第一章ノ二
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空に開いた穴が藍に染まる。シティを覆う壁の向こうは、暗闇が支配する時間になってきた。ノアはこの城壁から外に出たことはないのでどのような景色になっているのかは全く想像がつかない。
実際のところ、外に出ることは難しくはないのだ。ただ門を通って外に出るだけだ。誰の許可も必要ない。しかし、この街から出たところで、あるものはかつての大戦の後。神が平定した戦いの爪痕だけだ。何も無い荒野に乾いた空気、過酷な環境でわずかばかり生き残った獰猛な動物が漫ろ歩く、死んだ世界だ。好んで出て行った者が帰ってきた試しはない。
出ていってどうなるものでもないし、どうすることもない。命を危険に晒す程の理由も無い。だから出たことはない。それだけの理由だ。
とはいえ、全く出たくないと言う者はいない。皆、興味だけは持っている。
ククは一度、兄にせがんで門の前まで連れて行ってもらったことがある。門を開けてもらい、始めて城壁の無い景色を見た。感動もした。息を漏らした。しかし、その大地を踏もうとはしなかった。一目見ただけで満足したのだ。いや、一目見ただけで落胆したのだ。今まで聞いてきた話に、嘘偽りなど無いのだと。
ちょうどその頃からだろうか。ククはどこへ行くにも兄の周りをついてまわり、彼の横にぶら下がる手を、命綱を手繰るように掴むようになった。門の外の荒涼とした景色が、ククに一種の心的外傷を与えてしまったのかもしれない。
あんな場所に一人になってしまったら、きっと凄く寂しい――
それが怖いから、いつも一緒にいてくれる兄の手を命綱にするのだ。一人ぼっちにならないように。
今日も。ククは友人宅へ向かうノアの手を握って離さない。少しばかり困ったような表情で、ノアは隣を歩く。いつものことだ。小さな頃からの習慣というか。仕方がない。
友人宅では、今日が十八の誕生日だというノアのために祝いの席が催される。本当は一人で行くつもりだったのだが、展望台から一旦自宅へ帰るよりも、直接行ったほうが距離的にも近いので、労力は少なくて済む。そして何より、妹を一人にしておきたくはなかった。展望台で感じた姿なき視線が、首の後ろをちりちりと焼く。嫌な予感が纏わり付いて離れない。今ばかりは一緒にいたほうがいいと、本能的に感じた。
脳天気なククの笑顔を見ていれば、一人でそんな事を考えているのも馬鹿馬鹿しいと思わないでもなかったが。
「よう、ノア」
友人宅に着けばすぐに男が話しかけてきた。派手派手しい道化師のような服で玄関の前に座り込んでいるその姿は、どこか不気味を感じる。白塗りの顔と、赤く縁取られた口を歪めて笑うその男を見て、ククは少し下がってノアに隠れた。
「おいおいククちゃん、俺だよ、スピアだよ。わかんないかな?」
ククは恐る恐る男を見つめるが、しばらくするとまた顔を引っ込めた。
「俺ってそんなに影薄かったかな?」
「いや、濃すぎるんだろ、今が。何なんだ、その格好?」
「おう、今日はお前の誕生日の道化役を買って出たってわけよ。歌うし踊るし楽器も弾くし、泣くし笑うし笑わせる。それが今日の俺の役目ってわけさ」
「笑わせる、ね」
「あ~、ま、一人失敗しちまったみたいだけど……」
ククはもう一度顔を出してスピアの顔を見つめる。しかし、微笑かけたはずのスピアを見て、小さく怯えた声を出してまたノアの影に引っ込んだ。
「だめだこりゃ。まぁ楽器に踊りも加わればきっと笑顔になってくれるだろうよ。特に踊りには自信があるんだ」
スピアは玄関を開けてうやうやしく頭を下げた。
「さぁ、ノアの十八の誕生日会の開幕でございます。銘々、ハンカチはお忘れになりませぬよう。感涙はもちろん、笑い泣きにもご注意を。鼻水をかむティッシュはこちらでご用意しております。さぁさ、中へ。中へ。中へ」
ノア達は玄関へ進む。中は暗い。演出だろうか。
「一生に一度限りの大舞台、どうぞお楽しみください」
スピアはゆっくりとわざとらしく音を立てながら扉を閉めた。暗闇が、部屋を包んだ。
「何も見えない……」
ククのノアの手を握る力が強くなる。暗闇に恐怖を感じているようだ。一人ぼっちになりたくないから、命綱を手繰る。隣の顔も見えない暗闇の中では、手に感じるぬくもりだけが確かな存在なのだ。
ノアは空いている方の手で壁を伝い、居間のドアにたどり着いた。今まで何度も訪ね、勝手も知った家だったが、見えないとなるととたんに全く知らない家のように感じてしまう。
「開けるぞ」
「うん……」
ノブを回し、ゆっくりとドアを開けた。部屋の中は相も変わらぬ暗闇の中。数人の気配は感じるものの、姿は見えない。
「人々は争い、大地は枯れた」
部屋の右奥から声が響き、朱の靄が部屋の中を流れだした。
「神は地に降り立ち、土を手に取り涙を落とした」
別の声が左奥から響き、碧の靄が部屋の中を流れだす。
「神は囲いを作り、塔を築いた。世界の再生のため、足下に命を撒いた」
別の声が部屋の中奥から響き、翠の靄が流れだした。淡く光る靄のお陰で、部屋の輪郭がぼやけながらも見えてきた。ノアの記憶にある家具の配置とは違うようだ。いつもよりも広々とした配置になっている。いつもは雑多で、一人でいるのも狭く感じる部屋だったのだが、今は五人入っても余裕がありそうだ。
「おぉ、神よ、神よ、神よ。崇高なる神よ」
スピアがノア達を押しのけるように部屋へ進み、中央で立ち止まって二人に振り向いた。
「御身の撒いた命の種が、今また一つ花咲きました。神よ、神よ、我が友に祝福を、我が友に寵愛を、我が友に祈りを」
スピアを中心に三色の靄が渦を巻いて収束し、頭の辺りで淡く光る球になった。
「ノア・フール、十八歳の誕生日、おめでと~!!」
四人の声が重なったと同時に光球が、打ち上げ花火のように美しく弾けた。朱、碧、翠の火花が部屋いっぱいに散らばり、星のように滞留する。空にネオンを浮かべたような美しさに、ノアもククも言葉を忘れて見とれていた。
「どうだ、ククちゃん、すげぇだろ?」
「うん、凄い、綺麗……」
三色の光に照らされるククの横顔は美しく、そして優しい微笑みを浮かべていた。
「お前、もしかしたら道化に向いてるのかもな」
ノアはククの微笑みを目の端に捉えながら、自らも微笑んだ。スピアは自慢げに鼻を鳴らし、近くにあったアコーディオンを手に取って楽しげな曲を弾き、曲に合わせてステップを踏んだ。
「さあさ星空の中での誕生パーティーの始まりだ♪ 机の上にはご馳走と♪ 部屋の中には歌、踊り♪ 一生一度の十八歳♪ みんなもどんどん楽しんどくれ♪」
宴は始まった。部屋の中で六人が踊り、歌い、存分に舌を肥やす。各々がノアのために芸を披露し、ノアはそれを観て手を叩いた。
ククも笑顔を絶やすことなくノアと共に手を叩いた。時には己の自慢の歌を披露し、喝采を受けて顔を赤らめた。
楽しい楽しい誕生パーティーは時を忘れて舞い踊る。しかし宴に終わりは付き物で、星空の中の宴といえど例外にはならない。
宴も酣、皆が疲れて眠気が帰宅を誘う時、場を締めようとスピアはノアに、マイク代わりの細長いパンを向けた。締めの挨拶は主賓の役目だ。
「あ~、みんなありがとう。十八回の誕生日の中で、今日は最高の誕生日だ。まさか星の中で道化と踊れるなんて思ってなかった。だから、と言うのもあれだけど、実は俺の方からもプレゼントがあるんだ」
ノアはエンスを幾つか取り出し、無造作に床に撒いた。マイクを床に置き、部屋の真中に向かいながら囁くように何かを呟く。エンスはノアが歩を進めるごとに淡い光を増し、吸い寄せられるようにノアの方へと転がっていく。やがてノアの囁きは聴き慣れない歌へと変わり、エンスは宙に浮き上がって部屋の中を飛び回った。星の間を流星のように巡り、ノアが歌い上げると同時に収束し、そして凄まじい光を発して弾けた。部屋にいた全員が目を覆ったが、それでも漏れてくる光が網膜を焼く。
「なんだ……?」
スピアは開けても見えぬ目を擦り、何が起きたのか確認しようと手探りで場を確かめる。すると、何か鱗のようなものを持った生き物の感触を確かめることができた。できた、と書くと如何にも冷静なように見えるが、その実、スピアの驚き様は部屋にいた全員の中でも抜きん出ていた。
飛び上がって叫んでしこたま部屋の中をのたうち回った後に、スピアは我を取り戻して呟いた。
「なんだよ、これ……」
ようやく目も慣れてきたようで、目を開けて部屋の中を見回す者も出てきた。そして彼ら彼女はノアの前でうずくまるその異様な生き物を見つけたのだった。
「お兄ちゃん、これって、もしかして竜……?」
その全身は乾いた赤い鱗に覆われ、トカゲのように四本の足で地を掴み、背には皮膜を張った翼を持ち、その黄金の目は、今はククを映している。人が小脇に抱えるにちょうどいい大きさであることを除けば、それは伝説に聞く竜そのものだった。
「ノア、これってまさか、召喚術ってやつか……?」
「あぁ、最近出来るようになったんだ」
「……どこまで行くつもりだよ、お前は」
「その竜が、プレゼントだよ」
しかし、ノアが指した場所には既に竜はいなかった。皆が辺りを見回してみると、すぐに居場所は見つかった。竜はククの腕の中で眠気を我慢するように目をしばたいていた。随分と懐かれている様で、甘える様に顔を擦りつけているその姿は、母親に甘える子どもを思わせる。
「なんだか、よく見ると可愛いね」
ククはククで、優しい目で竜を見つめている。時たまあやすように首の辺りを掻いてやると、竜はくすぐったそうに身を捩る。年頃の女の様子を描写するに適切かどうか悩むところではあるが、その様子は赤ん坊を抱いている母のそれだった。
「なぁ、ノア。せっかくのプレゼントだけどよ、あいつは、ククちゃんにあげてくれよ」
スピアはククの様子を眺めながらノアに耳打ちする。どこか困ったような、しかし微笑ましいような、複雑な感情の入り混じった表情は、スピアがククに対して何か執着を覚えていることを示していた。
「……お前たちがいいなら」
ノアもまた困ったように笑う。しかし、その表情に深い意味を推し量ることはできない。いつものように、困ったように眉を寄せて笑うだけ。
スピアがククに竜を譲る旨を伝えるとククはより一層の笑顔を見せ、スピアもそれにつられて笑顔になる。傍から眺めると、湖畔に並ぶにふさわしく思える仲だ。ククは竜と一緒にくるくる回り、ひとしきり喜んだ後に鼻を突付くと、竜は気持ちよさそうな鳴き声をあげた。
「名前、つけてあげないとね」
ん~、と唸りながら竜の顔を見つめるが、竜の方は何もわかっていないようで、きょとんとククを見つめ返す。動物にとっては己の名など、己の個としての証など、どうでもいいのかもしれない。
「よし、君の名前はアーノルドだ!」
ククは嬉しそうに笑う。そして再び星の中で回る。新たな生命の誕生を祝い、新たな個の誕生を祝い、しかし、新たな個はただ首を傾げるだけだった。己は何のために有るのか、己はどうして有るのか、そんなことはどうでも良かった。ただ本能的にククを好き、懐くだけの彼には。首傾げるは何故かと聞かれると、彼女の喜びようだと答えよう。どうしてそんなに喜ぶのか。己には、彼女だけがあればいいのに。
4
ノアの住む家は、三人で住むにはかなり広い。石造りで、部屋は八つあり、一人に一つの部屋、書斎、祈りの間、後は全てが物置になってしまっている。母がいなくなり、広い家は更に広く、父が家に近寄らなくなってからは殊更広くなってしまった。家にいるのはノアとクク、二人だけだ。父は稀に夜遅く帰ってくるだけで、住んでいるというより間借りに近いものがある。きっとノアの父はこの家をホテルか何かと勘違いしているに違いないのだ。
ノア達はこの広い家に帰ってきた。心地良い疲労感と、ククの方は肩にアーノルドを乗せていた。普段ならばとうに枕に頭をうずめている時間だ。眠気に抗う理由もないので、お休みと言葉を交わして互いの部屋へ移る。
ノアの部屋には机とベッド、そして部屋の壁一面には大量の本が並べてある。ただそれだけで、飾り気も何も無い冷たい部屋だった。彼の過去を思えば仕方のない事かもしれないが、実の所住めば都というもので、ノアにとってはこの部屋が最も落ち着ける場所であった。本の匂いが気分を落ち着ける。ペンを走らせる音が意欲を掻き立てる。柔らかなベッドが心地よい眠りへ誘ってくれる。なんだかんだで、ノアはこの場所が好きなのだ。
そして今日も、毎日そうしてきたように仰向けにベッドに寝転がる。最高の誕生日を迎えたと、満足感と幸福感に包まれて、今日は暖かな夢を見る事ができるだろう。
さぁ、美しくもあどけない眠りの原へ――
――ドアノブが回る音が響く。ドアの開く音がいやらしい。靴と床の触れ合う音が、実に破滅的だ。西瓜を落としたような鈍い音が悲鳴に聞こえた。
ノアは目を覚ます。最悪の気分での目覚め――
時はまだ夜の中だった。
「お前は、こんなところで終わるはずではなかった」
寝ぼけた頭では、聞こえてきた声の意味がよくわからない。ただ、胸が裏返ったような嫌な感じをうける言葉だということは理解できた。起き上がり、己の領域を侵犯した人物の姿を捉えると、その嫌な感じは益々もって湧き上がる。足下に転がっている黒い繊維に包まれた球を見れば、吐き気さえも催す。
部屋に入ってきたのは壮年の男性、夜を裂く真白い髪に、彫り深く窪んだ目には黒っぽい怪しい光を湛えて、浅い皺の刻まれた岩のような浅黒い顔はどこか悲しみに暮れているように見える。
「珍しいな、あんたが帰ってくるなんて」
あんたと呼ばれた父親は、そんな余所余所しいノアの態度に何を感じることもなく、一歩、ノアへと歩み寄った。
違和感を感じた。父の顔が悲しみに暮れる理由がわからないというのも不気味だが、先程から首の後、うなじの辺りがちりちりとひりつく感じ。あまり良くない予感がするのだ。父が一歩、一歩と近寄る度にチリ、チリ、と。
ノアは唾を飲む。何かがおかしい。ずれている。あれは本当に父親か?
思わず退路を確認する。しかし、父の後ろにドアがあるだけで、この部屋には窓もない。いざとなれば壁を破壊して脱出することも出来るだろうが、それは出来れば避けたいところである。ノアの部屋は二階にある。飛んだ破片が周囲に散らばり、運悪くも人に当たってしまえば只事で済むはずがない。そして壁を破壊する程の衝撃を与えてしまえば、真下の部屋にいるククに危害が及ぶ可能性もある。これは最後の手段とするべきだろう。まずは父を倒して――と、ここでノアは気づく。父を相手に何を考えているのか、と。
また一歩、父はノアに近づく。すると、父が動いたお陰で空気がゆらぎ、ノアの鼻にある臭気が届く。生暖かい鉄の臭い。嗅ぎなれない、不快な臭い。なぜ父がこんな臭いを纏っているのか、ノアにはわからなかった。
眠りの暗闇に慣れた目は、漏れ入ってくる靄の薄い光の中でも部屋の中を判じることを許してくれた。あぁ、しかし何ということだろうか。ここばかりは見ることを許されぬ方が幸せに終れたことだろう。きっと気づかずにいれれば彼の、ノアの人生もねじ曲がる必要はなかったのだろうから。
薄い靄の中で捉えたものは、父が部屋に入ってきた時に床に落とした黒い繊維の固まり。ノアはその繊維の中に、見覚えある形を見出してしまったのだ。
いつも鏡で見ている顔を柔らかくしたような、いつも己の隣を歩いている、胸のあたりでよく見る顔だ。
顔だ。
思考が停止した。父が近づいてくるのも忘れて、父が手に持つ剣を見ようともしないで。
足音が止まる。父はもうノアの目の前に立っている。
「なんだよ、これ……」
ノアはベッドから降り、父の眼前に立つ。息が互いの顔にかかる距離で、ノアは問う。
「なぁ、あれってもしかして、ククかよ……」