表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あの桜はまだ燃えているか  作者: 濱野乱
あの桜はまだ燃えているか 承前
16/147

ムースエとガンデラ 其の二


「正気か? お前」


ムースエが志願すると、ガンデラはまず疑ってかかった。


ガンデラ以上に、ムースエ自身が戸惑っていた。どうしてあんな不用意なことを口走ったのだろう。ガンデラへの憐憫がわき起こったのか、眠っていた民族の血がたぎったのかは定かではない。


「やめるなら今だぞ」


訂正する機会を与えてくれたのは、ムースエがまだ迷っていると見えたためだろう。


「いいえ。二言はありません」


ムースエはきっぱりと退路を絶ち、討ち入りを改めて決意した。


ガンデラは口にこそ出さなかったが、嬉しそうである。ムースエでもいないよりましだと思ったのかもしれない。戦の経験のある彼ですら、敵地に乗り込むのは心胆を寒からしむものがあったに違いない。


意志を固めてから行動は迅速だった。言葉一つ発さず、駆ける。まるで競い合うように彼らは国境を乗り越えた。


互いの息づかいが苦しいものに変わっても、どちらも弱音は吐かない。軽やかに草を踏みしめると体が跳ねたし、夜風が当たれば、体の熱を冷ますどころか、ますます気持ちを奮い立たせた。


川を渡り、全速力で駆けたのは敵駐屯地の一キロ圏内までだ。グラナダの見張りを警戒して速度を落としたが、杞憂に終わった。グラナダの陣営は静かで、兵は寝入っていると見える。念のため、正面ではなく背後の斜面から侵入した。


白い天幕が立ち並んでいるが、明かりは がついているつのはごく僅かだ。見張りもおらず、簡単に侵入できた。


これは楽勝だな。張りつめていたムースエの心が一瞬だけ、弛緩する。


好事魔多し。ムースエの側の天幕から突如、人影が出てきてまともにぶつかった。刺すような酒の臭いに、ムースエは固まる。相手の眼はムースエを捕らえている。よだれのついた唇が恐怖に痙攣している。叫ばれる。口を封じるべきか。


ガンデラが疾風の勢いで爪を閃かせ、不幸な目撃者の喉を裂いた。温かい鮮血がムースエの鼻先にまで飛んだ。ガンデラは倒れる際の音を防ぐために遺体の両脇を抱き抱えた。そのまま天幕に引きずる。


「何してる! さっさと運ぶのを手伝え」


ガンデラの叱責に怯えながら、ムースエも天幕の布をまくった。


中では男が三人、雑魚寝している。酒瓶がそこいらに転がっていた。ガンデラはムースエの持つ槍で淡々とその三人を冥府へと送った。


「何も殺さずとも……」


ガンデラはムースエの非難が聞こえなかったように、天幕を荒らしている。血を見て興奮したのかもしれない。


「ん? 何か言ったか?」


「いえ……、先を急ぎましょう」


ムースエは無用な血が流れるのが耐えられない。弱々しい神経が自分でも嫌になる。槍についた血を天幕の布で拭ってから外に出た。


巡回する兵はほとんどおらず、便所に行こうとする者が亡霊のように徘徊しているだけだった。彼らもまさか敵兵が侵入しているとは思いもしないらしい。


「教、こう、だいり、の居場所は、は……」


ガンデラは兵の一人を捕まえ、片手で首を掴んで宙づりにした。大将の居所を兵が指さすと、ガンデラは腕に力を込める。暴れていた兵の足から力が抜けた。


「さあ、いよいよだ。ちびりたくなったら言うんだぞ」


「吐きそうです」


「はは、だがよくここまでがんばった。上出来だ。俺もお前も」


ガンデラがかつてないほど豪快に笑ったので、ムースエは気が気でない。ここまで来て見つかったら元も子もないのだ。


兵は嘘をついていなかった。グラナダの旗を立てた一回り大きい天幕に目的の人物がいた。そこだけ警備が厚かったが、他と比べてというだけで、大した兵力ではなかった。


金の鏡台に衣装箪笥、戦場にいるとは思えない煌びやかな家具が配置されていた。


天蓋つきのベッドの端に白い素足が覗いている。明かりはついていないが、女の匂いが充満していた。男臭い所にばかりにいたので、鼻の奥がつんとした。


突然、天幕内にこうこうと明かりに照らされた時は、ムースエだけでなくガンデラすら血の気が凍った。人の動きがあると自動で点灯する仕組みらしい。ひやりとしたが、ベッドの人物が目を覚ます気配はなかった。


「どうした?」


ムースエがベッドとは違う所に見入っているので、ガンデラが近寄る。


丸テーブルの上にガラスの箱が置いてあった。中には白いクリームの載ったケーキが一ホールごと納められていた。ニーベルンデンの国民には甘党が多い。気を引き締めていたガンデラの注意も否応なくそこに吸い寄せられる。


ムースエがガラスの箱に手を伸ばそうとした途端、ぷつぷつと気泡のようなものがケーキの表面に浮かび上がった。目を凝らすとその原因がわかった。ケーキには白い蟻がたかっていたのだ。ケーキを喰い破る勢いで沸き上がってくる。表面だけでなく内部にも巣くっているようだ


「人の趣味をとやかく言うつもりはないが、気味が悪いな……」


ガンデラがあからさまな嫌悪を口にした。


ガラスの箱は密閉状態にあることから、蟻が外から入ってきたとは考えにくい。白蟻は木材を主食にするから一層奇異な感じに映る。薄ら寒いものしか感じない。


何かがおかしい。全く警戒心のない敵とその大将。ここは本当に戦場なのか疑わしくなる。


ムースエが一歩後ろに下がった。その際、ベッドの暗がりに目が入った。


寝ていた女が体を起こすところだった。金髪を垂らし、うっすらと青い両目を開こうとしていた。人間の美醜には関心のないムースエですら、彼女の美貌に一瞬我を忘れそうになった。ネグリジェ紐を肩まで垂らした無防備なその姿態から、脅威は感じない。倒すべき敵というより、教皇の愛妾か何かと言われた方がしっくり来る。


ムースエは何かを訊ねようと手を伸ばしていた。その時、何故か、チェスカのことを思い出した。


チェスカの細くたなびく尻尾を追いかけ、野山を駆け回ったあの頃が、一番楽しかった。結局一度も捕まえられず青春は終わったが、美しい思い出として残っている。


ムースエは自分が何故ここまでたどり着けたのか、ようやく気づいた。


チェスカに認めて欲しかったのだ。たとえどんな間違った方法を取ったとしても、チェスカに自分を見て欲しかった。それがもう少しで叶う。歓喜で涙が溢れた。


「チェス、カ……」


ムースエの恋い焦がれるような言葉がふいに途切れる。


彼の右胸から首にかけて、穴が穿たれていた。何かに喰い破られたような大きな傷口が、彼の体を一瞬で破壊したのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ