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第一章 ノア・フール

          1


 マグカップを、イメージして欲しい。そして、その中にごま粒ほどの自分がいると想像してみて欲しい。はたして、そこから周りの景色を望むことは出来るであろうか。丸く切り取られた空が見えるだけ、というのが筆者の感想である。

 囲まれた壁の中で、侘しく座り込む。この「シティ」に住む人々は生まれた時からカップの中にいるのと変わらないような生活をしてきた。上を見ても丸くて狭い空。横を見ても白く冷たい壁。尋ねるものをことごとく拒むかのような巨大な城壁は、フール族の住まう街を丸ごとぐるりと囲んでいる。内も外も、それぞれを窺うことはできない。それもあってか、街は陽の光とは縁遠く、正午以外はいつも影が差している。彼らにとっての太陽は随分と引っ込み思案で恥ずかしがり屋なのだ。なので、フール族にとっての明かりと言えば、いつも街に立ち篭めている薄ぼんやりと光を持った靄を指す。時には森に白い絵の具を落としたような翠に、時には夕焼けに涙を落としたような朱に、時には海に火を落としたような碧に輝き、生活を彩る。

 この靄は、シティの最西端にある「神の塔」の先端から世界に向けてゆったりと流れ出てくる。城壁の一部に埋め込まれるようにそびえ立つこの塔は、高い高い城壁よりもなお高く、メートル法で測るのならば万を越すのではと思われる程だ。到底人間が作ったものとは思えない。

 そしてその塔の足下には、この世界唯一の学校がある。フール族の開祖、スキアス・フールの研究所に端を発する「スキアス公教会」だ。元々は研究所だった公教会も、今では兵隊を養成する学校へと変貌した。時は気まぐれに人を不和にし、また円満にする。この世界に住まう他の部族に対して武器を用意するのも、致し方ないことである。


 体育館。

 地を揺らすような声援が聞こえてくる。細かく一人ひとりの声を聞き分けようとすると、野次や聞くに堪えない汚い言葉も混じっているようだ。「学校」という空間には似つかわしくない雰囲気がある。

 狂ったように声を挙げ続ける観客の群れの中心には一辺七メートルの正方形のリングがある。中には三人。だらしなく伸びきった体操着の男と痣だらけで倒れている男、そして汗を滴らせながら深呼吸する男の三人だ。

「次の人、入って」

 だらしない男がホイッスルを咥えたままそう言うと、観客の中から意気揚々といった様子で一人の男がリングに進入した。

「今日は勝たせてもらうぜ」

 そう言って気合を入れるように自らの拳を打ち合わせ、両腕を前後に大きく開いて構えた。足も同じく前後に大きく開き、しっかりと床を踏みしめる。

「大丈夫か?」

 だらしない男は倒れていた男に肩を貸し、リング外へ運んだ。痣に体が当たる度に身を捩り、うめき声が歓声にかき消されていく。救急の係の人間が駆け寄り、担架で痣だらけの男を連れていく。

「よし。ノア、構えて」

 だらしない男はリングに戻り、ホイッスルを口に咥えた。

「ノア、構えて」

 ノアと呼ばれた男は眼を閉じたまま深呼吸を続けるばかりで、構えをとる気配がない。顔は天井を向き、一見すると何かを深く考えているようだった。歓声が早く始めろと無責任に騒ぎ立てる。

「ノア?」

 だらしない男が心配を言葉にした。ノアはここ十試合の間闘い続けているのだ。体力の限界を気にするには遅すぎる程の試合をこなしている。

「続けてください」

 ノアは眼を閉じたままそう言った。観客の声が我慢の限界を越えて怒声に変わる。人々の興奮が、苛立ちが肌を刺す。こんな空気の中でもノアは一人冷静なままだった。

「始めっ!」

 甲高いホイッスルを合図に、観客の声も一層に高まった。ノアの前に立つ男は観客の声を背に、己も裂けるほどに喉を震わせてノアに迫って行った。


 日が暮れる、とはいえシティが陽の光を受けられる時間は僅かなので、感覚としては遠くに見える天井が紅くなるというだけだ。街は相変わらず曇るようにぼんやりと輝いている。

 スキアス公教会の体育館。数時間前まで歓声に満ちていたこの場所も、今は一人の声を反響させる程に静まり返っている。

「お前って、実は馬鹿だよな」

 先程の実践格闘の授業でノアと闘った男が呟く。側にはノアが汗だくで座り込んでいる。短く揃えられた髪も、脂肪のない引き締まった体も、汗を滲ませていないところなど無い。切れ長な眼に座るような細い眉からも汗が伝い、なだらかな頬骨にそって髭のない顎から落ちる。しかし、ノアの体に痣などは見当たらない。むしろ心配すべきなのはノアの側で座り込んでいる男に思える。腕と足には無数の痣が刻まれ、顔には一際大きな痣と、それを冷やすための氷嚢が縛り付けられている。開始の合図の後、疲労困憊のノアに徹底的に叩きのめされたのだ。

「いきなりなんだよ」

 ノアは相も変わらず酸素を求めて、逞しく厚い胸板を上下させている。静かな体育館にノアの呼吸音が滲みていくのが奇妙なまでに安らぎを与えてくれた。時計の針の音を聴き続ける感覚に似ている。

「最初から最後まで続ける奴なんていないぜ? いや、まず出来る奴がいないんだけどよ」

「現に俺が出来てるんだ。頑張れば出来る」

「お前は特別なんだっつーの。考えてみろ、お前がノアじゃなくて俺だとしたら、十五人抜きなんて出来ると思うか? 相手が立てなくなるまで闘い続けるんだ。相当の体力がいる。三人抜けりゃ上等だぜ」

「俺は、別に特別なんかじゃ……」

 才能は、囲いの中に出来た囲いだ。コミュニティという囲いの中に、才能という囲いが穴を開ける。交わるには才能を捨てるしか無いが、この男は器用に才能を隠すことができない。いつも必死で一生懸命で、そして努力家である自分を誇っているのだ。

「お~お~、流石族長サマの息子は言うことが違うね」

 そして、一人になっていく、筈だった。

「認めろよ。下手な謙虚は何よりの侮辱だ。お前はすげぇ。馬鹿だけどな」

 歯を見せて楽しそうに笑う彼は、ノアの友人だ。才能という囲いを、ノアは誠実な努力でもって破壊した。才能に胡座をかくこと無く、ひたむきに上を目指すノアを、周囲の生徒たちは憧憬と尊敬の念を持って仲間に迎えた。今では友人も多く、いつも誰かと共にいる。

「そう、か」

 ノアは少し照れくさそうに頬を掻いた。

「さ、そろそろ帰ろうぜ。さすがにもう立てるだろ?」

「いや、もう少し掛かりそうだ」

「おいおい、あんまりククちゃんを待たせるなよ?」

「あぁ、わかってる」

「そんじゃ、スピアんとこで合流な。この忠誠に神の加護あらんことを」

「加護あらんことを」

 祈りの言葉で別れを告げ、友人は体育館を去った。残ったのはノア一人だけ。音もない体育館で一人だけ。

 フール族は神を讃えて生きている。生活に強く根付く神への信仰は、狂信にも似て彼らを縛り付けている。

「神、か……」

 ノアはそういう点でも特異と言えるだろう。神が全てだと簡単に言い切る彼らの中で、ノアは神を信じていない。

 ポツリと漏らした言葉には、嘲笑と呆れがにじみ出ていた。

「ふんっ」

 神への確かな拒絶を吐息に混ぜて、ノアは立ち上がった。待たすとうるさい女を待たせてしまっている。小言が増える前に帰らなければならない。

 足取り重く体育館を後にするノアが、視線を感じて振り返ったのはただの気のせいだったのだろうか。


          2


 ノアが着替えを終えて校門にたどり着いたのは、体育館を後にしてから更に十分ほど後のことだった。いまいち気が乗らないのか、廊下を歩く足取りが重い。というのも、彼は約束をすっぽかして体育館で休んでいたのだ。遅れた理由を話せばわかってくれるかとも考えたのだが、如何せん、頭に血が上ると論理の通用しない相手である。彼女には口では勝ったことがない。

「遅い」

 校門の中央に、行く手を阻むように一人の少女が仁王立ちしている。肩甲骨辺りで切り揃えられたセミロングの頭髪が風に揺れて広がる。まるで威嚇されているかのような重圧を感じてしまうのは、ノアにそっくりな眉が眉間に寄って皺を作っているからだ。

「悪い……」

「さて、問題です。私はどれくらい心細かったでしょう。一、とても。二、凄く。三、とんでもなく。さぁ、どれ?」

「い、一……かな」

 静かな声に深い怒りを感じて、ノアは一歩後ずさる。

「そっかそっか、そうだよね。お兄ちゃんには理解なんてできないか。下校していく人達の背中を、たった一人で眺めていることしかできない私の気持ちなんて。みんながニコニコ帰っていくのを、一人で眺めていることしかできない私の気持ちなんて。待っても待っても来る気配ないし。なんだか私馬鹿みたい?」

 校門の周りに滞留していた翠の靄が、少女を中心に集まっていく。靄は少女の感情に合わせるように徐々に電気を帯び始める。まずい、とノアはズボンのポケットから黒い植物の種のような物を取り出し、少女の方へかざした。

「なんでもっと早く来ないのよ、馬鹿ッ!」

 少女から迸った電撃がノアへと襲いかかる。しかし、ノアが数言何かをつぶやくと、電撃はノアの持つ種のようなものへと吸い込まれていった。

「クク……」

 少しの怒りを込めて妹の名を呼ぶ。術は十八歳を超えるまでは教師の監督が無ければ使用してはならない。もしも勝手に使用したことがバレたならば、即刻停学を言い渡される。意見を挟む余地すら与えられない。

「はいはい、ごめんなさい。でも、いくら私でもお兄ちゃんが相手じゃなきゃ使わないよ、さすがに」

「そういう問題じゃないだろ」

「じゃあこれからは遅刻しないこと」

「遅刻で命狙われる奴なんて聞いたこと無いぞ……」

「女の子待たせるなんて、命を払っても足りないよ」

「なんで俺が怒られてんだよ。今怒られてんのはお前だぞ? もしも他人に当たったりしたらただじゃすまない」

「お兄ちゃんは自分に当たるかもしれない事を勘定に入れないんだね」

「俺はいいんだよ」

「どうして?」

 ククは小悪魔的な笑みを浮かべてノアを覗きこむ。これだからククには敵わないと、天才と呼ばれた男はバツが悪そうに頭を掻き、小さく舌打ちをした。

「遅刻したから」

「よろしい」

 満足気に頷くククの周りには、新たな靄が立ち込めていた。翠に輝く靄がククを包み込み、どこかへ消えてしまうのでは無いかと不安になる。無論、そんな事はない。靄はただそこにあるだけで、何も出来はしない。靄が力を持つのは、フール族が種のようなもの『エンス』を通して操った時だけだ。靄はククを連れ去ることなど出来ない。

 もし――もしもククがいなくなれば、ノアはどうなってしまうのか。母はククを産んで他界した。父は家に寄り付かない。幼い頃から一緒にいたのは、ククだった。まだ己の親指を咥えていたククを、ようやく立って歩けるようになった兄が守ると言った。消しゴムのように小さな手を、擬宝珠の花のように優しく包んだ。

 ククはいまだにその時の記憶を残している。優しい兄の、最初の記憶。守るといってくれた、その手が暖かかった。だからこそ、十四という己の年齢も憚らずに彼女は言う。

「じゃ、罰として展望台まで手を繋いで行ってもらいます」

 ククが差し出した手を、ノアは少しの照れも無く握り、ため息ひとつで歩き出した。朱へと変わった靄がククの紅潮だけは誤魔化したものの、熱を帯びた視線ばかりは隠すことが出来なかった。


 フール族の人間が、日光と縁遠い生活をしながらもまともに生きていられるのはこの場所があるからだろう。シティの最西端、城壁に組み込まれるようにしてそびえ立つ塔は、城壁よりもなお高い。つまり、塔を登って行くと城壁の上に出られるのだ。塔から降り立つことの出来る城壁は開けた公園のようになっていて、西には穏やかな海が、東には聳え立つ塔が見える。城壁の上には日光を遮るものは何も無い。フール族は、影のない白い広場で、赤い夕焼けと潮の香りを楽しみながら一日の終わりを実感するのだ。

 たくさんの人で賑わう展望台に、新たに二人の男女が加わった。ノアとククである。人々は兄妹で手を繋いでいる二人を気にもしない。この兄妹の仲の良さは周知の事なのだ。

「綺麗……」

 上手い具合に空いていた、いつも座る三人掛けのベンチに二人で腰掛けた。ノアが繋いだ手を解こうとすると、ククは離すまいと手を絞る。少し痛いくらいに。

「だ~め、罰ゲームだもん」

「あのなぁ……」

 無理して解く必要もなし、妹の甘えくらい大きく受け止めてやるのが兄の勤めである、と諦めた。今に始まったことではない。今日は特別甘えん坊というわけでもない。昔からこうだ。昔からこうやって、素直に好意を向けてくる。

「お兄ちゃん、お誕生日おめでとう」

 夕日を見つめながらククが呟いた。この高層には靄も少なく、ククの顔は陽の色に染まる。とても素直な朱だった。気持ちを隠そうともしない。

「あ~、今日始めて言われたかも」

「そんなはずないよ、私が朝一で言ったんだから」

「そうだったか?」

「そうなの」

 ノアは夕焼けを眼に映し、大きくため息をつく。

「また一つ歳をとったか……」

「何それ、じじ臭い」

 球を転がすように笑うククの頭を、優しく撫でた。十八を迎えたと思った時、どうにも不思議な情感が押し寄せてきたのだ。ふわりと体が浮くような、不安に似た、だが不快ではない不思議な感情。足下が覚束ないような浮遊感に、カンダタが蜘蛛の糸に縋ったように、ノアも頭を撫でたのだ。自分がどこかへ、飛んでいってしまいそうな――

「……?」

 指の腹で、絹のような髪を弄ぶ。嬉しそうな、少し戸惑いの混じったククの眼を見ると、この浮遊感が何なのか、どことなく理解した。ククの眼が何かを物語っていたという訳ではない。ただ、もう一度実感しただけ。

 あぁ、ここまでこの瞳を守ってこれたか――と、思った。

 この浮遊感の正体は、達成感。十八という、己の区切りの歳までククを守ってこれた。無我夢中に、我武者羅に、いつしか天才と呼ばれて、それでも留まること無く己を磨いてきた。全ては、守ると誓ったあの小さな手の為に。己以外に頼るもののなかった小さな手のために。

「お兄ちゃん、くすぐったい……」

 しかし、手を払うことはしなかった。どころか、気持ちよさそうに身を寄せてくる。安心に緩みきった顔は見ていて実に滑稽だ。

「あぁ、悪い」

「いきなりどうしたの?」

「いや、まぁ、何となく……」

 本人を前に理由を話すのもどこか気まずいものがある。曖昧な返事ではぐらかし、残った感触を思い出すように指を擦り合わせた。不意に流れた風が、潮の香りを運んでくる。

「そう……?」

 わかったような、わからないような、曖昧な答え方をするのは兄妹の似た所ということか。疑問をそのまま飲み込んで、ククは再び夕焼けに視線を移す。

「お兄ちゃんも、もう十八歳になるんだね……。一人前になった気分はどう?」

「実感無いな、やっぱり。十八になったからといって見える世界が変わるわけでもないし、ここの夕焼けだっていくつになっても変わらず綺麗なままだ。ただほんの少し、やっていいことが増えただけ……。大人になるってのは、案外こんなものなのかな」

「夢がないなぁ。十四の妹にもっと希望を持たせるようなこと言ってよ」

「凄く晴れやかな気分だ。世界が輝いて見えるよ。大人になるって素晴らしい」

「ウソっぽい」

 半分くらいはなと、ニヒルを含んだ笑みを浮かべたノアは、どこか自嘲的に見えた。彼にとって大人になるとは、先に見える宿命と向きあう事に他ならない。ノアにとってその宿命というものは、とても皮肉めいたものなのだ。

「半分本当なら上等だね。今日くらいなら神様に祈ってあげてもいいかも」

「神、ね」

 鼻から漏らす息で、己の部族の象徴を侮蔑した。尊敬や敬愛など微塵も感じられないこの態度は、普段はひた隠しにしているものだ。狂信に取り憑かれた人間ほど恐ろしいものはこの世にも数少ない。こんな態度をとれる場所は、妹であるククの隣以外にはない。一番心を許している場所と言えるだろう。ククもそのことをよく知っており、誇らしく思う反面、危うさも感じている。もしも誰かに聞かれたならば、ただでは済まない。

「ほんと、馬鹿馬鹿しいと――っ!」

 ただ口を塞ぐだけではもったいないと、ククはいきなりノアの頭を抱きしめた。服越しに感じる吐息の熱が生々しくククを撫でる。

「ここでは駄目だよ」

「誰も聞いちゃいない」

 額に僅かな柔らかさを感じながらも、やはり照らいなくノアは言う。

「みんな夕焼けに夢中だ。少しの話し声くらいなら、波と風が許してくれる」

 耳元で愛を囁くように、ククは声に吐息を混ぜて呟いた。

「ここでは神様は絶対だよ」

 城壁の遥か下で、一際大きな波が弾ける音が聞こえてくる。塔に切り裂かれた風が、叫びを上げるように鳴く。神は絶対――

「みんな神様を信じてる。頭の回路が焼き切れるくらい、恋人よりも愛おしく、親よりも尊敬してる。危ないよ」

「危ないってのはみんなの頭か? はっ、笑えるよな、神なんて信じてない奴がフール族の一番上に立とうってんだからさ」

「お兄ちゃん、駄目だって……!」

 自嘲から、侮蔑へ。侮蔑から、憤怒へ。嘲笑うのは民に対して。怒るのは神に対して。幼い頃に感じた『孤独』を糧に、階段を登るように感情が高まる。

「神がっ! 俺達に何をした!」

 声を荒げる十八の青年は、己を突き刺す寂しさを荒々しく引き抜く。吐き出されるのは流血にも似た叫びだった。

 ノアの最も古い記憶を辿ろうとするならば、特別に靄の濃い翠の夜、二歳の頃まで遡ることができる。その時、まだ母は健在で、ククを身籠る前のこと。

 父の代わりにいろんな所へ連れて行ってくれた。シティの北から南、東から西へ。入ったことのない店などあるのだろうかというほどシティを練り歩いた。

 父の代わりに遊びに付き合ってくれた。広場を走り回り、共にボールを追ってくれた。

 優しい、母だった。

「ノア、あなたのお父さんは、神様に仕える立派な仕事をしているのよ。誇りに思いこそすれ、恨まないであげて。お父さんの代わりは私がするからね」

「ダメよ、ノア。怒らないで。あなたのお父さんはきっと誰よりも立派な人なんだから。私は寂しくなんてないわ」

「ノア、ゴメンね。お父さんの代わり、できなかったね。でもね、ノア、これからは一人で立たなきゃいけないの。そして、お父さんに代わって、ククを守ってあげて」

「私は、寂しくなんか、無いから――――」

 一筋、頬を伝う雫がどういう気持ちから生じたものなのかは、わからなかった。だが、確かな事実はここにある。生まれたばかりのククを抱いていたのは幼いノアで、母が息を引き取る場にすらいなかったのが父なのだ。神、神、神と、父は母を省みることがなかった。父を奪った神を、母を奪った神を、ノアは許すことができなかった。そして、神という偶像に縋る、自らの一族を蔑んだ。

「馬鹿馬鹿しい」と、物心つく頃から思っていた。神の偉大さを説く授業、馬鹿馬鹿しい。神へ祈りを捧げる時間、馬鹿馬鹿しい。皮の部分で祈りを真似て、中身は侮蔑と憤怒に満ち満ちているというのに、未だ下る神罰は無し。そのことが余計にノアを増長させた。

「神なんて、いやしない。いないんだ。みんながありがたく拝んでいるのは、頭の中にいる神でしかない。馬鹿馬鹿しい、馬鹿馬鹿しい」

 ククは眼だけを動かして辺りを窺う。こんな発言を聞かれてしまってはどうなるかわからない。ノアは気分が高まり、収まりがつかなくなってしまっている以上、自分が気をつけなければならない。幸いにも、二人を見ている人間はいないようだ。

「お兄ちゃん、ちょっと浮かれ過ぎだよ。いつもはもっと慎重じゃない。誕生日は免罪符じゃないんだよ」

「浮かれてるわけじゃない。ただ、今日で親父から解放される、一人前の大人になったんだ。自分の意見を論じることに何か問題があるのか?」

「お兄ちゃんらしくないね。やっぱり浮かれてる。論じるなら堂々と壇に登ってやればいいじゃない。それとも、お兄ちゃんにとってはベンチに座り込んでブツブツ文句垂れるのが『論じる』って言うのかな?」

 ククは、爪痕が残るくらいに強く、兄の手を握った。己の心に刺さる痛みを伝えるために。

 不思議なもので、普段使う嫌味と、冗談を交えない嫌味とは、その味わいが全く異なる。冗談を交えない嫌味は、両者とも鳩尾のあたりがぐにゃりと潰れるような不快感があるのだ。ましてや尊敬し、敬愛し、ずっと守ってきてくれた騎士様にこんな事を言わなければならないことが、辛かった。

「…………っ!」

 ふと、後ろを振り向きたくなる時がある。原因は様々だ。物音がする、風が吹く、視線を感じる等、一定ではない。ではこの時はどうだろう。

 気がつけば、周りが妙に静かである。先程までは少ないながらも話し声等あったはずなのだが、今は遥か下の方から聞こえる波の音だけだ。物音がするわけではない。風が吹くわけでもない。視線を感じるわけでもない。全てが逆だ。物音も、風も、視線も何も無い。空気が急に濃密になったような重苦しさが辺りを包んでいる。

「確かに……少し浮かれていたみたいだ」

 ノアの首筋にねっとりと絡みつくような汗が流れる。遠くの波の音だけが、小さく聞こえてきた。寄せて、返す、波の音。一定の間隔で、ざざん、ざざぁ。

「クク、周りの様子は?」

「何も変わってないよ。みんな夕日を見てる」

 ノアは考える。この異様な雰囲気は気のせいなのだろうか。思考が答えに行き着くことは無いということはわかっている。求められているのは判断だ。この場を離れた方が良いという判断を、自分もククも待っている。ではどうして、この判断に行き着かねばならないのか。

「いや――」

 余計な考えは判断を鈍らせる。

 ノアはククの手を引き、展望台を後にした。

 あるはずのない視線が、背中にじわりと染み入ってきた。



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