第二章ノ二
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「第十七試合――ノア」
闘技は勝ち抜き戦だ。前回の闘技の王者が舞台に立ち、挑戦者は一人ずつ己の技を王者と競いあう。待合室での噂を聞くに、以前はトーナメント戦であったのが、ある一人の『天才』が舞台に立った時以来、こうして勝ち抜き戦になったらしい。そうでもしないと歯が立たないというのだ。
この屈強なクラウニン族でも群を抜いて強いという天才に、ノアは立ち向かわなければならない。戦う為に生まれてきたような一族の中でも殊更強い天才と――
舞台へ向かう階段が、いやに長く感じられた。徐々に大きくなってくる歓声が身を震わせる。そう、これは恐怖に震えているわけではないのだ。これから強敵と相見えるがための興奮で震えているだけなのだ。震える手でスキアスの剣の柄を握り、最後の段を登り終えると、ノアは待ち構える王者を強く見据えた。
「よぉ、ノア。待ちに待ったぜ、俺の敵」
眼前に立つのは、セトであった。巨大なフランキスカをその肩に負い、悠然とノアを見つめている。辺りには満身創痍のクラウニン族が十六人程倒れている。ノアの前までにやられた挑戦者達だろう。しかし、彼等の中に致命傷を負ったものはいない。フランキスカをよく見ると、刃の部分に保護用の毛皮が何重にも巻かれている。あれでは致命傷を与えるのは難しいかもしれない。そしてよくよく見てみれば、辺りに転がるクラウニン族の敗者達の武器も同じように保護されている。これはつまり――
「クラウニンの相手はもう飽きた。通り一遍、どいつもこいつも変わりがねぇ、力任せに斧を振るうだけだ。それじゃあ超えられねえ壁ってもんがわかってねえ、まるでわかってねぇんだ」
彼等は、殺し合いを是としないのか――
「お前には、期待してんだぜ」
深く息を吸い込み、歓声へと耳を傾ける。割れるような声が体に染みこんでいく。数日前に似たような状況を味わっていたというのに、もう随分昔のことのように感じてしまう。こんな、辺りが透けて見えるような感覚もまた、久しぶりだ。この、緊張から一気に解放された時の感覚は、ノアに絶対的な勝利を与えてくれる。苦戦したことすら、無い。
「フール族の闘いを、見せてくれよなっ!」
セトは火薬が弾けたように飛び出し、その勢いに任せて全長3メートルのフランキスカを投擲した。投擲に適さない大きさゆえに投擲しない、などと決めつけたのが災いしたようで、そのあまりの迫力にノアの体は硬直した。そして迫ってくるフランキスカに目を奪われ、セト本人を見失ってしまった。フランキスカはノアのすぐ側を通り過ぎてどこかへ跳ねたが、この場合、フランキスカに直撃された方が良かったかもしれない。あれだけの重量が直撃すればただではすまないだろうが、それでも、確実な致命の一撃をいただくよりはマシなのだ。つまり早い段階でセトを見つけることが出来なかった場合、ノアは高い確率で負けてしまう。
しかし、ノアはこういう状況に陥った時、よく使う手があった。相手は姿を消しての不意打ちを狙っている以上、どこにいようとこちらの姿を捉えているはずなのだ。その必然を利用して、ノアの方から先に不意打ちを仕掛ける技がある。
ノアは一言何かをつぶやき、手を開く。握りこまれていたエンスが割れ、眩い光が辺りを襲った。
フラッシュバンを使ったのだ。過剰な光量は網膜を焼き、視界を閉じる。
「ノア……今、何をした!」
後ろからセトの声が聞こえた。振り返ると、セトは片手で己の目を押さえて、空いた手で辺りを闇雲に殴っていた。フラッシュバンは狙い通りの効果を発揮したのだ。
人は生活する上での情報の約八割を視覚から入手する。これが閉じられてしまえば、もう闘うことなど不可能だ。ノアの勝利は決定したと言っても過言ではない。
しかし――
「おらぁ!」
ノアのすぐ側を拳が横切った。偶然にしては、妙な距離だ。
「そこか、おらぁ!」
また、すぐ側を通り過ぎた。だんだんと拳が側を通る頻度が多くなっている。それも、明らかに。しかし、こんな短時間で視覚を取り戻すことができるほど、ノアの術は甘くない。セトはおそらく、視覚に変わる何かの感覚を頼りに拳を振るっている――
「匂うんだよなぁ、いい匂いだ。肉しか食わねぇクラウニンと違って、一生体を洗わねえ荒野の動物と違ってよぉ、いい匂いがするんだよなぁ」
匂い――
荒野でわずかながらに生き残る動物を探すための重要な情報だ。日々狩りをして過ごすクラウニン族は、そういった感覚にも鋭敏なのかもしれない。まさかそれだけを頼りに攻撃しているとも思えないが、それでも、ある程度の精度を持っている以上、うかつに近づくことが出来ない。側を通り過ぎていく拳の圧力は凄まじく、一度直撃するだけでも目を回してしまうだろう。
そして、距離を空けるわけにもいかない。匂いで場所を悟られるくらいなのだ、逃げるための足音を鳴らそうものならば、正確な居場所が判明してしまう恐れがある。これ以上の情報を渡すこと無く、もう一歩前進しなければならない。この拳の嵐を掻き分けて進まなければならない。ノアとセトでは、腕の長さが極端に違いすぎる。
しかし、状況に対して頭の中は冷静そのものだった。目の前を掠める拳の軌道が、妙にはっきりと見える。かつて無いほどに集中している。触れるか触れないかの死線をなぞるように、じわじわと、虫が地面を這うようにゆっくりとにじり寄る。
そして――ノアの領域が、セトの体を捉えた。ここぞとばかりにノアは拳を振り上げ一言呟き、その手に雷を纏う。
セトには居場所を掴まれた。セトの拳が迫る中、速さだけを追求した重みのない打突を腹部へ叩き込む。鞭が肉を裂くような鋭い音が舞台を跳ね、それから少しして、セトは崩れ落ちた。
観客はざわめき、ノアは静かな勝利の余韻に浸る。
ざわめきは動揺よりも疑問の色が濃いようだ。あんな体重も乗せていない拳に、王者が倒れるはずがない。一体何が起こったというのか、とざわつく観衆がほとんどだ。
電流が体に流れると、人はその自由を奪われる。人間が筋肉を動かすには電気を使用するので、別のところから電流を加えると、体は意思に反して勝手に動いてしまうからだ。そして電気信号で情報をやり取りしている脳自体もダメージを負い、シャットダウンしてしまう。これは生物が脳に頼って生きる以上は防ぎようがなく、さらに筋肉質なセトには(筋肉は脂肪よりも電気を通しやすい)効果覿面だった。
ならばもっと離れた位置から攻撃すれば良いではないかという意見もあるだろうが、空中放電で攻撃しようと思うなら、電圧を極端に上げなければならない。空気は基本的に絶縁体であり、電気を通さないのだ。条件を揃え、電流を飛ばしたとして、それが直撃すると常人でなくとも死に至る。セトを殺さないように勝つために、わざわざリスクを冒したのだ。
殺し合いでないならば、わざわざ命を奪うことはない。
彼等はただ、『戦い』ではなく『闘い』を求めていた。それは一種の求道者だ。なればこそ、ノアはフール族の闘いを見せた。己の力を示したのだ。
勝利を背に、ノアは舞台を去ろうと歩を進めたが、その足を何者かが凄まじい力で握りしめた。
「よぉ、舐めた真似してくれんじゃねぇか、あぁ? こんなもんで俺が、この俺が、この俺様が負けたと思ってんのかよ、おい? そいつは甘いぜ、甘い、甘い!」
次の瞬間、ノアは掴まれた足を投げ出され、頭から地面に突っ伏した。
「ノア、てめぇ、おい、殴り合いだ。殴り合いで決着つけんぞ、いいよな? さっきはお前の舞台で闘ったんだ、今度は俺の番だよな? 俺の舞台で闘うよな?」
セトは立ち上がった。足が痙攣し、いうことを聞かない様子だったが、それでも立ち上がった。
これだけの短時間で目覚めたこともそうだが、何より、立ち上がったという事実がノアの度肝を抜いた。生体は実際、精神でどうにか出来るものではないはずだ。しかし、彼、セトの精神力は生体の原則さえも捻じ曲げるというのだろうか。否、精神力などと言う言葉では生ぬるい。その燃えるように揺らぐ目は、まさに闘争本能の現れだ。
「さぁおい来いよ、こっからだ。第二回戦だろ、おい。一発ももらわねえでここを出られると思ってんじゃねぇ」
まさか立ち上がれる人間がいるとは思っていなかった。学校でも、このやり方で一度倒れた人間は、数時間起きることが出来なかった。殺さずに無力化するなら一番自信のある技のつもりだった。
ノアは不敵に微笑む。口に入った土を吐き出し、上唇を舐めた。嬉しいことがあると、少しだけ上唇を舐める。今回のこれは、ようやく己と対等に渡り合える相手が見つかったから。孤高の天才が二人揃ったからか――
「来いよ、セト。いつまでも生まれたてみたいに足を震わせてないでさ、ここまで来いよ、歩けないなんて言わないよな?」
「言うじゃねぇか、馬鹿野郎。クラウニンの拳は冗談じゃなく固いぜ、一発でへばるんじゃねぇぞ!」
セトがおぼつかない足取りでノアの前まで来ると、二人は嬉しそうに唇を吊り上げ、目尻を下げた。
打ち合う拳が互いの体に当たる度、薙ぎ合う脚が互いの体に当たる度、激痛と喜びが入り乱れて吐き気を催す。
全力でぶつかり合っても壊れない、そんな相手をいつも探すのだ、天才という生き物は。全力を出せない苦しみは、いつも全力で生きる他者への僻みへ変わる。いつしか他人を遠ざけて、近しい者にも一線を引く。近づきすぎて、僻みが牙を剥かないように。
闘いは泥沼化する。両者とも全身に痣を作り、口からは血が流れる。関節が軋み、筋肉が悲鳴をあげた。殴り合い、蹴り合い、ついには頭突きがぶつかる始末。
「あぁぁ!」
声も枯れ果て、どちらがあげた声なのかも判別がつかない。
力尽き、両者とも膝をついた。
「どおした、ノア。手、止まってんぞ」
「はっ、その格好で言われても、挑発にはならないな」
「んだとぉ、こら……」
「文句あんならもっと来いよ、セト……。俺はまだまだ、いけるぜ……」
膝をついたまま両者は拳を振り上げ、力なく、重力に任せるようにそれを振るった。拳は両者の頬に同時にあたり、小さな子ども同士が殴りあった時のような小さくか弱い音をたてた。
そして――
セトは倒れ伏し、ノアは膝立ちではあったものの、事実立っていた。
この瞬間、司会者の勝利宣言が会場を貫き、賞賛の声がノアを包んだ。しかし、ノアはその声をついに聞くことはなかった。何故ならばノアもまた、意識は霞の彼方へ旅立っていたからであった。
彼らの勝敗は、最後の瞬間、ほんの少しだけバランス感覚が残っていた為に決したのだった。
かくして、二人の天才、ノアとセトの闘いは決着した。その結果に不満が残る観客など、いるはずがなかった。彼等の求める、血しぶき飛び交う純粋な闘いはここにあったのだから。
フール族であるノアが、闘技の王者であるセトを打ち倒したことが村で噂になるのには、一日すらかからなかった。