第一章ノ三
「あぁ、そうだ」
「ははっ、なんの冗談だよ、誕生日だからってサプライズか? あんたもそんなことするんだな」
ノアは笑ってはいない。目はクラスの方を向いているが、焦点が合わず、どこか別の場所を見ているような気の抜けた顔をしている。父は血の臭いを纏い、剣を持っている。ククの頭が床に転がり、物言わぬ物体になっている。起きた現実はありのままその体を晒している。現実は現実以上のものを見せてはくれない。受け入れることしか、出来ないのだ。
「ノア……ノア・フール、私の息子、どうして、なぜ神を信じない。クク……クク・フール、私の娘も、神を信じなかった。なぜ、どうして私の子どもは神を信じない。私は誰より神に尽くし、妻がこの世を去る時にも涙を流して神に仕えた。なのになぜ、どうして子ども達はわかってくれなかったのだ」
父のつぶやきは狂気じみていて、不気味な危うさが伺える。彼の精神もまた、通常ではないのだろう。彼も己が引き起こした現実を受け入れることが出来ないのかもしれない。
ノア・フールの父、クラス・フールが、フール族の族長であるということを記載すれば、読者諸君も彼の苦しみの幾分かくらいは量る事ができるのではないだろうか。クラス・フールは神を狂信する一族、フール族の族長で、神を信じることのない、それも神を馬鹿馬鹿しいとのたまう息子と娘を持った。やがてそれは他の人間の知るところとなり、息子と娘への情と、一族の怒りの間で板挟みになっているのだ。
クラスもまたフール族である以上、神を狂信している。そして、妻も、子ども達も愛している。家に寄り付かなくなった理由も、その愛故の行動だったのだ。妻を見捨てた自分は子ども達にあわせる顔がないと逃げ出した。そんな、ただ一個の弱い人間だ。
弱い彼は、一族の怒りに負けて娘を手にかけ、弱い彼は、その精神を崩壊の岸に立たせているのだ。
人の心と体の、なんと弱々しいことか――
「殺してやるよ、もう」
ノアは持っていたエンス全てを床に撒き、囁くように何かを呟く。星々の中で聞いた、聴き慣れない言葉だ。エンスは淡い光を放ち、床を転がる。ばら撒かれたエンスの全てが輝き、翠の光が部屋を照らす。首だけになってしまったククを見て、ノアは眼前にいる父を突き放す。抵抗することもなく、後ろへ下がった父が、むしろ腹立たしかった。
ノアの囁きは歌へと変わり、エンスがより一層の輝きを放った時、翠の光は人の形へと固定された。粘土をそのまま人の形に固めたような、顔も手もない不気味な存在が部屋を埋め尽くすように大量に現れたのだ。ノアの歌は止まらない。人形はゆったりとクラスへ近づく。各々手や足を剣の型や槌の型に形成し、ゆっくりと歩む。明らかな悪意を感じるその群衆は、明らかな殺意を持ったノアに創られたのだ。
クラスはぼんやりとその群衆を見回し、呟いた。
「生命を不完全に留めることで死なない兵を創ったか」
クラスは少し嬉しそうに笑った。思えば、ノアの前で彼が笑う事など、一体何年ぶりだろうか。運命という人物は随分と趣味の悪い皮肉が好きなようだ。
「お前は本当に、私の息子なのだな」
息子でなければ、何もここまで苦しむことなどなかったというのに。狂信に任せて剣を振るえばそれで良かったはずなのに。しかし、ノアが見せた力は確かに彼がクラスの息子であることを示している。こんな器用なことが出来る人間は、そう何人もいないのだ。ノアが力を見せれば見せる程に、吐き気を催す拒否感がクラスの全身を震わせた。ノアが大人になった姿をまだ見ていたい。一体息子はどこまで成長することができるのか。自慢の息子、自慢の息子。
しかし、もう引き下がることなど出来はしない。手に持った剣は、もう娘の命を奪ってしまったのだから。
「私の剣は、不死であろうが切る。不死の命を絶つ、絶対の剣。不信心者の罪を絶つ、断罪の剣、スキアスの剣。かつて神が五部族の長に賜わした力の一つ」
クラスは手に持つ剣を振るい、近く迫った人形を一つ裂く。切り口から靄が吹き出し、人形は霧散する。本来ならば切られようが潰されようが、奴ら人形には関係ない。不死の命を持って対象を蹂躙するはずだった。
しかし、それよりも、ノアがそれよりも尚驚いたことは、クラスが、父が死を選んだということだ。どのような屈強な武人であったとしても、数の暴力に打ち勝つことはない。数とはそれ程に圧倒的な暴力なのだ。それがわからぬ父ではないだろう。その剣があれば逃げ出すことくらいは可能なはずなのに、クラスはあえてここにとどまり、剣を振るい続けている。不死の命を絶ち、長身の剣と踊り続けているのだ。
何故だ。切っても切っても後から湧いて出てくる人形は、勢いを落とすことはない。いずれクラスの体は奴らに引き裂かれ、叩き潰されることになるだろう。なのに――
なぜ戦う――
「あぁ、私はここで死ぬのか。いいとも、殺すがいい。ただしお前には、私の自慢の息子には、決して抗えぬ呪いをかけよう。これを、この呪いをもって、お前に対する処刑とし、私は子殺しの罪を抱えて地の底へ降りるとしよう。二人分の罪を抱えて降りるとしよう」
舞うように人形を切り続けていたクラスはふと手を止め、持っていた剣を足下に突き立てた。
「伝説は、ここにある」
ずぐ、という嫌な音がクラスの体を揺らす。腹を人形の腕が貫いたのだ。舞を終えたクラスには、有象無象の人形が集まり、その肉体を貪るように攻撃する。
ノアの人形を繰る歌が礼賛の聖歌のように、飛び散るクラスの血飛沫が、神へ手向ける花のように、音の響くこの部屋は、さながら教会の聖堂を思わせる。突き立った剣は、神を称える十字架か。
歌が止み、翠の人形が消えると、そこにはもうクラスの姿はなかった。骨と肉片の混じった血溜まりがあるばかりで、かつてあった父の姿は、一厘たりとも残っていない。
ノアは血溜まりを踏みにじり、ドアの辺りに無造作に転がるククへと歩み寄る。寝転がる人間を『転がる』と書くことはあるが、今のククを描写するにあたっては、そのような例えは必要ない。何の遜色も間違いもなく、確かに『転がって』いるのだから。
冷たい。腕にかかる重さが生々しくもこれが人体の一部であることを伝えてくる。
不思議と、悲しみは湧かなかった。もしかすると、あまりの悲しみに、既に心が壊れてしまっているのかもしれない。少なくとも、半壊はしている。腕の中のククが、己を呼ぶ声をあげたように感じたからだ。そんなはずはない。首だけで生きていられる人間などいない。存在しない。ククは、死んだのだ。
ため息を一つ、いつもより長く、時間をかけて。親指で頬を撫でると、くすぐったそうに笑うククの声が聞こえる気がする。そんな声、出てくるわけがないのだが、幼い頃から聞いてきた声は、耳に張り付いて剥がれない。今でもここにいる気がしてしまう。
頭を抱えたまま、力なく立ち上がった。どこに行くべきなのか、前に後ろに右に左にふらふらと、夢遊病者のように不確かな足取りでさまよう。自分の部屋で道に迷う時、ふと、父の言葉を思い出した。
「伝説は、ここにある」
ノアは父が突き立てた剣を振り返る。父はこれを、スキアスの剣、と言ってはいなかっただろうか。それが本当ならば、希望があるかもしれない。
かつて神が五部族の長に賜わした五つの武具がある。スキアスの剣、マークスの冠、フェルマーの腕輪、ゲーニスの盾、アルカトの鎧。そして伝説には、それら全てを集めて始まりの丘に立ち、誓いをたてる事により、その者は神の力を受け継ぐことができる、とされている。神の力があれば、人の生死など路傍の小石を蹴るよりも他愛の無い些細な事柄だ。
もしも、本当に神になれるなら、不確かな神に願うくらいなら、己こそが神になればよいのではないか。
ノアはククの頭をベッドに置き、父が突き立てた剣を手にとった。暗闇の中のほんの僅かな光を反射して、剣は己の存在を主張する。刀身は一般的な剣よりやや長い。ノアの身長より頭一つ分程度短い、長身の剣だ。近くの本棚に向き直り、軽く斬りつけてみる。すると本棚は、霧を裂く程度の抵抗をもって真っ二つに割れた。割れた本棚が崩れ、切り裂かれた紙片が辺りを舞う。
確信した。これは伝説にあるスキアスの剣そのものだ。どんなものであろうと例外なく切り裂くことができる神の剣。
伝説が本当だというならば、これは大きな希望になる。生死さえも些細なことならば、ククを、生き返らせることが可能なのではないか。
ノアはベッドに転がる妹の額に、口付けた。
「俺は、神になる。フール族の崇める不確かな神じゃない、本当の神に。全く、運命なんて皮肉なもんだよな、俺が神になろうだなんて」
ベッドから離れ、エンスを入れた袋をポケットに仕舞い込み、ドアの前に立った。
「行ってきます」
5
馬は駆ける。クラスも母もまだいた頃に、父が買い与えてくれた幼き頃からの友人は、今はもう随分な年になってしまったが、それでも、力強く靭やかな筋肉は衰えを見せない。人を背に乗せて走るくらい、わけはない。
シティの外へと続く雄大な門の前で、一度だけ振り向いた。己の故郷を顧みれば、いろんな事があったなと、思わずにはいられない。これからのことを考えるなら、覚悟を決めなければならないだろう。しかし、ノアは言ったのだ。
「行ってきます」と――
門を抜け、荒野へ躍り出る。馬と、ノアの、二人だけしかいない荒野へ。赤茶けた大地を、覗き始めた朝日が照らす。光が這うように地面を照らす様は、舞台にかかった幕が開けるようだった。
開いた舞台は見渡す限り何も無い。北には天を衝くような山があり、南には死人の顔のように青い海、東には血の乾いたような荒野、西にはただ高い壁。寂しい景色だった。初めて開けた場所に出たというのに、喜びが湧いてこない。幼い頃から伝え聞き、門の内側から一度だけ眺めた、絶望した大地。はたして、このような場所に希望はあるのか。
ノアは駆けた。希望を背中に掲げて。枯れた世界で掴んだ一つの希望をぶら下げて。世界はこんなに乾いているが、彼の心には瑞々しい希望が湧いている。
またも伝説の通りだと――
クラウニン族の住まう土地『スケイル』へと向かうために、クラウニン族の守る『マークスの冠』を手に入れるために、そして、この世界でただ一人の妹を、ククを蘇らせるために、ノアは駆けた。
荒野を行くノアの背を、一陣の風が押した。
第一章はこれで終わりです。
ノアは閉じられた世界から飛び出して、乾ききった荒野の広がる未知の世界へと駆け出しました。
ここから様々な人に出会い、恋のようなものもして、あえなくフラれたりフラれなかったりを繰り返しつつ、旅を続けていくのです。
次は戦いに酔う巨人、クラウニン族との邂逅です。ノアはそこではどんな活躍を見せてくれるのでしょうか・・・?