土蜘蛛
現れたのは一匹の巨大な蜘蛛だった。
虎のような柄の胴は大の大人のそれよりも太く、頭の部分は真っ赤な鬼の顔をしていた。二本の角と、発達した顎、そして黄色く爛々と光る目をぎょろつかせていた。全長は二メートルほどありそうだ。
土蜘蛛と呼ばれている妖怪である。
「下がって!」
ワカが神咒とともに符を投げるのと、土蜘蛛が糸を吐くのは同時だった。糸にぶつかった符が燃え上がる。炎術の符だ。
「糸に触れると危険です、絡め取られてしまいます。お触れにならぬよう!」
ヤコの言葉に一同が顔を引き締めた。ヤコは術を紡ぎ始める。
土蜘蛛は炎に驚き一瞬その巨体に似合わぬ恐ろしい早さで飛び下がったものの、すぐさま燃え盛る糸を切り離し、左右の木立の間に紛れるように逃げ込む。しかし音からして近づいてきているらしい。
「緊縛の術をするには敵の動きが速すぎます。武官殿は牽制して土蜘蛛の動きを止めて下さい。浄化の用意は致します。瘴気を浴びたら私のところへ! 緊縛の術にて彼奴が動かなくなればお二方が止めをお刺しください!」
ヤコの言葉に全員が了解の意を示して戦闘態勢に入る。
蜘蛛の糸は近距離にしか届かないのか、土蜘蛛は間合いを計るように木の上を動き回っている。
武官たちが互いに距離を取って警戒している間に、ワカも符を構えていた。
ざっ、と投網のように木の上から糸が降ってきた。
「そこか!」
シュンテツが懐にひそませていた短刀を投げつけると、短い鳴き声と共に糸はさっと切り離された。
「ぐっ」
降ってきた糸がシュンテツに絡みつく。
ワカの言葉通り、土蜘蛛の糸はシュンテツの体にまとわりつき、切れる気配がない。シュンテツがもがく。
「シュンテツ殿! お伏せ下さい!」
言うや否や、マヨリがシュンテツの頭があったところに斬りかかる。土蜘蛛がその口を大きく開き、今にもシュンテツの首を噛み切ろうとしていたのだ。
土蜘蛛の牙は空を切り、マヨリの剣はその額に傷をつけた。土蜘蛛の傷口からはどす黒い瘴気が噴き出す。
「くっ!」
まともに瘴気を浴びたマヨリが苦悶の声を上げ後退った。
「マヨリ殿、こちらへ!」
焦ったヤコが声を上げるが、マヨリは意識が朧なのか、ふらふらとよろめいているだけだ。
土蜘蛛も唸り声を上げているが傷は浅いようで、すぐに体制を立て直すと、動けない二人へと狙いを定めた。
「マヨリさん、シュンテツさん!」
一番彼らに近かった尚吾が駆け寄ると、土蜘蛛から二人を庇うように立ちふさがった。尚吾の感情に呼応してか、籠手から火が噴き出し、土蜘蛛を威嚇する。
「こっちだ化け物!」
尚吾に気を取られた土蜘蛛の側面より勲が切りかかる。が、身の丈よりも大きい刀は僅かに木立の枝に引っかかり、その僅かな隙に土蜘蛛は切っ先を避ける。
すぐさま反撃に移ろうと脚を振り上げた土蜘蛛だったが、背後からの衝撃にたたらを踏んだ。
前には剛の者二人、背後には武官が囲い込んでおり、ハヤトが背後より土蜘蛛を蹴りつけたのだ。
囲まれて一斉攻撃をされてしまえばひとたまりもない。土蜘蛛はなんとか逃げ場を探るが、八方囲まれた上に上に飛ぶには少々木立までは距離がある。
ひとまず剛の者に狙いを定めた土蜘蛛は口をすぼめ、糸をはき出そうとしたが、
「縛!」
ヤコの鋭い声と共に、幾条もの光が土蜘蛛に絡みついた。
そして光の帯はたちまち土蜘蛛を地面へと縛り付ける。
「お二方、今です!」
ヤコが声をかけると、武官は土蜘蛛より距離をとった。尚吾と勲はそれぞれ身構え、渾身の一撃を土蜘蛛へと喰らわせた。
土蜘蛛は断末魔を上げながら炎に焼かれ、真っ二つになった。どす黒い瘴気が吹き上がる。
やがて時置かずして瘴気も収まり、黒く炭のようになった土蜘蛛を見て、ようやく一同は安堵の息をついたのだった。
「危なかったな……」
勲が汗を拭う。その手が震えていることに気付き、勲はぐっと拳を握り締めた。
「マヨリ様、瘴気を払いましょう。シュンテツ様も念の為」
ヤコが声をかける。
「なら先にマヨリを浄化してやってくれ。俺はこの糸を切らねば」
不機嫌なシュンテツが言う。彼に絡みついた土蜘蛛の糸は未だ切れない様子だった。凄まじい強度である。
と、ワカがおもむろに荷物の中から水筒と布巾を取り出した。そして水筒の中に入っていた液体を布巾に染み込ませる。
「シュンテツ様、失礼致します。しばらく身動きなさらないで下さい」
「ぬ?」
ワカが濡れ布巾でシュンテツに絡みついた糸を拭っていく。
「女官、それはなんだ」
「灰汁を煮詰めたものです。普段は洗濯で漂白に使うものですが」
「そんなものでなんとかなるのか?」
シュンテツは訝しげな顔をする。
「……溶けるだろうな。灰汁はアルカリ水溶液だ」
勲が顎に手を当てながら言う。
「あるか……なんですかな?」
シュンテツが尋ねると、勲はちらりとワカに視線を向けた。
「蜘蛛の糸はたんぱく質だから酸性で灰汁はアルカリ性……あー、まああれだ。湯に氷を入れたら水になるだろう。中和される。そんな感じだ」
シュンテツたちの顔を見て早々に通じないと悟った勲が言い換える。
「そーだっけ? お前良く知ってるな」
「尚吾、お前こないだナトリウム水溶液で指溶かしただろうが、もう忘れたのか」
勲が呆れたように言えば、尚吾はわざとらしく口笛を吹いて目を逸らした。
「しかし、女官殿。野営もほとんどしない予定でしょうに、何故そんなものをお持ちに?」
ヒロナリが不思議そうに尋ねると、ワカは至って当然のことのように言う。
「血しぶきが飛んだ服で帰還なさるのはいささか見た目が物騒でございましょう? 洗濯は女の仕事でございますから」
「ふん、何とも女人は呑気なことだ」
シュンテツはいささか呆れたようだったが、それ以上に悪しざまに言うつもりはないようだった。というのも、先ほどまであれほど苦労していた糸がぷつぷつと切れだしたからである。
「灰汁は肌に長時間触れると腫れてしまいます。一度手と顔は真水で洗い流された方がよいでしょう。幸い、近くに清流がございます」
ワカがつと手を上げて指し示す方からは、確かに水の音が聞こえてくる。
「マユリ様の浄化が終わるまで今しばらく時間がかかりましょう。どうぞ、その間に。私も布巾を洗いに参ります」
「ならば俺も行こう」
ハヤトが言う。敵襲を危惧してのことだ。
「なら俺も行くよ」
尚吾が手を挙げて言うが、
「尚吾はこっちで残っとけ?俺が行く」
「え、俺行くけど」
「いいから」
勲がしっしと尚吾を追い払うように手を振る。
勲たち四人は音の方へと歩いていく。ヤコの祓いの咒の声が徐々に遠くなる。
四人で歩きながら、ワカが不満そうに呟く。
「私がお嫌いでしたらあちらにいらっしゃればよろしいでしょうに」
すると勲は鼻で笑う。
「尚吾はお人好しだからな。信頼できないやつと残しておけないだろ」
「お友達思いでいらっしゃいますね。ですがご自身の人を見る目を過信されすぎているのでは?」
ワカはいつになく嫌味っぽく言った。
「胡散臭ぇんだよ、ブス」
「見た目については価値観の違いでございますね」
バチバチと火花を飛ばす年若い二人に気付きつつ、年長二人は複雑そうな顔で視線を交わしあったのだった。