2 不知夜月に咲く華
僕たちの毎日に大した変化は起きない。将来の為に勉強の日々を繰り返すのみだ。為すべきことがあることは素晴らしい。余計なことを考えずに無我夢中で励めば、時間はあっという間に過ぎていく。
なかったはずの僕たちの前に、ある日転校生がやって来る。しかも絶世の美女だと学校中は噂で持ちきりだ。名前は艶江沙妃と言うらしい。名前からして高貴な匂いが漂う。
噂の転校生はすぐに僕たちの目に留まった。いつの間にか彼女の回りには取り巻きが囲い、彼女を守っている。教室移動の間も、教室にいる間も、常に彼女の回りは人だかりが出来ている。
彼女は確かに美しかった。すらりと伸びた手足と優雅な身のこなし。口元は常に微笑を絶やさず、涼しげな目元は人を射抜く強さを放っている。
こんな美人にいまだかつてお目にかかった事はない。
ゼンちゃんは口を開けたまま放心状態だ。
「綺麗だな~」
「転校生なんて初めてだね」
けれど、学校の生徒会長でイケメンの渡会尊先輩とは許婚同士らしい。余りのショックに言葉もない。僕たち下級生にはすれ違うことすら滅多にない渡会先輩は全校生徒の憧れの存在だ。そんな美男美女の組み合わせに横やりを入れるバカはいない。僕たちには所詮手の届かない高嶺の花だ。
廊下を歩いていると古筝の音色が何処からともなく聞こえてくる。
弦を爪弾く指先の抑揚でたおやかな音が波打ち、心に流れ込んでくる。太鼓のように一打で心を鷲掴む強烈な響きは無い。繊細で優雅なその一音一音に、様々な感情が木霊する。
魂が癒されるようだ。
どれだけの時間を割いて稽古に励んだのだろう。取り柄のない僕には想像も及ばない。
音を楽しみ、感情を豊かにするのが音楽なら、演奏できない僕もその楽しみ方を知っている。
楽器を待たないのなら、この自然の音を奏でれば良い。
風の音を子守唄に。
さらさらと流れる川のせせらぎと小鳥たちのさえずり。
森がざわめく夜には空を覆う雲の流れを見送り、やがて晴れて虹の出る空を謳う。
生きとし生けるものたち万物の調和がそこにある。
この世は誰か特別な人だけのものではない。すべてが巡り繋がっている。
自然の中では人はただ人でしかない。
「誰かいるの?」
教室の一室から出て来たのは噂の転校生だった。
「ごめんね。演奏の邪魔をしたね」
「あなたは?」
「僕は一年のサクラ。音色に魅かれて聞き入ってしまったよ」
「桜……。そう、あなたは桜なの」
今日は取り巻きがいないのか、彼女は一人きりだった。廊下に立つ彼女の存在は圧倒的だった。色を失くした灰色の世界に一滴の朱を落としたような鮮やかな華。世の中にはこういう特別な人間が存在するのだと思い知らされる。身ぐるみ剥がされて全てを見透かされるような強い瞳に射抜かれ、いたたまれない。
「桜---あなたに聞きたいことがあるんだけど教えてくれない?」
「うん。何かな」
「今日は何曜日なの」
「可笑しな事を聞くね。今日は月曜日。全校集会があっただろう」
「そうね。今日は月曜日。それなら昨日は日曜日ね」
「そうだよ」
「ならあなたは昨日何をしていたの」
「えっ……」
「土曜と日曜、学校のお休みの日にはあなたは何をしているの?」
「それは……」
「あなたのお家は何処にあるの? お父さんは何をしているの? 昨日は家で何を食べたの? 兄弟はいるの? 学校以外のあなたの事を教えてよ」
「……学校以外の…僕……」
彼女の言っていることは理解できる。
僕には家族がいて、住む家があって、毎日学校に通っている。フカフカな布団に温かいご飯。それらを用意してくれるのは優しい母さんで、働き者の父さんが疲れた体を引きずって帰ってくるのを待っている。目を閉じればその景色は脳裏に浮ぶ。
鍋を温める母さんの背中に「お替り」と呼び掛ければ母さんは振り返る。けれど、その顔は、---のっぺらぼうだった。
「ひっ……」
「桜、あなたに経験しなかった事は想像出来ない。小さい頃に親を失くしたあなたに家族の団欒は思い描けた? お母さんの顔を思い出せたの?」
美しい顔を歪めて彼女は僕を絶望の闇に叩き落とした。
『正しいことを当たり前に正しいと言える人におなり』
頭を撫でるやさしい掌。
見上げればその瞳はいつも温かかった。
『そういう世にしようと私は思う』
揺るぎない信念を持ったかの人は語る。
あなた様ならきっと成し遂げられる。
誰もが平等に幸せに暮らせる世をあなた様なら作ることが……。
嫌だ。
僕を呼ばないで。
僕はここで生きたいんだ。
誰も僕を見下さない。
蔑まれて、憎まれて、ズタズタに傷つき、ぼろきれのように捨てられるのは嫌だ!!
強く願えば教室の何時もの風景が広がる。明るい陽射しにまどろむ生徒たち。四季がいつかも分からない。暑くもなく、寒くもない日常のひとこま。僕は安堵して隣の席のゼンちゃんを呼ぶ。
「ゼンちゃん!」
「肉がないと食べた気がしないよ。野菜なんて犬畜生の食べるもんだ。肉を食べなきゃ食べた気がしないよ。野菜なんて腹の足しにならない」
「ゼンちゃん……」
「肉を食べなきゃ---」
繰り返される言葉は感情の伴わない無意味な音でしかない。ゼンちゃんはカラクリ人形のようにその瞳に僕を映さない。
何時から?
何時からだろう。
僕は何者なんだ。
考えようとすると心臓がざわつき始める。
『考えることを止めてはいけない』
僕に教えてくれた人は誰だ?
頭が痛い。
この世のあらゆる苦しみが押し寄せて全身に痛みを与えられるようだ。
もうすぐ僕は死ぬのかもしれない。
僕もゼンちゃんも氏名を持たない。僕らの先祖が何を成した人なのか何も知らない。歴史に名を残す英雄でも、仕事に命を賭けた巧みでもない。その他大勢の働き蟻の一匹だった。だから、口減らしのために捨てられ、奴隷同然に働かされ続けたんだ。
『……お前は本当に物覚えが良いのだね。とても利口な生徒だ。太平な世であればお前は自由に何処へでも飛んで行けただろうにね』
哀れみに満ちた言葉が蘇る。
僕に読み書きを教え、人の世の理を説く人。
考えることを止めてはいけない。
それは、今この瞬間も、僕に考えろと問いかける。
視界がぼやけてゼンちゃんの影が薄くなっていく。
ゼンちゃんはいつだって僕に都合の良い言葉を掛けてくれた。失敗した時は優しく慰めてくれた。嬉しい時は一緒に笑ってくれた。悲しい時は黙って側にいてくれた。
---そうか。
そうなのか。
ゼンちゃんはこの世界に存在しない幻だったのか。
僕の世界からひとり、またひとりと優しい嘘が消えていく。
絶望の中、僕を優しく包んだのは沙妃さんだった。彼女はすべてを承知しているように、崩れ落ちていく僕の体を抱きしめた。
「可哀相な桜……あなたを苦しみから解放するにはどうしたらいいのかしら。いっそこのままあなたを此処に閉じ込めてしまいましょうか」
「沙妃、さん…」
「あなたの本当の名を教えてあげる。あなたの名は---」
「ああああああっ---」
僕の平和な世界は消滅した。