亡霊(後編)
ショータは、かつての自分の呼び名を耳にし、目眩を覚えた。とっくの昔に引き払った住所をいつまでも覚えているように、過去はいつまでもついて回る。
「何で……、その名を知ってる」
「何故って、会ったことあるじゃありませんか。忘れるとは心外ですねえ。あの時の貴方はワタクシなど眼中になかったでしょうから無理もないですが」
気安く話しながら、女は包丁の腹を無造作に掴む。そのまま指に刃が食い込むのも構わず力を込める。刀身を血が伝い、床にこぼれる。ショータはあらがわずに相手の動きに任せた。
「それともやはりワタクシの勘違いかもしれません。貴方が遮那王ならワタクシはこうして生きているはずがないのです」
女は失望と共に包丁を払いのけ、鉄板を飛び越えると、ショータから距離を取った。真正面から向き合って初めて、ショータは彼女の正体に勘づいた。
「黒い糸……、思い出した。始末屋を派遣する闇ギルド、黒後家蜘蛛の会。アラクネのジゼルだったかな」
「思い出して頂けて光栄ですわ。ですが、さっきの対応は頂けません。何故あの少女をかばったのです? 貴方ほどの腕があれば、彼女を見捨ててワタクシの首を取ることは可能だったはず」
取れる命を取らないのは恥。それが鉄則といわんばかりの口振りにショータは辟易した。それは始末屋の論理で、冒険者一般に当てはまるわけではない。
「まだ使い道があるから。そう言えば納得してもらえるか」
「なるほど」
ジゼルは、ショータの投げやりな答えにも、幾分溜飲を下げたらしい。それ以上追求してこなかった。
「教団の依頼で僕らを始末しにきたのか」
「いいえ」
始末屋は理由もなく現れない。敵ではないにしろ、同じ部屋にいるだけで薄ら寒いものを感じる。
「女王の依頼で呼び出されました。有事の際は前線で戦うようにと」
「なら僕らを襲撃する理由はないじゃないか」
ジゼルは批判の矛先をそらすように倒れている自分の相棒を指さした。
「貴方の相棒の言葉を借りるなら正当防衛となります。異論があるなら続けましょうか?」
「いや、もういいよ」
平たくいえばジゼルたちは女王が雇った傭兵だ。ショータと立場的には大差ない。争う理由は消滅したかに見える。
「ちょっと待て。そこに倒れている奴は何故、窓ガラスを割った? 表から入ってくればいいだろ」
ジゼルは首筋をかいている。単にかいているわけではなく、傷口を糸で縫っていた。手のけがも治療済みだ。
「あー、これは女王から黙っていて欲しいと言われていたのですが、貴方に発破をかけてくれと頼まれましてね。どこの国の王族も人使いの荒さは変わらないようです」
秘密の依頼を明かすにしては、とぼけたように口の端を曲げている。
ショータは女王に嫌気がさしたが、それ以上に自分に自信が持てなくなった。ディドルートに心配される始末だし、自分では気を張っているつもりなのだが、周りからはそうは見えないらしい。
「ペロペロペロ」
外から入ってきたエチカがショータの頬に舌を這わせていた。ざらざらした舌とすり込まれる唾液に吐き気がこみ上げる。ショータは有無を言わさずエチカの顔を押し退けた。
「何してんだよ。今話し中だからどっか行っててよ」
「唾つけると怪我治るの早いらしい。ペロペロペロ、うまうま」
プロペラのごとく回転するエチカの舌をかわしていると、ジゼルが咳払いをした。ショータはジゼルがいたことを半分忘れかけていた。
「もしかして君もここで暮らすのか?」
「ええ。ワタクシたちも、です」
倒れていたジゼルの相棒がおもむろに身を起こした。眠そうな目をした大柄な女だ。乱れた髪を直そうともせず、落ちていた肉に手をつけている。
しとめ損なったと見たエチカは止めの一撃を加えようとしていたが、足に違和感を覚え動きを止める。腿の包帯に血がにじんでいた。
退出するのにいいタイミングだ。ショータはエチカを負ぶって階段に向かった。
段差が広く作られているため上るのに苦労する。一段一段、ウサギ飛びの要領で上がらなくてはならなかった。
「さっきはありがとね。助けてくれて」
エチカがショータの耳の後ろでありきたりな感謝の言葉を口にした。体を密着させてくるが、エチカの貧相な体では間違いは起こりそうにない。
「殺す気で投げたのによく無事だったよね」
「利用価値があるうちは側にいてもいいんでしょ?」
エチカは事実を自分の都合良く解釈し、受け入れる。それが彼女の良いところでもあるし、悪いところでもあった。
ショータは先ほどの自分の言葉だと信じたくなかった。本音であることに間違いはないのだが、口に出して言うのと思っているのとは微妙なズレがある。
ジゼルとの殺伐とした会話を聞かれていたらしい。エチカの場合、それに付け込むような邪念がないのが救いだった。
「包帯、巻き直してあげるよ。首の傷も治療しよう」
ショータが話をそらすように労いを口にすると、エチカはそれに気づかなかったように首の擦り傷を撫でる。
「首はいい。ショータにつけられた傷だから」
どんなに邪険に扱っても、エチカは許してくれる。認めたくないが、彼女の包容力(曲解力)に助けられていた。それなのにショータは利用価値という物差しでしか彼女を計れない。計り方を知らないのだった。
ようやく二階に辿りついたと思うと、下で騒々しい物音がした。
「またあいつらかな。懲りないね、殺す気で殴ったのに」
「いや、玄関からだ。マルラームさんが帰ってきたのかも」
階段の踊り場から玄関が見下ろせる。ショータの言った通り、マルラームが玄関の大扉を開けて戻ってきたのだ。
マルラームの毛は逆立ち、興奮状態であることが伺える。言葉をかけるのをためらわせる程だった。
「国境沿いの街から煙が……」
独り言のようにつぶやいたが、ショータたちにもはっきり聞こえた。
「煙が! グラナダの軍隊が接近してきてます」




