「退屈な婚約者」と捨てられた私ですが、雨の日にだけ現れる古書店で見捨てられた本たちの声を聴いています——今さら「謝りたい」と言われても、私はもう前を向いていますので
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あらかじめご了承の上、お楽しみください
第一章 雨と嘲笑と、古書店の噂
「雨の日にしか現れない古書店? そんな都市伝説、本気にしてるの?」
友人——いや、もう元友人と呼ぶべきか——の嘲笑が、雨音に混じって背中に突き刺さる。
香坂澪は振り返らなかった。濡れた路地を歩きながら、ただ前だけを見つめる。
(……馬鹿にされても構わない。私には、あの店が必要なんだから)
六月の雨は冷たい。肩までの黒髪が頬に張り付き、地味なベージュのコートは既にぐっしょりと水を吸っている。折り畳み傘は鞄の中にあるのに、差す気力すら湧かなかった。
一週間前のことが、まだ頭から離れない。
◇
「お前といても退屈なんだよ」
三年間、共に過ごした婚約者・真壁翔太は、そう言い放った。
整った顔立ち、如才ない笑み、商社勤務の「将来有望な若手」として周囲の評価は高い。その翔太が、澪を見下ろしている。隣には——白川美月が、勝ち誇った笑みを浮かべて立っていた。
「……退屈」
澪は静かに繰り返した。声は震えなかった。震えそうになる喉を、必死に押さえつけていた。
「ああ。三年も付き合ってやったけど、正直限界だった。お前、華がないんだよ。地味で、暗くて、いつも本ばっかり」
「……そう」
「美月の方がずっと華やかで、俺にはふさわしい。分かるだろ?」
美月が翔太の腕に縋りつく。巻き髪にブランドで固めた装い、SNS映えを意識した華やかな容姿。大学時代からの「親友」だった女性の名前が、今は胸に錆びた釘のように突き刺さっている。
「美月が……あなたの、新しい婚約者ということ?」
「察しがいいじゃん。さすが図書館司書様。……まあ、それしか取り柄ないもんな」
翔太は鼻で笑った。
美月が、わざとらしく眉を下げる。
「澪、ごめんね? でも、恋愛って仕方ないでしょ? 翔太が私を選んだの」
「……ええ。仕方ないわね」
澪は淡々と答えた。怒りも悲しみも、今は感じなかった。いや——感じることを、心のどこかで拒否していた。
「あ、そうだ」
翔太が思い出したように言った。
「お前が集めてた古い本あるだろ。あれ、美月が欲しいっていうからやるよ」
——何を、言っているの。
澪の心臓が、一瞬止まった。
「……何を、言って」
「だって澪、もう翔太と一緒に住まないんでしょ? 置き場所困るじゃない。私が大切にしてあげる」
美月がにっこりと笑う。その笑みの奥に、歪んだ勝利感が透けて見えた。
「どうせお前の趣味だろ。俺には価値分かんないし、美月が喜ぶならそっちの方がいい」
——やる。
その一言で、澪が三年かけて集めた古書コレクションは、美月の手に渡ることが決まった。
古書市を何十件も巡り、真贋を見極め、傷んだものは自ら修復まで手掛けたコレクション。江戸後期の稀覯本から、明治の私家版詩集、戦前の限定装幀本まで——その価値を、翔太は最後まで理解しなかった。
「あれは……私が三年かけて……」
「三年? だから何? 古臭い本に執着してるから、お前は退屈なんだよ」
翔太は心底どうでもよさそうに手を振った。
「ねえ翔太、早く行こ? 予約してるんでしょ」
美月が翔太の腕を引く。
「ああ。……じゃあな、澪。元気でやれよ。お前みたいな地味な女でも、そのうち相手見つかるって」
澪は何も言えなかった。言葉が、喉の奥で凍りついていた。
「バイバイ、澪。本のこと、ありがとね」
美月が手を振る。その指先には、新品のネイルが光っていた。
——ああ、そうか。
澪は、ようやく理解した。
(この人たちには、最初から何も見えていなかったんだ。私のことも、あの本たちのことも)
(三年。三年も、一緒にいたのに。私は結局、何も伝えられなかった。伝えても無駄だと、諦めていたから)
(……お祖母ちゃん。私、間違っていたのかな)
「……お元気で」
澪は静かに頭を下げた。
「おう。……ったく、最後まで愛想ねえな」
翔太は肩を竦めて、美月を連れて去っていった。
澪は一人、その場に立ち尽くしていた。
(愛想がない。退屈。地味。……全部、そうなのかもしれない。でも)
胸の奥で、何かが軋む音がした。
(あの本たちだけは……私の宝物だったのに)
◇
——それから、一週間。
澪は雨の中を歩いている。
翔太と美月の声が、耳の奥で何度も再生される。「退屈」「地味」「華がない」——その言葉たちが、傷口に塩を塗り込むように、繰り返し心を抉った。
でも、今夜の澪を突き動かしているのは、悲しみではなかった。
——都市伝説。
SNSで時折囁かれる、真偽不明の噂話。雨の日にだけ現れる古書店。店主は不思議な青年で、店内には二度と手に入らない本が並んでいる——
馬鹿馬鹿しい。そう思っていた。つい、さっきまでは。
でも今夜、澪には縋るものが必要だった。
祖母から受け継いだ古書修復の技術。本の声を聞く力。それを理解してくれる人は、もう誰もいない。祖母が亡くなってから三年——澪の「耳」を分かってくれる人間は、この世界に一人もいなくなった。
だから、藁にも縋る思いで、噂の場所を訪れている。
(……あれ)
足が止まった。
見覚えのない店があった。
古びた木造の建物。軒先には控えめな灯りが一つだけ灯り、雨に濡れた看板が静かに揺れている。
『雨宿文庫』
その下に、小さく。
『雨の日のみ営業』
澪は息を呑んだ。
ここは何度も通った道だ。図書館からの帰り道、近道として使うことがある。でも、こんな店は見たことがない。こんな看板も、この古めかしい佇まいも。
(……まさか、本当に?)
ガラス戸の向こうに、薄暗い店内が見える。書架が並び、古い紙と革装幀の匂いが、ここまで漂ってくるような気がした。
澪の指先が、微かに震えた。
それは寒さのせいではない。
——本の匂いがする。
傷んだ本の、悲しい匂いが。
気づけば、手がガラス戸に触れていた。そっと押すと、思いのほか軽く、扉が開いた。古い蝶番が、かすかに軋む。
店内は薄暗く、でも不思議と怖くはなかった。天井まで届く書架が壁を埋め尽くし、革装幀の背表紙が整然と並んでいる。床は使い込まれた木で、歩くたびに優しい音を立てた。
空気が違う、と澪は思った。図書館とも、古書店とも違う。ここは——
「いらっしゃいませ」
声がした。
奥のカウンターに、人影がある。立ち上がったその姿は、背が高く、痩身。白いシャツに濃紺のベスト、銀縁の眼鏡。
三十代前半に見える青年だった。しかし、その瞳の奥には——どこか現実離れした静けさが湛えられていて、澪は一瞬、息をするのを忘れた。
「雨宿りですか? それとも」
青年は穏やかに微笑んだ。古風で丁寧な物腰。声は低く、しかし温かい。
「——お探しの本が、おありですか」
澪は答えられなかった。探している本なんて、ない。ただ、逃げるようにここへ来ただけだ。自分でも何を求めているのか分からないまま。
でも、足は自然と書架へ向かった。
指先が、一冊の本に触れる。
古い詩集だった。背表紙は色褪せ、角は擦り切れている。開くと、頁の端が折れ、しみが浮いていた。
——泣いている。
この本は、泣いている。
誰かに捨てられた。愛されていたのに、忘れられた。もう一度、読んでほしいと——
「……っ」
澪の指が、止まった。
いつからだろう。本に触れると、「声」が聞こえるようになったのは。傷んだ本の嘆き。読まれたがっている本の願い。それは澪だけの秘密で、祖母以外には誰にも話したことがなかった。
——話しても、どうせ分からないから。
「お客様は」
背後から、青年の声がした。いつの間にか、すぐ近くに立っている。銀縁眼鏡の奥の紺碧の瞳が、まっすぐに澪を見つめていた。
「——本の声が、聞こえる方ですね」
世界が、止まった気がした。
「その本は」
青年は、澪の手の中の詩集に視線を落とす。
「持ち主に捨てられて、傷んでいます。でもまだ、読まれたがっている」
——同じだ。
澪が感じていたことと、まったく同じ。
「どうして……」
声が掠れた。喉が詰まって、うまく言葉にならない。
「あなたは——あなたも、聞こえるんですか」
青年は微笑んだ。どこか寂しげで、でも温かい笑み。
「ええ。……ここは、そういう場所ですから」
雨がガラス窓を叩く音だけが、静かに響いていた。
澪は気づいていた。この店は、普通の古書店ではない。この青年も、ただの店主ではない。
でも、怖くなかった。
むしろ——ようやく、息ができる場所を見つけたような気がしていた。
「私は霧島蒼と申します」
青年——蒼は、静かに名乗った。
「雨の日だけの、この店の主です。……よろしければ、ゆっくりしていってください」
そう言って、蒼はカウンターへ戻っていく。
澪は、傷んだ詩集を胸に抱いたまま、しばらく動けなかった。
(——祖母ちゃん)
三年前に亡くなった祖母の顔が浮かんだ。「その耳は宝物だよ」と、幼い澪に言ってくれた人。「本には魂がある」と教えてくれた人。
祖母を失ってから、澪の「耳」を理解してくれる人は、一人もいなかった。翔太にも、美月にも、職場の誰にも——話しても分からないと、諦めていた。
でも、今。
雨音が優しく響く中、澪は小さく、息を吐いた。
涙は、もう止まっていた。
第二章 見捨てられた本たち
雨が降るたびに、澪は雨宿文庫を訪れるようになった。
婚約破棄から三週間。梅雨の季節は澪に味方するように、週に何度も雨を降らせた。
「いらっしゃいませ、澪さん」
蒼は澪の名前を、二度目の来店で覚えていた。古風な物腰はそのままに、しかし澪に向ける微笑みには、少しだけ親しみが滲むようになっている。
「今日は奥の書架に、新しい本が入りましたよ」
「新しい……仕入れ、ですか?」
「ええ」
蒼は多くを語らない。仕入れ先も、この店がなぜ雨の日にしか開かないのかも。
でも、澪は少しずつ気づき始めていた。
この店の本は——現世で「見捨てられた」本たちが、流れ着く場所なのだと。
「……っ」
奥の書架で、澪は足を止めた。
一冊の画集が、傷だらけで横たわっている。背表紙は折れ、頁は何枚か破れていた。
——痛い。
本の声が聞こえる。痛い、悲しい、どうしてこんなことをするの。
「この画集……」
「昨日、流れ着いたものです」
蒼がそっと隣に立った。
「持ち主に乱暴に扱われて、最後には捨てられた。まだ、読まれたがっているのに」
澪の指先が、画集の傷んだ頁に触れる。職業的な目が、瞬時に損傷を評価していた。
(背の崩れ、頁の破れ、しみ……でも、修復できる)
祖母の工房で培った十一年間の技術が、自然と手に蘇る。
「蒼さん。この本……私に、直させていただけませんか」
蒼は少し目を見開いた。そして、穏やかに微笑む。
「澪さんは、やはり——」
「私、祖母から古書修復を習っていたんです」
言葉が、自然と口をついて出た。翔太には「ちょっとした趣味」としか言えなかったのに。
「江戸期の和綴じ本も、西洋の羊皮紙写本も……一応、修復できます」
「一応、ではないでしょう」
蒼の声は、静かだが確信に満ちていた。
「貴女の指先を見れば分かります。本を慈しむ者の手だ」
澪の胸が、熱くなった。
——見てくれている。
この人は、ちゃんと見てくれている。
「お願いします、澪さん。この子たちを……救ってあげてください」
◇
澪は修復道具を雨宿文庫に持ち込むようになった。
祖母から受け継いだ道具一式。革のケースに収まった、ヘラ、刷毛、糸、針、和紙、そして特注の糊。十一年間、週末ごとに祖母の工房で磨いた技術の全てが、この道具に詰まっている。
手に取るたび、祖母の声が蘇る。
「本には魂がある。傷んだ本は泣いている。私たちはその涙を拭いてあげる医者なんだよ」
——紙の医者。
祖母はそう呼ばれていた。どんなに傷んだ本でも、祖母の手にかかれば蘇る。澪もそうなりたいと、十五歳の夏に誓った。
でも、周囲には理解されなかった。
「女の子がそんな職人仕事をしても」「地味な趣味ね」「もっと華やかなことに興味を持てば」——
親戚中から言われ続け、澪は自分の技術を隠すようになった。見せても無駄だと。分かってもらえないと。
翔太にも、そうだった。三年間、傍にいたのに。一度も、本当の自分を見せなかった。
「澪さんの手つきは、本当に美しい」
蒼の声で、澪は我に返った。
カウンター越しに、蒼が澪の作業を見つめていた。
「まるで、傷ついた生き物を治療しているようだ」
「……祖母の受け売りです」
「素敵なお祖母様ですね」
「はい。私の——唯一の理解者でした」
蒼は何かを言いかけて、やめた。代わりに、静かにお茶を淹れてくれる。
雨音と、頁を捲る音と、時折交わす言葉。それだけで、澪の心は少しずつ凪いでいった。
◇
一週間後、画集の修復が完了した。
折れた背表紙は丁寧に補修され、破れた頁は和紙で裏打ちされ、しみは可能な限り薄くなっている。元通りとはいかないが、また誰かに読まれる状態にはなった。
「……ありがとう」
澪には聞こえた。画集の、微かな声。
ありがとう。また、誰かの手に届ける。
「澪さん」
蒼が、修復された画集をそっと手に取った。その指先は長く白く、どこか現実離れして見える。
「貴女のおかげで、彼らは新しい読み手と出会える」
穏やかな微笑み。でもその瞳の奥には、深い感慨が滲んでいた。
「この店には、たくさんの本が流れ着きます。でも——本当に彼らを救えるのは、貴女のような人だけだ」
「蒼さん……」
「どうか、これからも——」
言いかけて、蒼は窓の外を見た。雨が、小降りになり始めている。
「……そろそろ、閉店の時間ですね」
その声には、微かな寂しさが混じっていた。
澪は気づいていた。雨が上がると、この店は——消えるのだ。次の雨の日まで、どこにも存在しない場所へ。
「また、来ます」
澪は立ち上がった。
「雨が降ったら、必ず」
蒼は微笑んだ。銀縁眼鏡の奥の紺碧の瞳が、温かく細められる。
「お待ちしております。——澪さん」
◇
同じ頃、現実世界では。
「これは……どういうことですか?」
銀座の古美術商・柊一馬は、目の前に並べられた古書を見て、眉を顰めていた。
持ち込んだのは、真壁翔太と白川美月。華やかな装いの美月は自信満々に言い放った。
「私のコレクションなんです。彼が譲ってくれて」
「彼女、こういう知的な趣味があってさ」
翔太は美月の肩を抱きながら、柊に向かって笑った。
「鑑定してもらえますか? インスタに載せたいんで、正式な評価額が欲しくて」
柊の銀髪混じりの眉が、僅かに動いた。
仕立ての良いスーツを纏う老獪な古美術商は、しばらく無言で古書を検分していた。手袋をはめた指先が、慎重に頁を捲る。
「……驚きました」
「え、やっぱり価値あります?」
美月が身を乗り出す。
「ありますよ。——ただし」
柊は眼鏡の奥の目を、じっと二人に向けた。
「これは相当な目利きが集めたものです。素人には、不可能な選書眼だ」
「……は?」
「さらに」
柊は一冊の詩集を手に取った。
「この本には修復の痕跡があります。極めて高度な技術で——おそらく、国内でも有数の修復家の手が入っている」
翔太と美月の顔から、笑みが消えた。
「これを集めたのは、本当に貴方がたですか?」
沈黙が落ちる。
「い、いや……俺の、元婚約者が……」
翔太の声が、みっともなく揺れた。
「ほう。その方は、相当な専門家のようですね」
柊の声には、明らかな軽蔑が滲んでいた。
「この価値が分かる人間は、そうはいない。それを——『譲った』と?」
翔太は何も言えなかった。
美月が、気まずそうに視線を逸らす。その手には、乱暴に扱われてボロボロになった一冊の本があった。
「あ、それから——これ」
柊が、美月の手元を指さす。
「何をなさったんですか、これに」
「え、いや……ちょっと落としちゃって」
「落とした? ……この損傷は、そんな程度ではありませんね」
柊は溜息をついた。
「修復が必要です。見積もりを出しましょうか」
「お、お願いします」
翔太が頷く。
一週間後、届いた見積書を見て、二人は絶句することになる。
——修復費用、三百万円。
「さ、三百万!?」
「こんな古い本に、そんなにかかるわけ!?」
美月の金切り声が、翔太の部屋に響いた。
「お、落ち着けよ……澪に頼めば、タダで——」
翔太はスマートフォンを取り出し、澪の連絡先を探した。
——連絡先がない。
LINE。ブロックされている。電話番号。着信拒否。Instagram、Twitter——全てのSNSで、澪のアカウントは翔太と美月をブロックしていた。
「う、嘘だろ……」
翔太は呆然と画面を見つめた。
「代わりなんて……いくらでもいると思ってたのに」
古書修復の専門家は、国内に十人もいない。
その事実を、翔太はようやく知ることになる。
第三章 雨の日の秘密
七月に入り、梅雨も終わりに近づいていた。
澪は、雨が降るのを心待ちにしている自分に気づく。
(蒼さんに、会いたい)
その想いを、恋と呼んでいいのかは分からなかった。でも確かなのは、雨宿文庫で過ごす時間が、澪にとって何よりも大切なものになっているということ。
本を修復する。蒼とお茶を飲む。時折、言葉を交わす。
それだけで、澪の傷ついた心は、少しずつ癒されていった。
「澪さんは、なぜ古書修復を?」
ある雨の夜、蒼が尋ねた。
澪は手を止め、窓の外の雨を見つめた。
「……祖母に、憧れたんです」
十五歳の夏を思い出す。祖母の工房を初めて訪れた日。古い紙と糊の匂いに満ちた小さな部屋で、祖母は傷んだ和綴じ本を修復していた。
「祖母は『紙の医者』と呼ばれていました。どんなに傷んだ本でも、祖母の手にかかれば蘇る。……私も、そうなりたいと思った」
「素敵な夢ですね」
「でも——」
澪の声が、僅かに曇る。
「周りには、理解されませんでした。『女の子がそんな職人仕事をしても』って。親戚中から言われ続けて」
蒼は何も言わず、澪の言葉を待っている。
「だから、隠すようになったんです。自分の技術を、誰にも見せないように。どうせ分からないと思って」
翔太にも、そうだった。三年間、傍にいたのに。一度も、自分の本当の姿を見せなかった。
「澪さん」
蒼の声が、静かに響いた。
「お祖母様は、何とおっしゃっていましたか」
澪は、はっとした。祖母の言葉が、記憶の底から浮かび上がる。
「……『その耳は宝物だよ。でもね、みおちゃん、聞こえない人を責めてはいけない。聞こえる者の仕事は、聞こえない人に伝えることだから』」
——伝えること。
澪は自分の手を見つめた。
祖母から受け継いだ技術。本の声を聞く力。それを、隠し続けてきた。理解されないと決めつけて、伝えることを諦めていた。
「私……間違っていたのかもしれません」
「いいえ」
蒼は首を横に振った。
「傷ついたから、守ろうとしたのでしょう。それは間違いではありません」
穏やかな声が、澪の胸に沁みた。
「ただ——もう、守らなくてもいいのかもしれない。貴女の価値を見る目を持つ人は、必ずいますから」
蒼の紺碧の瞳が、まっすぐに澪を見つめている。
澪は気づいた。この人は——本当に、私を見てくれている。
「蒼さん」
「はい」
「あなたは……何者なんですか」
沈黙が落ちた。雨音だけが、静かに響いている。
「……いつか、お話しします」
蒼は微笑んだ。でも、その笑みには——どこか、寂しげな翳りがあった。
◇
図書館では、先輩司書の園田響子が澪の変化に気づいていた。
「香坂さん、最近なんだか生き生きしてるわね」
「……そうですか?」
「そうよ。婚約破棄の後、心配してたんだけど——良いことでもあった?」
澪は少し迷って、それから小さく頷いた。
「……居場所を、見つけたような気がするんです」
「居場所?」
「自分の技術を、必要としてくれる場所を」
響子は目を丸くした。そして、にっと笑う。
「ほらね、私が言った通りでしょ。あなたの技術、もっと活かせる場があるって」
「園田さん……」
「ねえ香坂さん」
響子は真剣な目で澪を見つめた。
「あなた、もっと自分をアピールしなさいよ。仕事できるんだから。古書修復の腕だって、プロ級なんでしょ?」
澪は驚いた。
「……知ってたんですか」
「当たり前よ。あなたが修復した郷土資料、私は見てるんだから」
響子は溜息をついた。
「あれを『ちょっとした趣味』で済ませるの、やめなさい。勿体ないから」
——勿体ない。
その言葉が、じわりと胸に広がった。
「……考えてみます」
「考えるだけじゃダメよ。動きなさい、香坂さん。あなたには、その価値があるんだから」
◇
数日後。澪のもとに、一通の依頼が届いた。
差出人は、古美術商・柊一馬。
『突然のお手紙、失礼いたします。先日、ある古書コレクションを鑑定する機会があり、その修復の痕跡から、貴女様のお名前に辿り着きました。つきましては、折り入ってご依頼したきことがございます。祖母の形見の本を、直していただけないでしょうか——』
澪は手紙を読みながら、心臓が高鳴るのを感じていた。
(私の名前を……調べてくれた?)
柊は業界では知られた目利きだ。その人物が、わざわざ澪を探し出して依頼を寄越すということは——
手紙を握りしめる指が、震えた。怖い。でも、同時に——嬉しかった。
自分の価値を、見知らぬ誰かが認めてくれている。祖母から受け継いだ技術が、誰かに必要とされている。
(お祖母ちゃん。……私、前に進んでもいいのかな)
雨が、窓を叩き始めた。
澪は手紙をポケットにしまい、傘を手に取る。
——今夜も、雨宿文庫へ行こう。
蒼に、このことを話したい。そう思った。
第四章 届かなかった想い
梅雨が明け、真夏が来た。
雨の日が減り、澪は蒼に会える機会が少なくなっていた。それでも、雨が降れば必ず雨宿文庫へ向かう。傷んだ本を修復し、蒼とお茶を飲み、静かな時間を過ごす。
柊からの依頼は引き受けた。祖母の形見だという明治期の写本は、繊細な修復を要するものだったが、澪の技術なら十分に対応できた。
「素晴らしい」
完成した写本を受け取った柊は、感嘆の声を上げた。
「国内でこれができる人間は、おそらく片手で足りる。……いや、貴女を含めても、だ」
「恐れ入ります」
「もっと早くお会いしたかった。貴女のような方を、私はずっと探していたのです」
柊は澪に、定期的な修復依頼を持ちかけた。報酬も破格だった。澪は迷いながらも、承諾する。
図書館司書の仕事は続けながら、空いた時間で古書修復を受ける——そんな生活が、少しずつ始まっていた。
◇
八月の終わり、久しぶりの大雨が降った。
澪は傘も差さずに、雨宿文庫へ駆け込んだ。
「蒼さん!」
「……いらっしゃいませ、澪さん」
蒼の声が、いつもより弱々しい気がした。
カウンターに座る彼の姿は、心なしか——薄く見える。
「蒼さん? 大丈夫ですか」
「ええ……少し、疲れているだけです」
微笑みは変わらない。でも、澪には分かった。何かが、おかしい。
「……お茶を、淹れましょうか」
「いえ。今日は——私が話す番です」
蒼は立ち上がり、窓辺に向かった。雨に煙る夜景を見つめながら、静かに語り始める。
「澪さん。私は——百年前に、死んだ人間です」
澪の息が、止まった。
「……え?」
「正確には、雨の日にしか存在できない。そういう、存在です」
蒼は振り返らなかった。ただ、雨を見つめている。
「百年前——私は製本職人でした。『霧島装幀店』という小さな店を営んでいた」
「装幀……」
「ええ。本を作ることが、何より好きだった。そして——」
蒼の声が、僅かに震えた。
「愛する人がいました」
澪は何も言えなかった。ただ、蒼の背中を見つめている。
「彼女のために、詩集を作っていたのです。自分で装幀した、世界に一冊だけの本。……でも、届ける前に」
——病で、世を去った。
蒼は静かに続けた。
「届かなかった想いが、私をこの世に留めたのです。雨の日——彼女が好きだった雨の日にだけ、この世と繋がることができる」
「蒼さん……」
「長い年月の中で、たくさんの本を見守ってきました。見捨てられた本たち、愛されなくなった本たち。……でも、本当に彼らを救える人間には、出会えなかった」
蒼が、ようやく振り返った。紺碧の瞳が、真っ直ぐに澪を見つめる。
「貴女に会えて、ようやく分かりました」
「……何が、ですか」
「本は——届けられなくても、想いは届くのだと」
蒼の身体が、微かに揺らいだ。透けている——と、澪は気づいた。雨が小降りになり始めている。
「蒼さん!」
「大丈夫です」
蒼は穏やかに微笑んだ。
「私はもう、未練を手放せる。貴女が本を慈しむ姿を見て——私の本も、誰かに届いたと信じられるようになった」
「待ってください。まだ、私——」
「澪さん」
蒼の声が、優しく遮る。
「貴女は、もう大丈夫です」
——もう、大丈夫。
その言葉が、胸に深く沁みた。
「自分の価値を、他者の評価に委ねなくていい。貴女は貴女のまま、本を愛し、本を救えばいい」
「蒼さん……」
「そして——」
蒼はポケットから、古い鍵を取り出した。鉄製の、古びた鍵。雨宿文庫の、扉の鍵。
「これを、貴女に託します」
冷たい鉄の感触が、澪の指先に伝わる。
「雨の日だけでいい。見捨てられた本たちの——新しい居場所を、守ってください」
澪の手に、鍵が託された。
「……ありがとうございました」
蒼は微笑んだ。百年の時を経て、ようやく——安らかな笑みだった。
「こちらこそ。貴女に会えて——幸せでした」
雨が、止んだ。
蒼の姿が、光に溶けていく。書架の影に、銀縁眼鏡の輝きが一瞬だけ残り——そして、消えた。
「——さようなら、蒼さん」
澪は呟いた。涙が頬を伝う。でも、不思議と悲しくはなかった。
手の中の鍵を握りしめながら、澪は空を見上げた。雲の切れ間から、月が覗いている。
(ありがとう。私——前に進みます)
雨宿文庫は、まだそこにあった。これからは、澪がこの場所を守っていく。見捨てられた本たちの、新しい居場所を。
第五章 雨上がりの未来
——一年後。
「香坂先生、こちらの修復もお願いできますか」
「はい、拝見しますね」
澪は柊から受け取った古書を、丁寧に検分した。明治期の私家版詩集。経年劣化は進んでいるが、修復は可能だ。
「二週間ほどお時間をいただければ」
「いつもありがとうございます。……しかし、あなたに出会えて本当によかった」
柊は感慨深げに言った。
「お祖母様の形見を直していただいてから、もう一年ですか」
「ええ。あっという間でした」
澪は微笑んだ。
この一年で、多くのことが変わった。図書館司書の仕事は続けながら、古書修復家としての活動も本格化させている。柊の紹介で、全国から依頼が届くようになった。
「香坂絹江の孫」として、祖母の名を継ぐ者として——澪の名は、少しずつ業界に知られ始めていた。
「最近は取材の依頼も多いでしょう」
「……正直、戸惑っています」
「謙虚ですね。でも、受けた方がいい。あなたの技術を、世に知らしめるべきです」
柊の言葉に、澪は少し考え込んだ。
——聞こえる者の仕事は、聞こえない人に伝えること。
祖母の言葉が、胸に蘇る。
「……考えてみます」
「ぜひ」
◇
図書館では、響子が我がことのように喜んでくれていた。
「ほらね! 私の見る目は確かだったでしょ!」
「園田さん、声が大きいです」
「いいのよ、もっと自慢しなさいって。うちの香坂さんは凄いんですって、私は言い回りたいくらいなんだから」
澪は苦笑しながら、デスクワークに戻る。でも、心の中では——温かいものが、じわりと広がっていた。
認めてくれる人がいる。応援してくれる人がいる。一年前の自分には、想像もできなかったことだ。
◇
同じ頃。真壁翔太は、共通の知人を通じて澪に連絡を取ろうとしていた。
「澪に謝りたいんだ。……俺は、馬鹿だった」
美月との関係は、とっくに終わっている。古書コレクションを巡るトラブルで揉めに揉め、修復費用の三百万円を誰が払うかで喧嘩になり——結局、破局した。翔太は今も、あの三百万円を分割で払い続けている。
「代わりなんていくらでもいる」と思っていた相手が、実は「代わりのいない」人間だったこと。それを思い知らされた一年だった。
「……翔太さん、残念だけど」
共通の知人は、申し訳なさそうに言った。
「澪さんから伝言を預かってるの」
「何て?」
「『お気持ちだけ受け取っておきます。私はもう、前を向いていますから』——だって」
翔太は、何も言えなかった。
——前を向いている。
その言葉が、重く胸に響いた。
澪は、もう自分を必要としていない。自分の価値を自分で認められるようになった彼女は、翔太の謝罪など必要としていない。
「退屈」だと切り捨てた女性の、本当の価値。翔太は、永遠に理解することができないのだろう。
◇
雨の夜。
澪は、雨宿文庫の扉を開けた。
一年前から変わらない店内。天井まで届く書架、使い込まれた木の床、古い紙と革装幀の匂い。
——ただ、カウンターに人影はない。
代わりに、澪がそこに立っている。
「いらっしゃいませ」
今夜も、傷んだ本を抱えた誰かがやってくるかもしれない。見捨てられた本の声を聞く、誰かが。
澪は店内を見回した。今日届いた本が、カウンターの上に置かれている。傷んだ絵本。かつて愛されながら、忘れられてしまった本。
——読まれたい。もう一度、誰かの手に届きたい。
微かな声が、聞こえる。
澪は絵本を手に取り、そっと頁を開いた。
「大丈夫。私が直してあげる」
窓の外では、雨粒が優しくガラスを叩いている。
その時——書架の影に、銀縁眼鏡の青年が微笑むのが見えた。気がした。
「……蒼さん」
呼びかけても、返事はない。振り返れば、そこには本の背表紙が並んでいるだけ。
でも、澪は確かに感じていた。
蒼は——ずっと、ここにいる。この店を、この本たちを、そして澪を見守っている。
(ありがとう、蒼さん)
心の中で呟きながら、澪は微笑んだ。
(私は今、とても幸せです)
雨音が、穏やかに響いている。
傷んだ本たちの、新しい居場所。見捨てられた者たちの、救いの場所。
雨宿文庫は今夜も、静かに——雨の中に、灯りを灯している。
◇◆◇
これは、ある一人の女性の物語。
婚約者に「退屈」と言われ、親友に裏切られ、三年間の愛を踏みにじられた女性が——本当の自分の価値に気づき、前を向いて歩き出すまでの物語。
彼女を救ったのは、雨の日にだけ現れる古書店と、百年前に死んだ店主の青年だった。
——本は届けられなくても、想いは届く。
その言葉を胸に、香坂澪は今日も本を修復する。傷ついた本の涙を拭い、新しい読み手のもとへ送り出す。
「紙の医者」として。祖母の名を継ぐ者として。そして——雨宿文庫の、新しい主人として。
——Fin——




