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9 三十日月の闇

 世継ぎを儲けると決意して以来、妃は桜花の元へ訪れるのを躊躇っている。尊宮が妃を訪ねても体調が優れないの一点張りでらちが明かない。こんな強情を張って尊宮を困らせたことは初めてだ。妃が尊宮を裏切ることは決してないと信じているが、桜花の処遇に関しては意見が一致しているとは言いがたい。桜花の不幸はそもそも尊宮が引き寄せたのだと妃は考えているようだ。身分の差がどれほどふたりの間を阻んでいるのか尊宮には自覚が足りないと諫められることも度々あった。尊宮にしてみればほんの気まぐれに下女を遊び相手に選んだのだとしても周りの者はそれを見逃さない。一度関わりになれば有象無象の虫けら共が甘い蜜を求めて群がってくる。桜花は身を守る道具を何も持っていない。

 いっそ口も聞けず、目も見えない体であればよかったのかもしれない。愛でるだけの愛玩であれば尊宮の地位が安泰である間は脅かされることもなく贅沢が出来たに違いない。だがしかし、桜花は聡く賢い女だった。自分で考え、何が正しく、何が間違っているのかを理解出来る下女だった。そう望んだのは尊宮で、それに応えたのは桜花だった。

 儒教の四書を説き、中庸ちゅうようの徳が如何に尊い教えであるか尊宮は雄弁に語った。


「物事を判断する上で偏たらず、常であることは徳の至れるものだ。これは学問をした人間だけでなく誰にでも発揮できる。貧しい民も、病に倒れた者も皆等しい。孔子の教えは万人の幸福の礎であるんだよ」

 幼子のように国家の理想を夢中になって聞かせたあの日。桜花は重臣達のように悟った笑みを零さずに真剣に耳を傾けてくれた。


「私は世子様を信じております。世子様は迷わずに前にお進み下さい。世子様が振り返らずとも私は後をついて行きます。何処までもずっと、ずっと、ついて行きます」

 その言葉にどれだけの勇気をもらっただろう。

 明るい太陽の下では決して交わすことの出来ない約束だった。池に浮かんでたわむ月は見ていただろうか。尊宮の真実はいつも深い闇に隠れていた。


 けれどこのまま待ち続ける事は厳しい状況になってきていた。

 桜花が眠り続ける間にも桜花の体力はどんどん奪われている。

 このままでは桜花の命が危ないと術師に告げられたのだ。

 尊宮は決断を迫られていた。最後の別れも出来ないまま黙って命が消えるのを待つのか、それとも桜花から拒絶の言葉を聞いて、絶望を抱えて生きていくのか。

 尊宮とて桜花と対峙するのを恐れている。

 もし桜花に拒絶されたら---。そう考えるといたたまれない。

 世子として気の抜けない毎日の中で桜花だけが尊宮の心の癒しだった。

 王宮に渦巻く人間の業の罪深さに幾度世継としての我が身を呪っただろう。信頼していた家臣に裏切られ愛するものを奪われ、大切なものを、ひとつふたつと失ってきた。昼間は公務に追われ時間を惜しんで為すべきことに集中出来るが、一度夜が訪れると不安が一気に押し寄せてくる。闇は深く底なし沼のようだ。月が隠れる三十日月なら尚更だ。

 志を高く持ち、尊宮とともに未来を信じて一筋の道を切り開いた同士たち。或いは主の命に従い、汚名を着せられ罪人として散っていった忠義者たち。その者たちの無念をどれだけの民が知っているだろう。今があるのはすべてそうした者たちの支えがあったからだ。死して尚尊宮の心に生き続けている。

 昼間見えぬ月は確かにこの世に存在している。

 散っていった友の姿は消え失せたとしても共に見上げた空は今も変わらず存在する。馬で駆けながら狩りを楽しんだあの草原の匂い。酒を酌み交わしながら夜通し議論を続けた翌朝の清々しい静寂。

 思い出と共に彼らの姿が其処彼処に現れる。


「我等は世子様と共に」

 瞼の中に彼らの姿が蘇ってくる。

 必要なのは大儀にかける信頼と絆。支えなしには王は政を行えはしない。


『誰も信じてはならぬ』

 相反する王の言葉は本心だろうか。

 もしかしたらそれは自らが招いた顛末を人の所為にしてはいけないという教えだったのかも知れない。

 自分の蒔いた種は自分で刈り取る。

 自己完結の出来ない王になってはいけないという王の諫めだったのかもしれない。

 生まれ変わったら、来世では……なんて、そんな不確かな未来に縋る人生は間違っている。

 今この時を、生きる。

 尊宮に出来ることはそれだけだ。

 逃げてはいけない。

 桜花が自分の命を賭けてまで守ろうとした尊宮の理想国家創成の道。道なき道を行く尊宮の背中を押してくれた桜花に目を逸らして、自分だけが楽になろうとしていたことに気が付く。

 共に歩いていきたい。

 この世の非常とも言える現実を一緒に生きて欲しい。無力な自分に何が出来るのか、桜花に最後の時まで見届けて欲しい。馬鹿な王がいたと民に後ろ指を指されてもかまわない。そうして最後に桜花に言ってもらいたい言葉がある。


「立派にご精励せいれいなさりましたね」

 その一言で報われる。

 その言葉をもらえるなら精一杯大儀に尽くそう。だから、桜花を取り戻さなくてはならない。

 どうしてもこれだけは譲れないのだ。


 姿を現さぬ月を思って尊宮は夜空を見上げた。


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