6 更待月・姉妹遊戯 その2
満月の夜が来るまでは妃は自由に桜花の夢の中に現れる事が出来る。
太陽が西の空に沈むと夢への扉が開かれる。桜花は自分に都合の良い解釈をして時間を自由に操っている。しばらく現世での公務が忙しく、現れるのが何日かぶりになる妃に向かって桜花はこう言った。
「出張はどうだった? 仕事は上手く行ったの? お疲れ様でした」
もし仮にこのまま現れなくなっても桜花は想像を膨らませて自分を納得させるに違いない。例えば、お姉ちゃんは異国の地にお嫁に行って幸せに暮らしているとか、仕事の都合で離れ離れに暮らしているとか。理由はいくらでも用意出来るだろう。
夢の中でさえも桜花は多くを望まない。
これまでの経験が欲張ってはいけないと桜花を無意識のうちに制止するのかもしれない。
ある時桜花の手荒れが酷く妃は自分が愛用していた椿油を分けてやったことがある。率先して人の嫌がる仕事をこなしていた桜花の手は酷い有様だった。けれどそれを知った女官長に咎められて桜花は三日間食事を抜かれてしまった。
「妃殿下に物を強請った厚かましい女」
そんな事実などどこにも存在しないのに、真実はねじ曲げられ悪意に染められていく。善意も状況次第では悪い結果を生んでしまう。後宮の狭い縦社会で己を見失わず、正しい行いを実行するのは容易なことではない。
「私が哀れに思ってその者にくれてやったと言うのですか? 勘違いしないでちょうだい。この者の指から流れる血を見なさい。その汚れた血が私の衣に一滴でも染みたらどうしてくれるのですか。私の纏う衣はすべて世子さまから頂戴したこの世に二つとない代物なのですよ。私の食する料理に触れたとしたら、女官長が一から作り直してくれるのですか。出来ないのなら手当てが終わるまでその者に仕事を与えてはいけません。これは命令です」
そんな小芝居を打たねば労ってやることも出来なかった。
「久しぶりに帰ってきた沙妃お姉ちゃんのためにご馳走を作るね」
「それなら私も手伝うわよ」
「沙妃お姉ちゃんが?」
驚くのも無理はない。
妃は料理などしたことはない。これから先もしないだろう。誰も包丁の使い方など教えてはくれないし、白魚のような手を冷たい水に晒すことも許されない。見れば泥に被われた食材をきれいに洗うには似つかわしくない指輪が両方の指にはめられている。見事な金細工の施された指輪は今は邪魔なだけだ。
「怪我をすると大変だから、包丁は握らないでね」
飾り気のない桜花の小さな手が次々と食材をさばいていく。鍋に水を張り、火にかけ、グツグツと煮えだす頃にはきれいに切り終わり、次の作業に取り掛かっている。この手際の良さは経験に基づく知恵と工夫の賜物だ。
役立たずはどちらの方なのか。
腹を空かして泣いている幼児の涙を止めることが出来るのは何も持たない桜花の手に違いない。
「もうすぐ出来るから、お皿を用意してくれる?」
「そうね」
結局何も手伝うことが出来ず、磨かれた銀食器を卓に並べる。
桜花はここでも生の食材を出すことはない。必ず火を通した料理が並べられる。多いときは5品6品の料理が並べられ、ニコニコと嬉しそうに妃が箸を付けるのを見ている。
「サクラは、好きな人はいないの?」
驚きのあまり目を見開いた桜花が頬を染めて妃を見つめた。
「いないよ。……でも、憧れている人はいるかな」
桜花の心を覗き見るようで気が引けたが、ゼンと言う馬番の男のこともある。現世で桜花の目覚めを今か今かと待ち続ける尊宮に少しでも良い知らせを届けたかった。
「……どんな人なの?」
「とても強くて志の大きな人。理想を夢で終わらせない、実現する力を持っている人」
誰のことなのか、名を聞く必要もないだろう。
今も魑魅魍魎の強者たちと必死に戦っている生まれながらの君主。迷走する国の未来を光のさす明日へ導く希望の灯火たる人。
「きっと素晴らしい人なのね」
「でも私には手の届かない人だよ。力になりたいと思うけど、それも難しいかな」
そんなことはないと、肯定してやれたらどんなにいいだろう。
尊宮は桜花の帰りを待ち続けている。けれど、帰ったところで世の中が変化したかといえば何も変わらないのだ。今まで通り桜花は宮殿で働く下女で、尊宮は仕える主。その主には自分という正妻がいる。寵愛を受けても一生日陰の身だ。そればかりか王宮に住まう毒婦や強欲な野心家に命を狙われ、これまで以上に危険がつきまとうだろう。正妻の妃ですら尊宮の足手まといになっているのが現状だ。
甘い誘惑が妃に囁く。
この世界だけが桜花を癒し穏やかな休息を与えてくれる。
このまま目覚めることなく年を取っていくことに何の問題があるのだろう。妃は会いたい時に会いに来ればいい。桜花は喜んで受け入れてくれるだろ。
現状を受け入れれば、妃の身代わりに毒を飲んだ桜花への罪の意識も感じず、どうなるのか分からない未来への不安も消えてなくなる。
---いいえ、違う。
これは自分が楽になりたいだけの願いだ。
妃にとって最も都合の良い結末でしかない。
現世では尊宮の正妻として家臣に傅かれ、国母として民に崇められる。尊宮の心は桜花にあるのだから後宮に居座る妾妃に奪われることもない。こうして夢の中に訪ねれば、無条件に受け入れてくれる可愛い妹となって桜花がいる。
浅はかでなんて身勝手な夢だろう。
今も桜花の胸に宿る妃への信頼に、背を向けることになる。
桜花はなにがあろうとも元の世界に戻るべきなのだ。
桜花が眠りに付く頃には現世に夜明けの明星が瞬く。妃も帰らねばならない時間だ。
「お休みなさいサクラ」
つぶやく妃の姿は霧中の雫となり消えて行った。




