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7 下弦の月の憂鬱

 この世の終わりのような漆黒の闇に輝く月は、息を潜めた万物にとって道標に違いない。

 真っ暗な天に輝く光。

 けれど民を照らす光はふたつも必要ない。空に輝くのは圧倒的な存在を示す太陽だけで充分だ。光がふたつになれば民の向く目もふたつに分かれる。選択は時に人を惑わす災いになる。

 先人が恐れた憂いをなくす為に今も世継ぎは正妃が生んだ男子ひとりと決められている。身分の低い妾妃が生んだ子は里子に出され政に関わることを許されない。同じ血を分けた我が子でありながら何という無慈悲であるのだろう。

 何かを守る為には何かを犠牲にしなければならない。

 全てを手に出来るはずの王の手もやはり平民と同じくふたつしかないのだ。

 多くを望めばその掌からひとつ、ふたつと、零れ落ちていく。


 月のものがおりて十四日が経った。

 この体のどこにこれだけの赤い血が滾っているのか、終わりを知らぬかのように流れ出してくる。ひと月にたったひとつしか実ることの出来ない内包はまた用なしと妃の子宮からこぼれ落ちた。

 主治医は明らかに落胆の顔をして、ぼそりと弟子の医師に事の結果を伝える。知らせはきっとあっという間に王宮中に広まるだろう。重い下半身を擦りながら妃はうんざりする。


「また駄目だった」

 子を生さぬ妃など割れ鍋の綴じ蓋だ。

 それでも妃付きの家臣は世継ぎを望んでいる。

 妃を推薦した侍従と対立する派閥が失態を手薬煉引いて待ち構えているのだ。ほんの些細な綻びが出世の道を阻み、足許をすくわれる危険は更に増えていく。

 

 体を冷やさぬように念入りな入浴を指示され、生薬や昔から良いとされる食事がずらりと並ぶ。子宝に恵まれた多産の妊婦を呼んで腹を触らせて貰ったこともある。そうして迷信とも、神頼みともいえる愚行を繰り返して次の営みの夜を待つ日々だ。


 占星術で吉日を占い、世子との閨の夜が決められる。


「今宵は世子様のお渡りが御座います」


「分かりました」

 皇太子妃として避けては通れぬ問題だと頭では理解しているが、何もかもがうっとおしい。こんな時は丈夫な体が恨めしい妃だった。


「今宵は香の香りが一際賑やかだな」

 夜着に着替えた尊宮が妃の寝所に来てみれば何とも妖しい香りが立ちこめる。香炉から立ち昇る一筋の煙が衣をすり抜け沁みていく。


「殿方の気持ちが高揚するそうですよ」


「ふん。なるほどな。あやつらの考えそうなことだ」

 尊宮はお膳に乗せられた酒を一口含んでそのままごろりと体を横たえ目を閉じた。


 これは営みの合図なのではない。尊宮は朝まで目を開ける気は毛頭ないのだ。

 尊宮は妃の寝所に来てはこうして何もせずに朝まで眠り続けている。

 子など出来る訳がない。

 医者に見てもらわなくとも尊宮と妃が一番よく分かっている真実だ。


 尊宮の桜花に対する気持ちは恋情なのだと随分前から気付いていたが、妃はさほど傷つかなかった。

 妃自身が恋などしたことがないから、恋などと言う曖昧で、不確かな心のときめきを理解できない。相手を想うだけで胸が暖かくなり会いたいと毎晩胸を焦がすなど、どんな欲求だろうと想像することさえ困難だ。だから桜花のために禁忌を犯し、神を裏切ってまで呼び戻そうとする尊宮の行動は異常だと思った。桜花を想うあまり気がおかしくなったのかと本気で考えた。

 尊宮が妃を蔑ろに扱ったことなど一度もない。妃としての立場を尊重し、大事にしてくれているのは確かだ。そうだからこそ、そこまで桜花を想うのなら、力になろうと思ったのだ。けれど、桜花は尊宮を尊敬しているが愛しているのではないと言った。

 国のために尊宮を支え、尊宮を信じて仕えるのが自分の生きる道だと教えてくれた。


 こうしてふたりで無意味な時間を過ごしていることが桜花のためだなんて自己満足もいいところだ。


「恐れながら世子様、もうこのような子供じみた悪あがきは止めにしませんか」


「何と?」


「世子様のお心に誰が居ようが構いません。世子様のお心は世子様のものです。けれど私は世子尊宮妃です。妃として全うしなければならないことに私情は関係ありません。世子様、私をお抱きください。そして、世継ぎを一日も早く儲けるのです」


「妃、気は確かか? 誰に何を吹き込まれた」


「まだお分かりにならないのですか? 世子様の足元を盤石にしなくては、この国はやがて朽ち果ててしまうのですよ。世子様を支持する者と私に仕えるすべての女官たちの運命がこの手の中にあるのです」

 妃は静に己れの腹に手を当ててみる。内にある女の本能がまたひとつの卵を育んで命を迎える順備を始めただろう。ここに命を宿すことが出来るのは尊宮以外にいない。


「世子様の来世は桜花に託しましょう。けれどこの世では私の夫は世子様ただひとり。私は妻として世子様を支える義務があるのです。私が出来ることはお世継ぎを産むこと。そうではありませんか?」


「妃」


「辛いのなら、目をお瞑りください。心に誰を想っても構いません。けれど今夜は私をお抱きください」

 妃は自ら寝間着を脱ぎ捨てていく。

 帯を解く度にその白い肌が露になって尊宮の目に晒されていく。

 恋などとは遠く愛もない交わり。それでも抱かれることは出来るのだと、冷めた心が感心している。

 

 桜花は今も夢の中で姉の帰りを待っているだろうか。


 けれど醒めない夢はない。

 どんなに厳しい現実が待っていようとも今生を生きなければ来世も巡って来ないのだ。絶望が待っているとしても今を生きていく。

 妃は決断を胸に秘め、目を閉じた。


 

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