金髪のマッシュルームカット。整った容姿は申し分ないが、表情は心なしか虚ろだ。歌は平坦で情感に欠け、過度に調律された楽器を思わせた。
「う゛おえええええええ!」
機械的な聖歌隊のコーラスに混じって悪鬼のような醜い叫び声が聞こえてくる。聖歌隊から離れた場所にある天幕では、花菱烈華が胃の中のものをぶちまけていた。花菱の服装は昨日と同じ派手な柄の着物だ。
「花菱さん、大丈夫ですか?」
ユイは心配する言葉をかけながらも花菱のうかつさをいじりたくて仕方ない。
「あー、吐いたらすっきりした。あの副総長ザルかよ。あんな酒強いとは思わんかった」
花菱は昨夜から明け方までリヒターと酒を酌み交わしていた。狭い個室のような所で、延々とワインを飲まされ、いつの間にか意識を失っていた。気づいた時には陣営にある土嚢の上に寝かされており、ユイに発見されるまで頭痛で動けなかった。
「意外。花菱さんも結構お酒強いでしょう」
「まあな。でもつい勧められるまま飲んじまった」
「つい、ねえ……」
酒の失敗を恥じることのない花菱に、ユイは疑惑を抱かずにはいられない。リヒターは誰にでも好意的だから勘違いする者が後を絶たない。花菱もその犠牲者に連なる可能性が高くなった。
「あー、やっべ、あたし何か変なこと言ってたかもしんない。どうしよー」
「変なこともしてたんじゃないですか。やらしー」
ユイがはやし立てると、花菱は腕を組んで考え込んでいる。
「それが何も覚えてねえんだよ。この後どんな顔して会えばいいんだ。気まず」
人形以外の事に真剣に悩む花菱も珍しい。亀のゲーテに言わせれば、地震と雷が同時に起こりそう。
「普段通り可愛い花菱さんでいいと思いますけど」
「あ? 馬鹿にしてんだろ、お前」
花菱はユイの頭を両の拳で挟む。嫌みを言われるのは慣れているので、本気で怒っているわけではない。
「馬鹿になんてしてませんよ。女子力の高い副総長と男らしい花菱さん、なかなかお似合いですって。あたた……」
花菱に頭部を圧迫されたユイは悲鳴を上げる。今でこそ冗談を言い合える仲だが、以前はこうではなかった。縁を結んだのはこの場にいない一人の少女だった。その少女はこの世界のどこにもいない。儚く消えてしまった。
花菱は、親指で歌の聞こえる方角を指す。
「おい、あたしらも唄いに行くぞ」
「えー、私パスです。恥ずかしい」
「恥ずかしがってどうする。これから戦場だ。気合い入れんでどうする」
花菱の根性論に辟易しつつ、ユイも肌で緊張を感じている。開戦は近い。
花菱たちがたどり着くまでに、歌は終わっていた。
兵たちはすっきりしない表情で持ち場に戻る。騎士団の子供達はリヒターと共にその場に止まっていた。
「閣下」
前列中央の少年が一歩前に出てリヒターに進言した。利発そうだが、目から意志の力を感じない。意義を唱えるというより、暗記した文章を読んでいるようだった。
「我々は、怯える羊を宥める牧羊犬に過ぎないのでしょうか?」
「牧羊犬の役割はそれだけではない。もう少し。もう少し待つんだ」
目下を押しとどめるはずのリヒターの方が興奮している。笑いたいのを我慢するような奇妙な裏声で、指示を出す。
「邪魔な狼を追い散らすのが君たちの仕事だ。頼りにしているよ。僕の可愛い騎士達」
騎士団は隊列を崩さず、陣営に移動し始めた。私語一つない静かな行進だった。
取り残されたリヒターはしばらく青白い連山の方角に目をやっていたが急に身震いし、声を振り絞った。
「今、会いに行くぞ、ショータ! ああ……、でももう我慢できないな。どうにかして……、ええい、クソ。やはり同盟などするんじゃなかった」
普段口にしない悪態をつくほど、彼はじれている。教団に入るのは気が進まなかったが、今回の侵攻に参加するために飛び込みでカトーと談判したのだった。それほどの執念が彼には宿っている。
「んー、よく寝た♪」
寝起きの割に声の通りが良い。
アテナはベッドの上で腕を伸ばす。襲撃があってから寝所を変えたが、熟睡することができた。寝付きがいいのでたとえ銃弾が飛び交っていても起きないかもしれない。
アテナのすぐ隣に三毛猫が丸まっていた。どこからか迷いこんだものらしい。アテナは猫を抱き上げ膝の上に置いた。猫はずっしりと重かった。飼い猫のように脂肪がついている。
「悪い奴ほどよく眠るというのはまさにこの事ニャ」
猫がごろごろと鳴いた。アテナは猫の背中をぼんやりと撫でる。
「睡眠は美容と健康に不可欠よ。それより何か用? ミケランジェロ」
猫の赤い首輪にはミケランジェロという名前が、ヒエログリフで彫られている。
「知っての通り、新しい主上が誕生したニャ。神官全員が揃うのは何百年ぶりか、ちと思い出せニャい。箱船回収はカトーに任せてお前も主上にお目通りすると良いニャ」
アテナは寝乱れた髪に手をやって唇を尖らせた。
「できない」
「ニャぜ?」
猫の誘いは任意ではなく、義務の強制だった。それを回避しようとするのは無駄なのだが、アテナは従いたくなかった。
「ショータ君と約束があるから。約束は守らないと」
猫の首が百八十度回り、牙を剥いた恐ろしい形相になった。
「蟻ん子風情が。お前何様ニャ? 誰のおかげでここにいられると思ってる。お前の師匠みたいに肉ごと溶かしてやろうか?」
アテナは奥歯を噛み締め、怒りを遠ざける。大切なもの全てを守るの無理だ。自分は前に進まなければならない。
「お父様には感謝してる。でももうお父様はいないから、好きにやらせてもらう。終わったら会いに行くから、そう主上に伝えておいて」
猫の裂けた口が痙攣しながらゆっくりと元に戻る。それでもうなり声はやまない。猫もそう簡単に引きさがれない事情がある。
「主上はお前に会いたがってる。ぱふぱふがしたいらしいニャ」
アテナは肩を揺らして笑った。猫は事情が飲み込めず、イライラしたのか、軽く歯を立ててきた。
「可愛いわね、男の子って。変わらないんだ」
進軍中、一人になると落ち着かなかったアテナだったが、ようやく懸念が払拭され、腰を落ち着けて戦えそうである。
「伝えることは伝えたから。あとはどうなっても知らないニャ」
仕事は終えたとばかりに言い捨てると、猫の首輪は草木が枯れるようにぼろぼろになり、見えなくなった。その途端、猫はきょろきょろと辺りを見回す。自分の置かれた状況が理解できないらしい。じっとしていられず、ベッドから飛び降りた。勢いそのまま脇目もふらずにふっ飛んでいく。天幕のわずかな隙間から外に出ていった。
アテナはベッドに倒れ笑いをかみ殺していたが、堪えきれずに大笑いした。ようやく自分の時間が始まる。隷属していた時間が終わり、未来への門出がすぐそこまでやって来ようとしていた。
「楽しみだなあ。はやく世界樹の虚に帰りたい」
自分の世界にどっぷり浸かっていたアテナは気づかない。天幕の外で騒ぎが起こっていた。騒ぎは収まるどころか燎原の火のように陣営に広がりつつあったのだ。




