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8 有明月に祈る

「早く目覚めなさい。さもないと……は…が……せん」

 うるさい声が頭の中を木霊する。

 夜更かしをした覚えは無く、いつも通りの就寝時間だった。

 横たえた身体は重く沈み、疲れを癒すに至らなかったようだ。どれだけ眠っても寝足りないと身体は訴えている。成長期の身体には睡眠が重要だと聞いたことがあるが、これほど欲するものなのかと重い身体を起こした。ぬくぬくといつまでも布団に潜っている暇はない。

 重い体を支える手が枕に触れるとしっとりと濡れている。枕を濡らすものの正体が、自らの瞳から流れる涙なのだと顔に手を当てて気が付く。

 悲しい夢を見たのだろうか。

 目覚めと共に夢の記憶は曖昧で、何が悲しかったのか思い出せない。落ち着かない気持ちを慰めようにも一人きりの部屋の真ん中で途方に暮れるしかない。

 同居人は昨夜も家に帰って来れなかったらしい。夜食にと用意した軽食はそのまま卓に置かれたままだ。とても忙しいその人は最近では家に帰る時間もなく仕事に追われている。寂しくないと言えば強がりになるが、彼女らしく輝ける場所がそこにあるなら存分に力を発揮して欲しいと思っている。

 離れているのは心ではなく肉体で、どこにいても彼女の存在は心の支えになっている。

 その彼女の為にも自分はしっかりと留守の間この家を守らねばいけないのだ。

 手早く支度を整えると、急いで学校に行く準備をする。


 外に飛び出してみれば雨がしとしとと降りだしたようだ。

 傘をさした学友が空を見上げたまま動こうとしない私を見て声を掛けてくる。


「サクラ濡れるぞ」


「平気だよ」

 他の女子たちのように可愛らしく怯えてみたりしない。怖がることは何もないのだ。

 これは恵みの雨だ。

 積乱雲が空を覆い、乾いた大地に命の雫を届けてくれる。

 雷雲も稲妻もそれらを導く使徒らしく賑やかに轟音を轟かせる。


『これで今年の稲も豊作だ。神よ感謝します』

 五穀豊穣の祈りを捧げる巫女の舞が蘇る。

 神聖な白装束の長い袖を華麗になびかせ、木枯らしに踊る一葉の様にゆらゆらと身を風に委ねる。舞人を見守る見習い巫女たちが両手を波立たせて風を起こし、天に願いを運んでもらうのだ。

 舞に合わせて、ドラの音が鳴り響く。変化の乏しい日常の中で、毎年行われている年行事は、生活に密着して季節の筋目を感じさせてくれる。

 

 鮮やかに蘇る記憶はいつ見た光景だろう。

 ふらりとこの街にやって来た遊技団の芝居だっただろうか。


 玉座に王様が腰を掛け、満足気に舞を眺めていた。

 隣には世にも美しい王妃様。

 王妃様の隣には若く聡明な皇子様が興味深そうに身を乗り出して舞を見つめている。

 目の前には神に捧げる貢ぎの豪勢な料理が並べられている。それを見た体が素直に反応して、グルッと腹の虫が鳴いた。有難いことにドラの音にかき消されて誰にも知られずに済んだ。

 こんな神聖な場面で腹の虫を鳴かせたとあったら大変だ。

 脛を百回叩かれても仕方のない場面だ。


『あんたって子は! どこまでグズなんだい』

『つまみ食いする卑しい手には悪魔が宿るんだよ。叩いて追い出してやるよ』


 誰が、何の為に、まだ幼い娘を理不尽に叩くのか。

 ごめんなさいと何度謝っても許してもらえなかった。諦めて差し出した両手は赤く腫れ、痛みに眠れない夜を何日も過ごさねばならない。

 ぞくりと背中を這う痛みの記憶。

 土砂降りの雨の中一晩中外に立たされ冷たい雨に打たれたこともある。

 冷やかな大人の視線がそれを見て見ない振りをする。

 下女仲間も皆同じだ。誰も助けてくれる人はいない。

 

 身を切るような凍える夜が過ぎると夜明けの空に昇る月が見えた。雲の隙間から見た月。空腹がその月を特大のまんじゅうと連想させる。

 ご飯が欲しければ働かねばならない。言いつけに逆らってはいけない。口答えはもっての外。「はい」以外の返事は必要ないのだ。体に刷り込まれた絶対服従の誓いは考える機会を奪っていく。


 これは記憶だ。

 身を持って経験した痛みの記憶。


 どうして。どうして。どうして。

 考えたくない。

 考えなくて良い。

 だって、今はしあわせだから。

 だから---。


『お前はそれが正しいことだと思うかい?』

『出来ないと分かっていながらそれを命令するそのような者は、上に立つ資格はない』

『力のある者ほど謙虚にしなくてはならないのだよ』

 凛として力強い声。

 頭の中に直接響くその声は誰のものなのか。

 語りかけるその言葉に胸が締め付けられる。


 胸元の合わせをぎゅっと握り締めると、雨が頭上を避けて雫が傘を伝って地面に落ちていく。

 親切に傘を差し出すその手は汚れを知らず生まれたての赤子のようだ。指には美しい金の飾り細工が施された指輪がはめられている。

 風に乗ってその人の香の匂いが漂ってくる。

 それは懐かしくどこか安心する香りだ。

 傾いだ傘に隠れた顔が角度を変えて、少しづつ明らかになっていく。

 見たいような、見たくないような、戸惑いは消えてくれない。

 

「迎えにきたよ桜花」


「……」

 その人の顔を見た瞬間、時間が戻るなら巻き戻してもう一度やり直したいと心から願った。

  

 

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