苦渋の決断
注:女官は宮廷に仕える女性のこと。命婦=上級女官。女孺=実務女官。なんちゃって奈良・平安時代風ですので、ご注意を。
寝具は柔らかで清潔なものを。濡れ縁は歩いても足が汚れぬように拭き清めて。ワカはてきぱきと女孺たちに指示を出す。剛の者召喚の儀まであと少し。それに立ち会うことになっているワカとしては、早々に仕事を終わらせておきたい。
剛の者を出迎える準備の仕上げをしながら、ワカは暗いため息をつく。髪上具の釵子の飾り紐がふわりと揺れた。
「ワカ、比礼に糸くずが」
「ありがとう、コナミ」
親切な同僚に礼を言って、ワカは改めて自身の格好を見直した。
髪上具は見えないがコナミが注意をしなかったということは大丈夫なのだろう。白い裙も汚れは見あたらないし、緋色の大袖もこの日のために用意した上等なものだ。紕帯も崩れていないし、薄い桃色の比礼も派手すぎない。
どこからどう見ても模範的な命婦だ。
唯一違っている点と言えば、普段ならば年若い皇女の世話をしているはずが、女孺たちに仕事を割り振って監督しているという点だろう。
そしてこの最後の仕上げが終われば召喚の儀に立ち合い、そのまま剛の者たちの世話をする侍女となる。粗相でもして剛の者の機嫌を損ねた日には、ワカの首が飛ぶどころか妖怪討伐を拒否されてこの都が滅びるかもしれない。
ワカは数日前の帝との謁見を思い出して胃のあたりを押さえた。
いつものように皇女にねだられて琴をつま弾いていた時だ。
普段ならばワカが会うはずもない高位の文官がやってきて、帝がワカを呼んでいるのだと言うのだ。
訳が分からぬまま緊張した状態で帝の前に出れば、彼女と同じく帝から呼ばれたのであろう命婦が二人。一人はコナミと言ってワカよりも五つほど年上の命婦で、中堅ではあるが人の機微を読みとるのが上手いと評判の人物だった。彼女もまたワカ同様、戸惑いの色を見せている。もう一人はユリという年かさの命婦で、帝からの信頼も厚い。彼女は呼ばれた理由を知っているのか、落ち着き払っていた。
彼女らと帝、そして帝を守る武官以外に姿は見えない。異例のことだ。
ワカが平伏する前にちらと見た帝は、いささか顔色が悪いように見えた。
それもそうだろう、とワカは内心でごちる。
事の起こりは二月ほど前の話だ。
都から少しばかり離れたところにある禍の森と呼ばれる場所がある。
禍の森は瘴気が集まる場所と言われており、禍の源とも言われる。妖怪が生まれる場所であり、妖怪たちが人々に害をもたらさぬよう何十年も前に当時の都の陰陽師たちが力を振り絞ってかの森を封じたのだ。
ところが二ヶ月前にかつてない強大な力を持った妖怪が生まれた。その妖怪は封印を食い破り、他の妖怪たちを封印の外へと出した。
何十年も封じられていた妖怪たちは嬉々として人を襲い、食らった。
外に出てきた妖怪たちを陰陽師たちが退治しようとも、その大本となる妖怪が次から次へと新しい妖怪を産み出し、人を襲わせた。
妖怪たちから「主様」と呼ばれる妖怪を退治しようと何人もの人間が挑んだ。
けれども禍の森は瘴気が強く、ただ人では近付くこともできない。例外的にかの森に近付ける陰陽師たちは都を辛うじて守っていると言ってもいいほどだった。禍の森に討伐隊を派遣できるほどの余力はない。数の利はあちらにある。地方と分断されてしまえばじり貧になるのは火を見るよりも明らかだ。
齢四十を数える帝は、老いてなお衰えることはなく、精力的に平和を取り戻そうと奔走した。けれども度重なる妖怪たちの襲撃は治まることを知らず、都は荒れ、人々の命は散って行った。都を守る結界も日々綻びがつくろえなくなってきていた。
効果的な手段が講じれないようであれば、都が滅びる日も近い。
ワカが暗澹たる気持ちでいると、おもむろに帝が口を開いた。
「面を上げよ」
声に従ってワカは顔を上げた。
黄櫨染の衣をまとった帝の鋭い視線に思わずワカはたじろいだ。
「そなたらを呼んだのは他でもない。そなたらに任せたい務めがある」
おごそかな声に、ワカは背筋が伸びる思いだった。
帝は目をつむって息をつくと、手に持っていた扇をぱちりと鳴らし、再び目を開けた。
「三日後、剛の者を召喚する」
告げられた言葉に、ワカは頭が真っ白になった。
剛の者の話はワカも聞いたことがあった。都に未曽有の危機が襲ってきた時に外つ国から力を持つ者を召喚するのだと。
誰もがおとぎ話だと思っていたそれを、ワカは真実なのだろうと思っていた。願っていたと言ってもいい。
しかしいざ帝の口から召喚という単語が出てくると、それはどこか現実離れした響きとなっていた。
ぼんやりとした頭で、ワカは帝の言葉に耳を傾けた。
「今や我らの命運は風前のともしび。もはや剛の者に頼るしか我らが生き残るすべはない」
苦々しい面持ちで帝は言う。
「外つ国の若者にこの国の未来を託すのは忍びない。恥である。しかし、やらねばならぬ」
剛の者は外つ国より召喚される。それは船でも馬でも行けぬ天上の国だという。そこから来た彼らは、自分たちとは比べ物にならぬほどの力を持っている。
「剛の者はこの国の最後の頼みの綱だ。決して背を向けられてはならぬ」
いっそ悲壮とも見える決意が帝の中に見えた。
そして帝は三人の女官をしっかと見据えた。
「そなたらを信頼のおける女官と見込んで、召喚した剛の者の世話を頼みたい。剛の者が妖怪を討伐するまで不自由なきよう、誠心誠意仕えよ。決して逃げられてはならぬ」
それは国の命運を握る勅命だった。