結婚相談所
第 一 章 結 婚 相 談 所
某国の平成という年号のある年、折しも韓流ブームで、殿様キングス張りの韓国男性5人組みコミックバンドが歌う、昭和という時代のあるカバー曲がヒットしていた。
♪ そらトンカツ みどりニンニク かコンカツ まれテンプラ かろやかに おどルンバ 白亜の 白亜の ホワイトパレス
「ホワイトパレス愛の真実」という歌で、歌詞はコミックソングだが、それとは裏腹に情感豊かにムードコーラス張りに歌っていた。
その年の初夏、ここはとある地方の小都市である。往古の地名でいうならば、下野の国の足利郡といったところである。北部に起伏に富んだ波打つ山並みがどこまでもどこまでも遙か雪国まで連なり、緑豊かな山容は脈々とし、遠方に向かえば向かうほどほど空の色に近づく。南部は豁然たる関東平野が広がってゆき遙か彼方に東京湾が位置する。東京湾といっても百キロ以上離れていて、海には縁遠い土地である。この地は関東平野を北へ辿ると最初に樹木立つ山岳地帯に移行する辺りである。
街を二分するように中央に広い河川敷の川が東西に横切る。河北が旧市街地で、河南が新市街地である。旧市街地は落ち着いた雰囲気といおうか閑散としている。大型店の郊外進出でシャッター街化しているよく地方にみられる傾向である。うなぎの寝床と称されるような本通り沿いに東西に細長く延びた商店街は、シャッター街と化した区間がところどころに存在する。単なる通過地点としてのクルマの往来だけは多い。店舗は連なっていても、行き交う人影は田舎の畦道のようにまばらで人々の熱気はみられない。熱気を感じるとすれば、日曜日ごとに開かれるあるスーパーの十パーセント割引の朝市である。このタイムサービスの時間帯だけは、日頃この人たちはどこに潜んでいるのかとびっくりするくらいに、各売り場は雨後の竹の子のように人集りで賑わい、1・2・3・4・5・6・7・8の各レジはフル稼働し長い列ができている。
旧市街地の中央には、地元の人たちが学校様と呼ぶ日本最古で奈良時代から始まり儒学、医学、兵学などを教えた総合大学の史跡がある。そのすぐ北側には大日様との愛称で市民の憩いの場となっていて元々鎌倉時代には武家屋敷であった、堀と土累に囲まれた寺院がでんと構えている。学校様には開学していた往時は最盛期で全国から三千人に及ぶ学びの徒が集まったというから、かつては古都としての賑わいがあったのだろう。今は、三方を都市部に囲まれ、通勤に程良い距離のベッドタウンといったところである。
彼、鈴木義典は四十五歳、県の出先機関である保健福祉事務所で医療行政や統計を担当している。兄弟はなく未婚で父親と二人暮らし。女手がない分家事などやることが増えるが生活自体シンプルで男所帯は気が楽なのだ。
彼は食事をいつもどうしているのとよく聞かれるが、昼食は外食になるが、夕食については、焼いたり煮たり、漬けたりと簡単な手料理やスーパーの調理品を食卓に載せている程度である。好き嫌いなく食べなさいとは、母がよく言っていたことであり、体一貫生きてきた身でもあり、健康のために食べ物は偏らないように心掛けているのである。料理は凝ったものではないが、父が料理しているおやじの味である。レパートリィは多くないが、味付けはおふくろの味とあまり変わらない。彼の家は薄味で、特に辛いのは苦手だ。父は台所仕事を好んでやっているようだ。それは戦前の大家族で育っているので、子どもの頃お手伝いで台所仕事の素養が培われていたのかもしれない。料理の大部分は母から教えてもらったのであろうが。教えてもらったというより、自営業の父は家で共働きだったので仕事の傍ら余裕のある時は手伝っていたのかもしれない。父が台所を手伝っていたところを見てはいないが、どうもそう思う。彼はなにげにその父のレパートリィから教えてもらっている。
家事は分担してやっている。といっても父親は年金暮らしでこれといって趣味があるわけでもなく、楽しみといえば老人会くらいなので、退屈しのぎにもなるかと思い食事の支度だけはほとんど任せている。彼も料理はたまにするが、湯豆腐、ゆで卵、納豆をといたりと、簡単に茹でたり、グリルで焼いたりの手料理で調理器具の後かたづけも含めて三十分程度で済ませられるものくらいである。湯豆腐のあっさり味をよく舌で味わうのである。父親はりんごの皮むきなど包丁を器用につかえるが、彼はどうもそれが苦手だ。彼の三十分程度の料理でもやるとなると結構忍耐がいるが、どうやったら食べやすいか、味付けはどうかなどは気配りをするまでの料理ではない。しかし料理はちゃんとやれば、ささやかであっても家族への愛情の表れだろうと思っている。
食育とよくいうが、食べるだけでなく、台所仕事もやると忍耐力は育つし、いかに効率よくやろうかと工夫はするし、家族への愛情も育まれていい修行になると思うこともある。そうもっとも気なことを言ったところで、たまに高々三十分程台所に立っているだけでは洒落臭さいにすぎない。
彼はこの歳まで独身であるが、結婚願望がないと言ったら嘘になる。父親は息子の結婚については何も語っていない。結婚について心配しているのかいないのかさっぱりわからない。黙して語らずなのか。反動でまぁ、少しは言ってくれてもいいものなのにと思ってしまうこともあるのだ。結婚するとしたら八十歳を越す老境にある父のことを思うと、一人残しての新婚生活は考えられず、同居を希望している。
また、職場は保健福祉関係で、保健師、栄養士、薬剤師など女性は本当に嫌というほどいる。異動してくる前の職場と正反対である。しかし、既婚者が多かったり、独身者は歳が離れ過ぎていたりする。彼にちょうど見合う年頃で独身女性はいないことはないが、七十人はいる職場だと、仕事の絡みがないと近づきにくい。
あれは三十代に入った頃だった。友人から嫁の友達だという、適齢期を少しばかり過ぎた女性を紹介された。会計事務所に事務員として勤務しるが、箱入り娘同然で男を知らないからと予備知識を与えられた。会話がかみ合わないことがしばしばあったが、無垢な気持ちを残す淑やかな娘だった。無垢な気持ちに惹かれ結婚を考え真摯に付き合ったが、でも無垢だから、そのせいか親や世間体を気にしすぎる娘で、押し切って結婚にまでもっていけなかった。いつの間にか交際は尻すぼみになっていた。
結婚相談所から勧誘の電話は時々かかってくるが、皆その場で断っていた。結婚願望はあるけれどもそれも微妙なところ。でも、年齢を考えると一度結婚相談所へ行ってみてもいいといくらかその気にはなっている。そういう気持ちになっている時に前向きに行動した方がいいのかもしれない。そう思い、一応職業別電話帳で調べてみると、市内に幾つか結婚相談所があった。物は試しに一つ市内中心部にあるところを選び電話してみると、一度来てみてくださいと誘導された。
面接の日時と場所を告げられたので、さっそく行ってみた。そこは、テナントの入ったビルの二階の一室にあった。相談所は、スペースは和室に換算すると二十畳程度はあり、奥の方に応接セットと事務用のデスクが置いてある。子育てが終わったような年輩の女性が一人で対応している様子である。会費や紹介のシステムの説明があり女性登録会員の写真付の登録票をみせてくれた。いきなり分厚い登録者の一覧を見せられぐっと来ていると、相談員はぱらぱらとめくってゆき、とびきりの美人会員というところを、これ見よがしに開いた。モデルのブロマイド写真をみているようで思わず身を乗りだし見入り、気持ちは高ぶったがやがて冷静になった。相談員は、ほくそ笑みながらあれやこれやと説明している。見合い相手は、モデルのような美人より身近にいるような日本的な美人のほうがいいと彼は胸の内で呟いた。これはけっして強がりでも何でもない。美人と高峰は遠巻きに観賞するに限ると思うのである。料金システムの話になって入会金や紹介料を聞くとちょっと高い。三十万円が入会金で成婚になればお祝い金がでるという。即答せずに一応書類だけはもらって帰った。
次に、もう一箇所電話をかけてみた。郊外にあり場所が分かりにくい所だというので、相談所近くのスーパーで待ち合わせることになった。電話ボックスの傍で、夕方なので目印にスモールランプを点燈させておくことにした。彼は、約束の時間より五分程早く着いて、クルマの外で立って待っていた。初対面となればこれから世話になる方が、どんなひとなのか気にかかるところである。年齢は幾つぐらいで、面倒見のいいひとだろうか、それともあくまで仕事としてビジネスライクなのだろうか。紹介されてどう進展していくかは本人同士の問題であるが、場合によっては仲をとりもつひとも重要になってくるだろう。しばらくして、白のセダンが横につけた。熟年の男性が降りてきた。まだ見知らぬ者同士だったが、互いに軽く会釈を交わすと、彼は名前を呼ばれた。
「はい、そうです」
「私が、中山です。よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」彼は深々と頭を下げた。
「それでは、私の後をついてきてください」
「はい」
挨拶も早々に相談所へと向かった。クルマは商店街の道路から山間部へと進路をかえた。緩い坂道で、どんどん山奥へと向かっていく一本道である。途中道沿いに民家や小さな工場や医院、郵便局などがぽつりぽつりとある程度である。川沿いに道路が走っているが、このまま行くとダムまで行き着くはずである。街の喧噪を離れたのどかなところであるが、ひどく時間がかかるようだと、入会しても足が遠のくばかりで、ほとんど利用しないということになりかねない。しばらくするとクルマは左へ折れた。信号がなくどこで曲がったかもわからない。薄暗くなっていたがこの道は街灯すらない。山間の道路は、道ならぬ恋の女性とお忍びで連れ添う、ひなびた温泉地にでも行ったような風景だ。彼は商店街を通り抜け五分程度だというのに心細くなり引き返したくもなったが、ここまで来たからにはとにかくついて行くことだと観念した。しかし山中の道を運転する心細さもつかの間で、ほどなく自宅兼事務所につきほっとした瞬間「はぁ」と息を漏らした。初めて通る間道は目印にするような建物はなくわかりづらく、結婚相談所の看板も掲げていなかった。家の北側に山が連なり道をはさんで南に山間部を切り開いた農地が広がる。旧家の家づくりの古びた冠木門で時代劇にでてくるような趣があり、屋根は今時ほとんど見られなくなった藁葺きの家だった。中山間部のせいか違和感がない屋根だった。かつてはこの地区の農家の庄屋的な家だったのだろうか。それにしてもなんと辺鄙なところか。しかし、考えようによっては、ここなら人目も気にせず入ってゆけるので大いに気に入ってしまった。客間に通され、前の所と同様、料金やシステムの説明を受けた。
「入会時に三万円、月会費が五千円かかります。成婚が決まったときは三十万円納めていただくことになります。会費を納めに来たときにでも、ここに会員名簿がありますから、気に入った方好きなだけ選んでください」
こちらの方が入会金はかなり安い。成婚すればそれ相当の金額を支払うことになる。彼としても結婚が成立してからでないと高いお金は払えない。当初は三万円でいいならば無理がない、婚活に食指が動く金額だった。
相談員は会社を定年退職された方でやや細身で風格が漂うが、話し方が超スローで聞いていると思わず頭がこくりとなり眠気を催してしまいそうである。いつだったかテレビの報道番組でゲストコメンテーターをしていた戦場カメラマンと、張り合っているような話のピッチの遅さである。中山間部での生活が悠然とさせているのか、都会人離れの純然たる田舎人のなりである。しかし事務的ではなく相談もしやすいと気持ちは傾いた。
「結婚相談所はご利用になったことはありますか」
「いえ、ないです」
「いま、付き合っている彼女はいますか」
いたら来ないと思った。いてもいるとはいわないでしょうと逆に尋ねたかった。念のために聞くことになっているのかもしれない。後でトラブルにでもなったら相談所の責任にもなりかねないし厄介なことになる。
「いえ、いません」
「よろしければ書類をお渡ししますが」
「はい、じゃお願いします」
「規約書ですね。これが契約書。あとプロフィール書いてもらいたいので、これにお願いします。写真を載せますから胸より上の写真を撮ってきてください。ここでも写真は撮れますので、よければ」
どうせなら写真はプロの写真店で撮ってもらいたかった。
「写真は撮ってきますので、また来週にでもきます」
「来週の日曜日十時でいかがですか」
「はい、大丈夫です」
優しい人がいいとは常々思っている。将来親の面倒もみてもらいたいし、再婚で子どもは一人や二人くらいなら生活費はなんとかなりそうだ。年は同年代で年上でもよかった。見合いの席はかしこまりぎこちなく苦手だが、始まったからには、まずは希望に沿った線で活動していこうと帰路クルマを運転しながら気合いを入れたのだった。
数多の会員の中からまずプロフィールを見て判断することになるのだから、プロフィールがかなり重要なポイントになると思い計った。相当な金額をつぎ込むことになるので、真剣に記入用紙に書き込んでいった。項目は年齢、学歴、職業、年収、血液型、資産、家族、同居の有無、趣味、自己PRであった。年収といっても源泉徴収票は手元にないし、手取りから大まかに計算するしかない。この辺の勤め人ではたかが知れているし、その辺は適当に書いておいた。資産などととんでもない項目があるが、具体的に書く必要はないとのことで、資産などは人に言うほどないので見栄を張らず「少々」とだけ書いた。ごく普通にみてくれればいいとの思惑で書いた。父との同居は絶対に譲れなかった。それから「結婚生活は堅実に質素倹約がいい」と、親世代がいうようなことで今の時代に受けないことを熟慮し承知の上で書いた。
写真は証明写真の看板の出ている店が、大通りにあったのでそこで撮った。駐車場が見当たらずクルマを向かいの料理屋の駐車場に止め、持ってきた一張羅のスーツの上着に袖をとおした。写真店の中に入ると三十代のポロシャツ姿のスラリとノッポな店主が、奥から通路を所狭そうにのらりくらりと出てきて、カウンターのショーケースを挟んで立った。暇を持て余しているところに、やっと客が来たかというようにまぶたが半分閉じている。
「いらっしゃいませ」
「写真撮ってもらいたいんですけど」
「はい、証明写真でしょうか」
胸から上の写真だったので証明用の写真としてサイズを告げた。
「はい、わかりました。椅子を置きますから。こちらに掛けてください」
声をかけは丁寧にしてはいるものの、まだエンジンがかかってないとみえて気だるそうだ。
「背中がそのスクリーン側になります。横向きに座らないようにしてください。そしたらカメラを調整しますから」
カウンターの横に照明と白い布の背景が設営されている。「横向きに座らないように」というのは、壁に掛けてある鏡の方を向いて座らないようにという意味なのか。彼はその鏡を見ながらほっぺたを目一杯持ち上げてみた。それを見て
「何かおかしいですか」と店主は笑いを堪えながら言う。
鏡を見て作った顔を崩さないようにしながら、証明写真用の丸椅子に背筋をピンと伸ばして掛けた。口角を挙げてレンズを見続けた。証明写真は真面目顔ではどうも写りが良くないのだ。
「顔をもう少し左に傾けてください。そう。それで真っ直ぐです。カメラを見ていてください。右肩を上げてください」
やっと来た客のポーズにいろいろ注文をつける店主である。ようやくエンジンもかかり出したようだ。
「撮ります。はい、結構です。もう一枚撮りますね」
続けてシャッター音がした。彼は相変わらず鏡を見てつくった顔の形を崩さず不動のままである。
「はい、これで終わりです」
彼は軽く吐息をつくと同時に顔を崩した。
「どうもありがとうございました」
一礼をして立ち上がった。
「すぐできますから、お待ちいただけるとかなりありがたいのですが」
ばかにお客を大事にする物言いである。写真は二枚一組で渡され、焼き回しする時は一枚からできるという。
出来上がった写真をみると、何かよく撮れすぎのような感じがした。やはりプロが撮ると違う。パスポートの写真の時もよく撮れすぎだと職場のみんなに笑われたことを思い出し、贅沢な笑みを浮かべた。少なくとも見合い写真だから疲れたような顔をしているよりいいことは確かだ。
一週後の日曜日、写真や自己紹介を書き込んだ個人票など必要書類を携え再び結婚相談所を往訪した。早速登録するということで、見合い希望者を今選んでいってくださいという。全国ネットになっていて登録者綴りは何冊かあるようだが、最新のものを出してくれた。女性写真のオンパレードである。これだけ豊富な中から選ぶのは至難の技である、と同時に大船に乗ったような気になった。
目移りしていけない。メインディッシュやらドリンクやらデザートやらファミレスでメニューを選ぶより時間がかかる。気を利かせた相談員さんが、
「すぐ選べないようだったら、お貸ししますから、持ち帰ってもいいですよ」
相変わらず、牛歩のようにゆっくりと重く歩み寄るような声が届く。彼は声が届くのを待ちかねたように長いうなり声交じりに言った。
「そうですか。うーん、でもここで選んで行きます。持ち帰ってもねぇ…」
家で浮き浮きしながら決めるのもいいと思ったが、この遠隔地へいつ返しに行けるか分からないのでそれは遠慮した。
顔でないことはわかっていても、どうも顔に意識がいってしまう。資格を持っている女性も格好いいと思う。格好いい悪いで選ぶべきでないと思うが、惹かれるものがある。遠距離はご免被りたい。時間を掛けてまでも見合いをしに行きたいとは思わない。ページは押し黙ったままめくられていく。時間だけが過ぎていく。
「結婚というのは子孫を残すことでもあるのですよ。子はかすがいとも言いますしね。結婚で恋愛感情から現実の生活へと移行するとね、女は愛情が、男はしっかりとした価値観をもつべきだと思いますね。余計なことですけど」
急にそう言われてもぴんとこなかった。おそらく身の上相談のようなこともこなしているのだ。彼は人生のパートナーとして互いに補い合えればいいと考えていた。
「五、六人選んでいっていいですよ」
五、六人といっても、一度に何人も付き合うほど器用でない。ぜひとも見合いを成立させてくださいという願いでどうにか三人選んだ。
「見合いが成立したら連絡します」
「はい、お願いします」
選び終わったので一言歯切れよく応答した。やっと一仕事終えた感じだった。
正式に入会手続きを済ませたので、名簿には来月分から掲載されるという。希望した相手方からの返事はその後ということになる。
一ヶ月後月会費を納めに相談所を訪れた。
「こんにちは。庭がよく手入れされていますよね」
相当手間暇かけていることがうかがえるような、通路以外は庭一面が手入れされた花木でおおわれているのだった。
「趣味なんでね。けっこう力仕事なんですよ。どうぞ上がってください」
応接間に通され、麦茶が差し出された。
「あつい日が続きますね。申し込んだ方なんですけど断られてしまいまして。残念ですけど。返事のない人もいるんですよね」
返事くらいもらってくださいよと言いたかった。登録して間もないので、これから返事がくるのかもしれないが、それを待ってもいられない。会費を納めた後、今月分の活動として登録者綴りを、最新の登録者から一ページ、一ページ隈無く見ていった。年齢、居住地、家族…、
「登録したばかりの女性は申し込みが殺到するんですよね」
「そうなんですか」
それを聞いて登録の古い方へとページをどんどん遡っていった。
「この人六十三歳ですよ。ずいぶん若作りですね。今の写真じゃないでしょう」
「うーん、この人はそうですね」
三十代か四十代としかみえない写真を掲載するとは、女心なのだろうか。
「歳相応でいいんですよね。年上でもいいですけど。六十三じゃあね」
写真を掲載してない女性もいる。人目につくことに抵抗があるのかもしれない。彼も写真で顔を出したくなかったからそう思う。
この日は近県で未婚者と子のいない離婚者を全部で五人ばかり選んで帰った。
結婚相談所に登録したとはいえ、見合いにこぎつけることさえままならない。会員として活動を始めてまだ短いが、結婚願望が尻すぼみになりそうなこの二カ月は「こんなものなのか」と、思うほどのことではない現実があった。その上で、投げたボールが返ってこないことに「どういうことなのか」と納得がいかないのであった。その辺のことを疑問に思って、よって来る理由を考えてみると、女性側は一度に何人も申し込みがあっても同時に付き合うことにはいかず、一度も会わずに断っても当然なのかと理解できる。それで、ひょっとしていい出会いを逃しているかもしれない。会員数が多いのも困りものという一面がある。そうだとすると、見合い話がやって来る気がしない。何がどうであれ一度は会ってみたい。会うくらいは会ってもいいではないかと愚痴がでるばかりであった。相談員にどんなことでもいいからもっとしつこく推してもらわないと埒があかない。
「もしどうしても見つからなければ個人的に紹介しますよ。懇意にしているひとから個人的に娘さんのことで頼まれているものですから。親御さんは市役所勤めのいい人ですよ」
裏技があったのかと色めき立ったが、これもお墨付きとは言えないだろう。
「ありがたい話です。もう少し、今のまま活動してみます」
まだあせることはない状況であり、いつか御対面となる日への幾ばくかの憧憬や期待は捨ててはいないのであった。
それにしてもお膳立ては済んだ。あとは目の前の料理に手を付けるだけのはずだったが、無惨にもおあずけ状態なのである。見ているだけでは腹の足しにならない。
親と同居というだけではじかれてしまうのか。父親のことは譲れないにしても、結婚生活は質素倹約がいいというのは芳しいコメントじゃなかったかと考え直してみたものの、それは彼の信条でもあり譲れない。
つい、一、二年前のことである。仕事に対する得も言われぬ倦怠感や空虚感に苛まれていた。なにか物足りない。渇いた心が満ち足りない。ぽっかり空いた穴を見ているような空虚。感出先機関の総務課で歳出業務に携わっていたときに歳出伝票の処理など単純大量反復業務に嫌気がさしていた。大きな組織のなかでは、がんばっても認められない、言ってもわかってもらえないことが多いし。やりたいことがあっても組織の存在の大きさに跳ね返される。職場と中年の倦怠に苛まれていた。遊び、趣味、仕事と一通りやってきて目標を失った空虚感で鬱々とした日々を送っていた。思えば彼の子どものころでも習い事の裾野は広がっていて、親の勧めで近所の先生のもと、書道や絵といった習い事に言われるがままに通っていた。取り上げて言うほど達者ではないが、習い事に通うこと自体が目標であった。社会人になってからも何かに目標をおいていた。いろいろ手をつけても徒労に過ぎなかったことがいくつもあったが、とにかく何かに向かって歩んできた。それなのに今は目標が見いだせないのだ。その上人望のある同僚が褒められたり、他人の恋愛話を聞いたりすると、周りがみんな楽しい人生を送っていることへの妬ましい気持ちや自分の無力さに気持ちが落ち込んだのだった。それは、拠のない家出少年のようなわびしさでもあり、心のよどみは出口を失っていた。
持て余した空虚な日々。安閑としていていいのだろうかという疑問。こんな気持ちから何とか脱却したく、先人の生き方にすがろうと図書館で本の背を追った。そうしているうち、なんとなく手にして読み始めたのが良寛さんの本だった。
良寛さんは、江戸後期の禅僧・歌人である。のんびり生きよと教えてくれる。天然自然の理に従ってあるがままにのんびり生きよと。地位や名誉などなんの役にもたたない。大切なのは誠意ある。身を挺し、すべて身を謙譲に処して生きている。純真・無欲の人柄なのである。半年を大雪に埋もれて住む越後山中の五合庵で行乞によって得たわずかな米塩によって生きた。生涯を托鉢僧としておくり、自然や子どもを友とし歌や詩に託した。今の世でも足を知ることが言い伝えられている。
彼は物に執着して心の重要性を蔑ろにしていることを改めるべきだとつくづく思った。良寛さんが僧に非ず、俗に非ず、ひとりの真の人間としていきていることにいたく共感をしたのだった。今その生き方を貫こうとしている。上を見たらきりがない。身の程を知れだ。やりたいことは一通りやってきたじゃないか。欲や見栄でがんじがらめになりそうな自分と自問自答しながらわき目もふらず読んだ。これは、自分とは一体何なのかという根本的な問いかけでもあった。これからは寡欲人を目指してもいいと思ったほどの内容の本だ。それが自分に合っていると心底思えたのだった。さながらにして共感できたのは、父との二人だけの生活で、老人の物持ちがよく、今あるもので生活を満たしている質素な生活ぶりに慣れていたことも手伝っている。
しかし年寄り中心の生活は無駄遣いせず金が掛からないが単調である。仕事も家でも単調でほとほと退屈しきっていたところでもあった。欲望やら何やらエネルギーを持て余している。だからこそ、慎ましくも一生勉強のつもりで、自分づくりの旅をしたいと思い立ったのだった。
その後彼にはもう一つの出会いがあった。彼はかねてから、知人から聞いて一度参加してみたいと興味を持っていた、ある寺院で月一回開いている寺子屋に行ってみた。これは、彼が小学校六年生の時に半年ばかり教えてもらった先生であり、お寺の住職でもあった恩師が主催しているものである。先生はいわゆる名物先生といっていいのだろう。五十メートル走で速い男子にはパンツ一枚で走ればもっといいタイムがだせるといって走らせたりしている。これが女の子や遅い子に対してやったら問題であるが、勿論そこまではやっていない。校長先生が生徒の授業中一人で校内の草刈りをしていた話など大人たちのちょっといい話を時々してくれたことが印象にある。信念のある毅然とした教育をしていた。
お寺の周囲は田畑でのどかなところであった。寺子屋では、受付で名簿に名前を書き、謹みを禁じえない足取りで上がり、幾列かに並ぶ横長の座卓の一番前の席についた。無用なものは置いてない、真新しい畳の広い和室に五十人は集まっている。お年寄りで膝に痛みを抱えている人には椅子が用意されている。かなりのお年を召されている恩師も椅子に掛け、ずんぐり体型に袈裟を纏いての法話だ。
始めに姿勢を正し座禅の時間があった。姿勢について何とも言われないので、難しく考えず知人に倣い正座し両手を膝の上で重ね目を閉じた。驚くほど静寂な時が流れる。何も考えず心を無にする時間の中で、透明な吐息と田園を吹き抜けた微風だけがそよそよと耳に届く。そう他人には言いたいが、薄目を開けて横目で隣の様子を窺い、涼しくなっていたのでもう一枚着てくればよかったなどと雑念は拭えない。やがて「チン」と御リンの音が鳴り、横目で隣をみると座禅が終了したのが判った。それから般若心経を唱和してから法話が始まった。
恩師は法話をよく通る声でかくしゃくとして語った。恩師の歳はかなり高齢者になると思われるが、当時とほとんど変わってない元気な様子だった。教え方は、元小学校の先生らしく板書した字を指さして声を出して読ませることをしていた。例えば「聞 思 修」と書き、一字、一字指さし全員で声を出し読んだ。声が小さいともう一度繰り返した。そして字の意味を講釈した。板書を使った教え方が小学生の頃と同じで、童心に戻った感じがなつかしかった。
帰り際戸口のくつ脱ぎ場は雑談の声でざわざわしている。常連とみられる参加者の中にはご住職に歩み寄り話し掛ける姿がある。初参加である彼は、せっかく来たので気恥ずかしいながら息を潜めご住職に寄ってゆき、軽い咳払いで気を入れ、一言だけ挨拶をしてご住職の教え子であることを告げると、「おうそうか、喝を入れたぞ。また来てください」と力強い言葉で直々に励ましを頂いた。三十年も前のことであり、数え切れないほどの生徒を教えてきている中で、たぶん覚えてはいないと思い、彼は「ありがとうございます」とだけ返した。講演を聴くという感覚で来た彼にとって、ほんの短い時間恩師と言葉を交わしたこと、これは夢に描いていたことではないが夢のようであった。
高齢になった現在も、昔と変わらぬ恩師の毅然とした様子そのものに人生を教えてもらった気がした。そんな恩師の言葉一つ一つが現状への不満よりまず前に踏み出すことの勇気を与えてくれた。何かが腑に落ちる感覚を覚えたのだった。
恩師は「にんげんだもの」の著者相田みつをさんとは、共に仏道を学んだ道友であり、夜間の大学で学んだ学友であるという。市内中心部に小高い織姫山があり、山頂付近にはホワイトパレスと呼称を持つ簡易休憩所にしては少し大きめな白塗りの建物や、中腹には山の緑に朱塗りの社殿が映える織姫神社がある。大正ロマンや昭和モダンによって引き立てられた着物の銘仙が、この地域で全国規模の生産を成した頃、機織りに携わっていた女子達が、結婚、家庭、自立など色とりどりの乙女の祈りを捧げたであろう神社である。その山の辺の道路から一段高くなった狭隘な土地に日赤病院があり、そこから坂を下ると大きなけやきが一本こんもりと茂ったお寺がある。
このお寺のご住職は、福井県の永平寺の出で、禅師になれる程修行を積んだが、高僧にはならずこの街の中で難解と言われる道元禅師の正法眼蔵を語りかけ訴えかけた。相田みつをさんは、そのご住職の説法を三十数年間にわたり毎週毎週一日たりとも休むことなく聞き続けたという。そして、難解な正法眼蔵を飾らない俗っぽい言葉でわかりやすく書道として認めた。それを一冊の本にまとめている。にんげんだもの、ころんだっていいんだがな。つまずく方が自然なんだがな。こうして自己受容し、飾らない自分をさらけ出す。そうすると自己肯定できる。自分が許せるから他人が許せる。即ち他者に期待過剰にならない。相田みつをさんの話をしながら恩師はそう諭した。
他者に一方的な期待をかけ、裏切られた時に煽られるうっとうしい感情は苦痛なだけである。これからはおしゃべりばかりしていて仕事を押しつけてくる同僚も、細かいことをいう上司も許せるようになるのかもしれない。そのためには、仏法を生活の中でいかに実践するかに係わっている。肝に銘じた。
彼の父は八十二歳になる。まだまだ自立して生活できる。贅沢はせず粗衣粗食なのがいいのだろうか。偏った食事でもないし、生活習慣病には縁遠いような食事である。母親代わりだといって、買い物と食事の支度はまめにほとんど引き受けている。彼はそれが無趣味である父の生き甲斐で、ボケ防止になると信じ甘えているのだった。手の込んだ料理でなくシンプルであるが、肉、魚は適当にバランスよくだす。大根を浅漬けしたり、キャベツの千切りしたりの野菜、果物も欠かさない。時々彼の家にとって珍しい煮物などが食卓に並ぶことがあるが、隣のおばちゃんや職場の同僚からもらったものである。毎日トースターで焼いた焼きニンニクをだしてくれるのがにくい。彼は子どものころ風邪をひきやすい体質で、夜中でも熱発で父の自転車で病院に連れて行かれた記憶がある。今でも言葉には出さないが気を使ってくれているのである。毎日の食事にも割と気を使っている父親である。母親からの養育の恩は勿論であるが、二人暮らしになって父親にも養育の恩を受けているのをこの歳だからこそ感ずるものがあるのだった。
夕方になると父は台所でラジオを聞きながら黙々と夕食の準備をしている。時々鼻歌で昭和三十年代の歌謡曲を口ずさんでいる。この夜はご飯の残りをみたら二人分は残ってなかったので急遽炊飯を始めた。
炊けるまでの時間彼は晩酌代わりにソフトドリンクをちびりちびりと飲み、ピーナッツをぼりぼりと食べながら人気作家の本を食い入るように読んでいた。酒でないのはアルコールに弱いからでなく、健康のためでもなく訳あって彼の家では酒はタブゥなのである。その訳はすぐには言及しないが、いずれはわかってくる話である。
本は脆弱した物質崇拝を戒め人間性回帰を謳った内容である。良寛さんの本に出会ったとき、悟りを開きたいと大それたことを思ったが、そうは簡単に開けるものではなかった。心はころころと変わる。かような教えに心底呻らされたものの、にわか作りではそう簡単に変われるものではない。
このところ、休日ときたら本ばかり読んでいるのである。無我夢中で読むのは新聞も同じである。それらしき自分作りの糧になるような記事を見つけては切り抜くのが日課になった。それを後で読み返すわけでもないが、積み重ねることが修行だと信じているのである。カネや名誉などとすぐ言い出す輩がいるが、そんなレールには乗りたくない。欲望に飲み込まれないシンプルな世界を大事にしたいのだ。時好に投じることなく何とか一途に、一生この勉強を続けようと悟っているのだった。周囲の人と違う人生を歩もうとしているのかもしれないという思いもしばしばあるが、同じ価値観をもつ人に共感を得ることもままあり、それが心強い。
遠い遠い道のりを歩きだした。毎日不易流行を追い求めてみる。この頃はやっと変わろうとする自分に少しずつ慣れてきた。ごく自然になる。風雅である。
ワゴンでカタカタと台所から床の間までおかずや食器を運んでくる音がした。食事は床の間でしていた。
「今日はニラのたまごとじだ」
彼は食卓に置かれたいつものようにてんこ盛りのおかずをみて、特段意味もなく言った。
「うまいよ」
父はせっかく作ったのだから、どんどん食べよと言わんばかりに口癖のように言う。
「父上。ありがたいね」
「手伝う」といっても「いいよ」と大体一人でやっている父の後ろ姿に、口先だけでなく本当にありがたく思うのだ。彼は親子二人だけの時父上と呼んでいた。殊更躾られたわけではなく、最近戦前を舞台としたテレビドラマの台詞を聞いて、単に昔の言い回しをまねして軽い気持ちで使っただけだった。単調になりがちな会話に変化をつけたかった。ふざけた体でいうのでなく、敬愛の念も少しはこめ聞き苦しくはないだろうと使い続けている。親子水入らずの生活ならばこその他人を気にせず言えることである。歳端のゆかぬ頃は親のことを疎ましいと思ったこともあったが、男二人だけの生活になって十年程にもなると、気が置けない間柄になっていた。何とかしなければと思いで力を合わせてやっていくうちに食事の支度だけでも厭わずやってくれる父の存在がいとおしく思える。変われば変わるものである。
「ゴマ胡椒かけるよ。好きなんだよなぁ」
かけすぎてくしゃみが出ないように瓶を一振りしたが、鼻がむずむずしてきた。堪えるのももどかしい。
「はくしょん」瓶の振りが大きすぎたのだ。
今度は鼻をつまんで何回か適量振りかけた。くしゃみは一回で治まり、テレビのリモコンを取り何を見るとはなしにテレビをつけた。それから、脇に置いてあった新聞のテレビ欄の番組名に見を通した。テレビを見ながら話題を見つけるためにだ。
「父上テレビ何見る。水戸黄門は?」
「違うのがいいな」
「本は、時代劇ものを読んでるのにテレビじゃ見ないんだ」
「サッカーやっているけど、サッカーじゃなぁ…」
父は日中退屈しているだろうし、訳あって酒好きの父を禁酒にしているので、せめてテレビは父優先にして、適当に興じられればいいのである。
「世界紀行がある」
「それがいいな、海外旅行いかなくても景色が見られるのがいいんだよ」
画面にはナレーションとともに南洋の風景が流れている。入り江の海面が真っ青。マリンブルーである。
「海はひろいね、おおきいね」
「遠浅で長閑なところだね。どこなんだい」
「どこだかね。開放的だな。こういうのを風光明媚っていうのかい」
潮風に木々の葉がゆれる。
「この揺れって気持ちいいな」
カメラは洞窟へ入る。洞窟に差す光が幻想的だ。地球が生み出した光景に思わず目を見張る。
「岩場に入ってカメラ滑らないかい」
大概この程度に親との会話を大事にしている。うつらうつらと過ごしては老化が早まるばかりだ。当たり障りのないことを気ままに言い合っていればいい案配の頭の体操になるはずだ。息子とすると老人施設に入所させる考えは全くなく、くだらない話でも言葉を交わし合うことで、老いてもなお矍鑠としていることだろうと信じている。それもあり二人は、心おきなくたわいない会話ができる親友のような関係にいつの頃からかなっていた。彼にとって父は、他の誰よりも気持ちをさらけ出せる存在になっているのである。年寄りとの飾りのないやりとりが彼は好きだった。そして物静かな父であるが八十の坂も口で越えたのだと彼は思っている。
「父上は、器用だよな。りんごの皮包丁でむけるんだから。おれはむけないよ」
おだてながら彼はリンゴを食べていた。
「おれは、不器用だよ。あんちゃんは器用だがね」
「そんなことないよ」
息子のことを弟がいるわけでもないのに時々あんちゃんと呼ぶことがあるが、これは大正生まれの昔風ないい方なのかもしれない。
ニュース番組はあくまで事大主義で退屈な会話を好み、解説者は当たり障りのないことをもっとも気に訴える。街頭インタビューは決まってありきたりな感想が流され、様々な庶民の口癖は聞こえない。父はお笑い番組は好きでない。野球も好きでないし、父の見たいテレビ探しには気をもむ。そんな時は夜の時間つぶしの一つの方法として、新聞のコラムを音読してもらうのであった。音読は頭を活性化させると聞いたので、声に出して読んでもらっているのだ。アナウンサーのように淀みなく読むことは到底できないが、一字一字丁寧に読むのだった。読み出すと無意識のうちに普段の喋り声とは少し声色を変えた。声がバリトン歌手風で、低音に響き思わず聞き惚れ癒されるのを感じた。たどたどしい朗読だが、食卓を前にいすに背をもたれていると段々と眠たくなってくるほど声が気持ちいいのだった。猿かに合戦、桃太郎、源平合戦、幼かりし日寝物語にこの声を聞いていたのだ。




