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メカニカル・シンドローム  作者: とつる
一章 ヴァルハラ自警団
13/25

死闘

 行く手を遮るように両手を広げる木々たち。

 枝や固い樹葉に肌を引っ掛かれながらも、草木を掻き分けて進んでいく。

 重い影に濡れる地面はぬかるみ、気を緩めば足を滑らせてしまいそうだ。

 視界も最悪で、ほとんど木の幹に手を付いて歩いている状態である。


 まるで虚空の世界のようだ。


 果てしなく続く暗闇に、そんな錯覚すら覚え始める。

 無力感、閉塞感、孤独感、虚無感、絶望感。

 ありとあらゆる負の感情が、徐々に徐々に胸を締め付けてくる。

 今にも頭がトチ狂いそうだ。

 しかし微かに聞こえる鳴き声が、唯一俺の足を地に繋ぎとめてくれた。

 その声を頼りに、一歩一歩進んでいく。

 少しづつ近くなる声に向かって、一歩一歩歩んでいく。

 そして――


「……見つけた」


 か細い鳴き声を上げて、蹲る子犬が一匹。

 毛色は茶色で、しっぽの先は白だった。

 間違いない。少年が探していた子犬だ。


「ウー…ッ、ウー…ッ」


 まるで身を隠すように木の裏に隠れていた子犬は、俺の足音に気付くやいなや唸り声を上げ始める。

 耳は真っ直ぐ天を向き、剥いた牙の間からは荒々しい息を吐き出す。

 どうやら俺を警戒しているらしい。だが、その動きはやや不自然だった。

 よくよく目を凝らせば、どうも後ろ足を庇っているように見える。 

 

「なんだ足を怪我しただけか……ってこれも一大事だな」


 ベルヴィーの物騒な発言に嫌な予感を抱いていたが、最悪の事態には至っていないようだ。

 そもそもベルヴィーが俺をからかって言っただけかもしれない。

 ひとまず安堵の息を吐いて胸を撫で下す。しかし楽観するにはまだ早いだろう。


「ほら、飼い主のところに戻るぞ」


 怪我をしているのなら、早く村へ戻って手当しなければならない。

 そう思い、子犬を抱え上げようと腕を伸ばした時。


「痛ッ!!!」


 思いっきり左腕を噛まれて、悶え苦しむ。

 あまりの痛さに涙さえ浮かんできたが、俺の腕から逃れた子犬は未だ牙を剥いて毛を逆立てていた。

 これはなかなか曲者そうだ……。

 じわじわと血が滲み始めてきた傷口に唾を塗りつつ、どうするべきか考え込む。


「ぐるるる……ッ!」


 目が合えば、尻尾を立てて唸る獰猛な子犬。

 このまま無理やり連れて行っても、暴れて怪我を悪化させるか。俺の怪我が増えるかのどっちかになるだろう。

 ひとまず咬みつくほどの元気があるなら、そこまで急ぐ必要もなさそうだ。

 心を許してくれるまで気長に待とう。


「!!?」


 子犬の傍に膝を付くと、びくりと体を強張らせる。

 しばらく小さな体を震わせながら、子犬は俺の挙動を窺い続けた。

 そして何も手出ししてこないことがわかると、すぐに尻尾を垂らして伏せこんだ。


「ははっ、ほんとは臆病なくせに……なんでこんな所に来たんだ?」


 子犬の一挙一動がなんだか可笑しくて、思わず笑い声が零れた。

 一方、子犬は五月蠅いとでも言わんげに耳を閉じてしまった。

 しかし未だ警戒は解けていないらしく、円らな瞳は俺の動きをじっと監視している。

 小さな体を小刻みに震わせながら、子犬は自分の身を必死に守ろうとしていた。


「まぁ、そうだよな。知らない所って……怖いよな」


 心細そうに丸める体に手を伸ばしてみると、子犬はびくりと身を竦める。


「そのうえ知らない人間が来たら、警戒するもんだよな」


 子犬に触れることなく、離れた指先を眺めてポツリと呟く。

 心細ければ心細いほど、自分しか信じられなくなってしまうのかもしれない。

 怯えて蹲る子犬に妙な親近感を覚え、気が付けば俺は苦笑を浮かべていた。


 仕方なく腰を下ろして背筋を伸ばせば、溜りに溜まった緊張が抜けていく。

 ふっと体が軽くなったような気がして、溜息すら零れた。

 走り回った疲れを癒すべく、自然と体の底から熱も浮いてくる。

 心地よい感覚に意識が微睡み始め、うとうとと視界が揺れていく。


 いけないと思いつつも、ゆっくり瞼を閉じた時――


「!?」


 一瞬にして意識が現実に引き戻される。


 何か物音がした。


 体を起こして辺りを見回すが、その姿は見えない。

 ただ確実に、何かが近づいてくる。

 草を踏みつける音、木の枝を折る音、そして荒い息遣い。

 杞憂であって欲しい。けれど酷い既視感に頭が痛み、目が眩む。

 

 子犬もまた気配を感じとったのか。耳を立てて、牙を剥き始めた。

 しかし小さな体躯は今までにないほど震え上がり、白い尾は地面に付くほど垂れ下がっている。

 

 咄嗟に身を潜めるが、離れる気配はまるでない。

 むしろ近づいてくる一方だった。

 卑しく、汚らわしく。

 耳を舐める足音に、呼吸が次第に乱れていく。


 ひたすら一心に足音が消えるのを願っていると、不意に足音が止まる。

 しかしそれは俺の願いを叶えた訳ではない。

 見えない暗闇の向こうで、視ている。

 歯を軋ませ、舌を舐めずり、血に飢える獣が視ている。 

 それに気付いた瞬間、頭の中でベルヴィーの声が蘇った。


『喰われちゃうわよ?』

 

 無理やり子犬を抱え上げると、驚きのあまり子犬は腕の中でもがく。

 仕舞いには手当たり次第に俺の腕に咬みついて、激しく抵抗した。

 しかしもはや悲鳴を上げることも、子犬を手放すことも出来ない。

 ぐっと奥歯を噛み締めながら、子犬を両腕に抱えて走り出す。


 どこに向かえば良いのか、どこを目指せばいいのか。


 それすらも分からずただ走り続ける。

 一刻も早くこの場を離れなければいけない。

 そんな根拠も何も無い直観だけを信じて、草木に頬を抉られても構わず足に鞭を続けた。

 

 だが、不意に暴れていた子犬の動きが止まった。

 

 何事かと思い、子犬が見つめる先に合わせて振り返ると――風を切って迫る拳が目に入った。


「ッ!!?」


 咄嗟に頭を下げると、頭上を一陣の風が掠める。

 その風圧に髪が捲れた矢先、耳を劈くほどの轟音が鳴り響いた。


 顔を横を向ければ、体が真っ二つに折れた大木が無残に転がっている。

 もし当たっていれば、ひとたまりもなかっただろう。

 自分の首がちゃんと繋がっていることを確認しながら、俺はぞっと背筋を凍らせる。

 だが脅威はそれだけじゃない。


 襲いかかる殺意を感じて地面を蹴れば、再び轟音が唸る。

 前方に飛び出したおかげで難を逃れたが、さっきまで居た場所には大きな窪みが出来ていた。

 そしてその窪みを前に、一人の男が立ち尽くしている。

 だらりと垂らした腕からはとめどなく血を流し、爛れた皮膚からは銀色の肌が覗く。

 やはり彼は――機人だった。

 しかし以前遭遇した機人とは、体格が大きく異なっていた。

 荒野にいた機人に比べて体の線は細く、ひと回りほど小さい。

 その背格好は、俺と同じ年頃の青年のようにも見えた。


「……?」


 だが奇妙なことに。

 男はそのまま足を止めたまま、途端に身動き一つしなくなった。

 こちらに襲い掛かってくる様子もまるでない。

 男一人だけが、時に置き去りにされてしまったようだ。

 しかし、その口からは荒い息遣いが絶え間なく漏れている。

 恐らく死んではいないのだろう。

 そして血走った眼がこちらを凝視している限り、また襲い掛かってくる可能性がある。


 どうして急に襲ってこなくなったのか。 

 理由はわからないが、逃げるなら今の内だろう。

 そう思い立つや、怯えて吠えることも出来なくなってしまった子犬を抱え直して踵を返す。


 走って、走って、走り続けて。

 時には後ろを振り返ってみるが、追いかけてくる気配はない。

 だからといって安堵は出来ない。

 なるべく遠くへ、息が続く限り走るしかなかった。


 そしてふとある事に気付く。

 雑木林の中には、いくつか人ひとりが通り抜けられそうな道が出来ていた。

 舗道と言うには程遠いが、進行の邪魔になりそうな草木は丁寧に手折られている。

 

 人の手が加えられた証拠だ!


 一抹の兆しを見出し、半ば滑り込むようにその道へ進んでいく。

 既に方向を見失ってしまった俺は、この可能性に賭けるしかない。

 あわよくば村へと続いてくれ、そう心の中で懇願した。

 

 そしてその願いは幸運にも叶えられる。


 行き着いた先が、子犬を最初に見つけた場所だったからだ。

 ここまで来れば村までの帰り道はおおよそわかる。

 無事、村に戻ることが出来るだろう。

 

「……だけど、現実はそんなに甘くないか」

 

 ポツリと呟くと同時に、額から一筋の汗が伝って落ちる。

 腕の中で身を縮める子犬は、俺の心情に合わせるように鼻を小さく鳴らした。

 

 覚悟を決めて、一度唾を大きく呑みこんだ後。

 息を潜めて木陰に身を隠し、僅かに枝葉を掻き分けて覗いてみる。

 すると、そこには一人の女が立っていた。

 破れた衣服から剥きだす青白い肌、不穏に揺らめくざんばらな髪。

 女は何かを探すように、覚束ない足取りで辺りを歩き回っている。

 そして時より歪む口の中からは、鈍色の歯が覗いた。

 どうやらあの女も機人らしい。

   

 最悪の展開だ。


 このままでは村へ帰ることが出来ない。

 なぜならあの女が帰り道を塞いでいるからだ。

 しばらく立ち去るのを待っていたが、一向に女はあの場を離れようとしない。


 よくよく考えてみれば、最初の足音はこの女の物だったかもしれない。

 先程襲い掛かってきた男は、逃げていた俺に対して異常なまでに追いつくのが早かった。

 もし男と足音の持ち主が別人なら理由はつく。

 

 たまたま逃げていた俺と鉢合わせたか、はたまたこの女と共同で動いているか。


 どちらせよ、このままぐずぐずしていられない。

 またいつあの男が襲ってくるかもわからない状況だ。

 挟み撃ちにあえば、それこそ一巻の終わりである。

 もはや残された道は、戦うことだ。


 辺りを探ってみると、地面を貫いて出てきた太い木の根が目に付く。

 その間にはちょうど小さな穴が空いていた。


 これならなんとかなるかもしれない。 


 そう思い視線を下げれば、子犬が耳を垂らして怯えていた。

 不安げに揺れる瞳には、俺の姿が淡く映り込んでいる。

 一度強く唇を噛みしめた後、しゃがみこんで子犬をその穴の中に降ろす。

 

「キュー…ン、キュー…ン」


 立ち上がると、突然子犬が切ない声で鳴き始めた。

 その姿はまるで俺を引き留めているようだ。

 最後の最後に可愛げを見せるなんて、ずいぶん卑怯な犬である。


「ここで大人しく待ってろよ」


 柔らかな毛並みを掻き分けて、頭を撫でてやれば子犬はそっと目を閉じた。

 

「……良いこだ」


 最後にポンポンと軽く頭を叩けば、子犬はもう鳴くことはなかった。

 ただじっと円らな瞳を俺に向けている。

 後ろ髪を引かれるような思いに駆られるが、なんとかそれを断ち切って歩み出す。


 そして手近に落ちていた木の枝を手に取り、試しに振ってみる。

 多少丈夫そうだが、風を切る感触はかなり柔らかかった。

 即席の武器にしては、やはり頼りない。

 しかしこれで一度機人を倒したのも事実だ。運が良ければ、また切り抜けられるかもしれない。


 だが、本当にそれは正しい認識なのだろうか。


 あの時は夜で視界も不明瞭だった上に、ひどく興奮状態だった。

 そう思い込んでいただけで、もしかしたら……いや、今は物思いにふけている場合じゃない。

 自分の腕と運と、それにこの世界に居るかどうかもわからない神様を信じよう。


 自分を鼓舞するように左手で強く枝を握り締め、右手を添える。

 大きく息を吸って吐いた後、一歩を踏み出す。


「……!?」


 女はこちらを振り返ると、瞬時に腰を落として身構える。

 とてもか弱い女が取る行動ではない。動物というより獣じみた反応だ。

 切っ先を向けて牽制すれば、女は警戒をしてじりじりと後退していく。

 しかし目を血走らせて牙を剥く女は、隙を見せればいつでも襲い掛かってくるだろう。

 やはり彼女は人間ではない。

 そう確信すると同時に、握る手に余分な力が入っていく。

 いけない。

 慌てて呼吸を整えて、極力肩の力を抜く。

 余計な緊張は剣を鈍らせる。力を籠めるのは打つ瞬間だけだ。


「……」


 目を据えて動きを見ていると、女は距離を取ってばかりであまり近づいて来ない。

 荒野の男とは違い、かなり慎重な性格をしているようだ。唸るばかりでまるで動こうとしない。

 だからこそこちらもなかなか仕掛けることが出来ず、剣先が止まってしまう。

 相手は人ではない未知なる者だ。どんな動きをしてくるか分からない以上、下手な動きは出来ない。

 それが生死に関わることならばなおさらだ。

 せめて何か隙を見せてくれれば……そう思いながら、枝の切っ先を女に向けたままを上下に揺らしてみた。

 すると動かす度に、女は足を踏みしめて警戒する。どうやら動きに機敏に反応するらしい。


「それなら……」


 どうにか隙を作らせることは出来るかもしれない。

 上唇を舐めて、耳鳴りがするほど脈打つ心臓を落ち着かせる。

 いつも通り、いつも通り……そう心の中で繰り返しながら、構えを取る。


「!!?」


 刹那、突然間合いを詰められた女は、目を大きく見開き驚愕の表情を浮かべた。

 そして眼前に迫る枝の切っ先に反応し、素早く地面を蹴り上げる。

 後方へ下がりながら、女は両手で自分の顔を保護する。

だがその必要はなかった。

 間合いを十分過ぎるほど空けていたおかげで、後ろに飛び下がりさえすれば当たらなかったのだ。

 女の用心深さが功を奏した。しかし、だからこそ女は失敗した。

 簡単に避けられる間合いだったと把握していれば、用心して顔を守らなければ、気付けたはずだった。

 さらなる追撃に。


「ゥゲエァッ!!」


 反吐を撒き散らしながら、女は体をくの字に曲げて呻く。

 その薄い脇腹には、木の枝が深々とめり込んでいた。

 勢いのまま女を横に薙ぎ払えば、華奢な身体は呆気ないほど宙を舞っていく。

 衝撃に弄ばれるまま、地面を転がり、草木をなぎ倒し、大木に身を打ち付ける。

 最後に短い吐息を漏らした後、女の手足はぷつりと事切れた。


「……はぁ、はぁ。突き胴なんて……試合でもやったことないぞ」


 一気に押し寄せてきた呼吸に、思わずむせ返る。

 胸を抑えながら何気なく片手を見ると、木の枝が真っ二つに折れていた。

 こればかりは仕方がない。

 打突が出来ただけでも十分だ。いや、十分過ぎるほどの功労者だ。

 愛の言葉を囁かん勢いで木の枝に深い感謝をした後、近辺に投げ捨てる。

 

 そして警戒しながらゆっくり女に近づき、その口に手を翳す。

 すると僅かながらも、吐息が手の平に触れた。

 女はまだ生きている。

 しばらく動くことはないだろうが、このまま息絶えることもないだろう。

 それが分かった途端、安堵の溜息が零れた。

 だがすぐに、自分の行動の違和感に気付き口を押える。


「何やってんだ……俺?」


 機人の安否を確認してどうするんだ。

 どうして機人が生きていて安心しているんだ。

 命の危険に晒された相手に対して、それはあまりにも軽率過ぎる行動だった。


「……」


 開いた両手を強く握り締めた後、立ち上がる。

 はやく子犬を連れて村に戻らなければ。

 呆然としながらも足だけは動かして、子犬の元へ向かう。

 きっと怯えて震えているはずだ。

 はやく、早く戻ってあげなければ――


「喰われちゃうわよ?」


 再び響いた少女の声。

 咄嗟に振り返れば、鈍色の牙が光る。


「ッ!!?」


 地面に背中を強かに打ち付け、一瞬息が止まった。

 大きく揺れる視界に吐き気を覚えながらも、左手を天に向けて突っぱねる。

 熱い息が頬を撫で、生温い唾液がしとどに胸を濡らす。

 腕に走る無数の痛みに思わず顔が歪むが、この手を離すことは出来ない。

 さもなければ―俺が――この機人の男に喰われてしまう。


 今すぐにでも喉笛を噛み千切りたい。

 そう言いたげに、男は鈍色の歯をかち鳴らす。

 しかし俺がその頭を片手で押さえつけているため、それは叶わない。

 男は煩わしそうに俺の腹の上で何度も何度も体を跳ねては、邪魔な左腕を掻き毟る。

 その度に、俺は呻いて胃液を逆流させた。

 次第に肌は鋭い爪に裂けられ、抉られ、赤黒い血まで噴き出し始める。

 そして血に刺激されたのか、男の行為はますますエスカレートしていく。

 

 拳を振り上げ、一回、二回、三回、四回……

 

 顔面めがけて、男は拳を叩きこんでいく。

 骨がひしゃげる音、歯が折れる音、なんだか色々ひどい音がした気がした。

 意識が何度も飛びそうになったが、左手に力を籠めて自我を繋ぎとめる。

 けれども、暴力の雨は一向に止む気配が無かった。

 

 もはやこんな抵抗も無駄かもしれない。

 

 熱い血が咥内から止めどなく溢れる反面、体の奥底は急速に冷えはじめる。

 これが死ぬ瞬間なのかもしれない。

 おぼろげにそんなことを思うと、途端に視界が黒い靄で霞んでいく。


 もしまた目覚めることが出来るのなら、そこは元の世界だろうか。


 そんな奇跡があるのなら、一度死んでみるのも悪くないかもしれない。

 誰に向ける訳でもなく、歪んだ口を曲げて苦笑を零す。

 そして視野を犯す靄を払い除けるようにそっと瞼を閉じれば、世界は消えてなくなる。


 誰にも犯されない、穢されない。

 新たな世界はとても静かで真っ白だった。

 一度、こんな世界を夢に見た気がする。

 けれどあの時は、もっと穏やかで暖かかった。

 触れたい、そう思うほど優しい光に満ち溢れた世界だった。


「ああ、そうか俺は……」


 こんな別れ方はしたくないんだ。


 瞬間、男の頭が砕け散った。

 撒き散る肉片。きらめく金属。雨水の如く降る赫い血。

 だらりと痩せ細った両腕を垂らすと、男の体はまるで探し物をするかのように揺れる。


 しかし、彼の探し物はきっと見つからない。失くした首はもう戻らないのだ。


 ほどなくして倒れた男の肢体は、奇しくも俺の胸に納まる。

 同時に立ちこめる肉の臭いが鼻を突き、しとどに流れる血が頬を濡らした。

 けれども俺はただの物体と化した男を退かすことなく、空を見つめ続ける。

 天に向かって伸びる、己の左腕を見つめ続けた。

 

「――!?」


 突如、抜け殻の首の向こうから機人の女が飛びかかってきた。

 雄叫びを上げ、ざんばらな髪を振り乱しながら

 青白い額から血が流れるのも厭わず、両手を俺に向けて振りかぶる。

  

 だが、待てども待てども女の手は降り降ろされない。

 その代わり――ごとり、と女の首が俺の真横を転がっていった。


「ナイスタイミング!」


 不意に上がる軽い調子の声。

 崩れた肢体の向こうから、陽気そうな男の顔が覗く。

 そして剣を振って血を払った後、男は口の端をニヤリと歪める。


「それとも、バッドタイミングだったか?」


 鈍色に光る左腕を見ながら男は――トニは、俺に剣先を向けた。


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