第02話 雨宿り
「弱ったな……。」
社の軒先から雨空を見上げて呟く。
鳥居を潜った時から雨がポツリ、ポツリとぱらついてはいたが、こうもいきなり土砂降りは予想外が過ぎる。
社務所の巫女さんも驚いたらしい。
御札などが陳列されている販売口から身を乗り出して雨空を見上げている。
恐らく、つい先ほどまで聞こえていた篠笛の音が止まっているところから察するに音色の主だろう。
こうなっては是非も無い。
社務所までの距離は二十メートルほどだが、この土砂降りの中で御朱印を求められては迷惑以外の何ものでもない。
軒先に立っているだけで足元が大地に叩きつけられた雨の跳ね返りで濡れるほどの土砂降りだ。賽銭箱の位置まで戻って、雨宿りするしかない。
ただ、問題は今夜の宿。一人用の折り畳みテントを宿泊手段に用いている身としては雨が振っているだけで辛い。
テントを叩きつける雨音の中で安眠を得られる筈も無いし、雨が止んだとしても地面が濡れているだけで底冷えがする。旅の途中で風邪を患ったら目も当てられない。
今現在の時刻は夕方の一歩手前。
この後は北上して、新潟県を目指すつもりだったが、長野市内で素泊まりが可能な安い宿を探すべきか。
一応、いざとなったらビジネスホテルに泊まれるだけの軍資金は持っているが、それは出来るだけ使わずに済みたい。
日本一周の旅はまだ半ばを過ぎたところ。この先、どんなハプニングが待っているか、余裕は有れば有るほど良いに決まっている。
「にゃーん!」
雨が降ってくる前までのハイテンションは何処へやら。
憂鬱な溜息を漏らしながら顔を下ろすと、珍客の登場。黒猫が雨の中を足早に現れる。
「おっ!? お前も雨宿りか?」
今、境内は俺以外に誰も居ない。
横目でチラリと窺ってみると、販売口の窓を閉めて、巫女さんも社務所の奥へ引っ込んでいる。
猫に話しかけるなんて、人目が有ったら気恥ずかしくて躊躇いを感じる行為。
だが、今はそんな心配をする必要は無い。雨が止むまでの手持ち無沙汰も有り、黒猫を愛でようと腰を屈めながら笑顔で手招きする。
「にゃ?」
首輪を着けていない野良と思しき黒猫はどうやら物怖じをしないタイプらしい。
期待半分だったが、俺の言葉に反応して、軒先の手前で一旦は立ち止まるも視線を俺に向けるとすぐに歩き出して、俺の足元へと近寄ってきた。
犬派か、猫派かと問われたら、猫派と即答で応えられる俺である。
沈んでいた気分が再び上向いて、その頭を撫でようと右手を伸ばす。
しかし、俺は大事な事を忘れていた。
雨に濡れた猫が雨宿りに来て、真っ先にする行動はたった一つしか無いのを。
「ちょっ!? ……痛っ!?」
黒猫が目の前で身体をブルブルッと素早く振り、体毛を濡らしていた水滴を飛ばす。
その直撃を間近で受け、反射的に開いた両手を顔の前に翳しながら上半身を仰け反らすが、その拍子にバランスを崩してしまい、背後のステンレス製と思しき賽銭箱が鈍い音をボワンと鳴らす。
視界全体に火花が飛び散った。ここが室内ならのたうち回りたいほどの痛さ。
尻餅を付いた際、強かにぶつけた後頭部を抱えて蹲り、その痛みが治まるのをただただひたすらに待ち続ける。
「にゃっしっしっし!」
やがて、三十秒ほど経っただろうか。
痛みがようやく治まり、頭を上げてみると黒猫がまだそこに居た。
それも俺と目が合うのを待って、一鳴き。
気のせいだろうか、その鳴き声がしてやったりと俺を小馬鹿にする様な笑みに聞こえた。
猫が笑うなんて有り得ないが、可愛さ余って憎さ百倍。右拳を振り上げながら勢い良く立ち上がって怒鳴る。
「こらっ!」
「にゃっふーん!」
だが、黒猫は小憎らしいほどに狡賢かった。
俺の脇を素早く駆け抜けると、その跳躍力で賽銭箱の上へ飛び乗り、更にもう一飛び。薄暗い本殿の中へと逃げて行く。
「あっ!? 卑怯だぞ!」
「にゃっしっしっし!」
こうなってしまったら、もう俺は手も足も出せない。
本殿へ上がるのは畏れ多すぎ、せめてもの反撃に怒鳴り声を薄暗闇に向かって飛ばすが、所詮は負け犬の遠吠えに過ぎなかった。
******
「どうせなら温泉に入りたいよな。でも、この値段はちょっと……。」
雨が振り始めてから既に三十分。勢いは弱まったが、なかなか降り止まない。
今夜の野宿はとっくに諦めて、スマートフォンをポチポチと操作。長野市内の安宿を探していた。
やはり、京都や大阪などの大都市に比べたら宿泊費の相場は圧倒的に安い。
これなら財布に優しくて躊躇いは少ないが、条件が少しでも良い場所を求めている内に検索範囲は長野市周辺に多く存在する温泉街へと広がり、その温泉街故の割高な相場に葛藤を深めていた。
「んっ!?」
そんな最中、自分が腰を下ろしている拝殿の石階段に小石が飛んできた。
足元で鳴った石と石が軽くぶつかり合う音に集中力が途切れて、スマートフォンから視線を上げる。
あとから振り返ってみると、これも明らかな怪奇現象。
音が鳴ってからの認知である為、正確な方向は解らないが、小石は正面から飛んできた様に思える。
少なくとも左右からでは無い。
左右から飛んできてら、階段にぶつかった後に小石は左右のどちらかに転がる筈だが、小石は階段の正面に跳ね返っている。
だが、この社の正面には小さな社が建っている。
その社と俺の間の距離は五メートルも離れておらず、誰も居ない。どう考えても正面から小石が飛んでくる筈が無かった。
「おおっ!? さすが、川中島!」
しかし、その怪奇現象に気づく余裕は今の俺には無かった。
いつの間にか、前方の社すらも霞んで見えないほどの濃い霧が立ち込めており、まるで自分と世界が隔絶された様な感覚に驚くと共に感動で胸が一杯になっていたからだ。
なにしろ、川中島の戦いと言ったら、第四次川中島の戦いであり、第四次川中島の戦いと言ったら、上杉謙信と武田信玄の一騎打ちである。
その最大の立役者こそ、この濃霧だ。上杉謙信は濃霧を隠れ蓑にして、十重二十重に守る武田軍の陣中を一気に駆け抜けて、武田信玄が指揮を執っていた本陣に対する奇襲を見事成功させている。
こう言ったら大袈裟かも知れないが、この濃霧が今現在と川中島の戦い当時を繋げている様な気分。
テンションはアゲアゲのアゲアゲでマックスを突破。羞恥心など投げ捨てて、鬨の声を挙げながら走り出したいくらい。
また、雨もいつしか上がっていた。
夏の雨上がり特有の蒸し暑さを感じながら拝殿の軒先から右掌を差し出してみるが、雨粒は一つも落ちてこない。
だったら、次は待ちに待った御朱印だ。
その姿が濃霧で完全に見えなくなった社務所へ歩き出すが、五歩目で立ち止まる。
「えっ!? マジかー……。」
なんと御朱印帳が入った巾着袋を開いてみれば、その中に入っていたのは表紙が赤い御朱印帳。既に全てのページが埋まった満願済みの二冊目ではないか。
出鼻を挫かれて、テンションが少しダウン。今現在、御朱印を収集している三冊目の御朱印帳は表紙が蒼の為、中身を開いて確認しなくても間違いと解り、思わず溜息が漏れる。
入れ違いが起きた原因はここを訪れる前、上田市の生島足島神社で御朱印を頂いた後に立ち寄った蕎麦屋だ。
天ぷらそばを注文したが、なかなか運ばれてこずに暇を持て余してしまい、ここまでの旅で頂いた御朱印を鑑賞した時しかない。
ここの神社では予め用意された所謂『書き置き』の御朱印が用意されているのは知っている。
だが、俺は『書き置き』を御朱印帳に貼り付けるよりはその場で墨書きして頂く御朱印の方を好み、その為なら駐車したバイクまで戻る程度の手間は惜しくない。
「しゃーなしだな。戻るとするか」
気を取り直して、雨に濡れた石畳を蹴って駆け出した。