3、居場所を求めた魔女
石畳の隙間に詰まった雪が、ブーツの底でぎりりと鳴る。メルセデスはコートの襟を立てて、鼻先まで埋めた
「今日は、友達の家に泊まってくるから」
そう言ったとき、クリスティンは「夜道は暗いから気をつけて」とだけ返した。彼の声はいつも、少し低いところで安定している。
メルセデスはそそっかしいけど愛嬌がある。クラドダスに来て間もないというのに、何人も友達が出来ていた。マーサは「こんな娘が欲しかったのよ」と言ってかわいがり、メルセデスの新しい友達らも彼女を喜ばせた。クリスティンも妹ができたようでうれしかった。彼女のような年頃の女の子たちは頻繁に友達の家に泊まったりしている。彼も家の中で何人もの友達に紹介されていた。
路地を三つ曲がり、潮の匂いが強くなったあたりで、メルセデスはコートをぐいと引き下げた。暗がりに建つ、窓の割れた倉庫の裏口。そこが帝国の拠点だった。中に入ると死臭のような匂いがした。
「遅かったな、メルセデス」
闇の中で声がした。返事をする代わりに、彼女はコートの襟を直した。仲間の気配が、日に日に減っている。少し前まであそこにいたはずの、指を鳴らす癖のあった男も、もういない。みんな「黄昏の探索者」という名前に消されてしまった。
「西の連合の上陸を止めるのは、私一人でやるんですか?」
問いかけに、答えはなかった。ただ、冷え切った地図が机に広げられる。メルセデスの任務は、この街の治安を乱すこと、西の連合への反感を高めること、そして西の連合の援軍の上陸を阻止することだった。
その後、メルセデスは本当に友達の家に泊まり、翌日の昼下がりに店に戻った。クリスティンがカウンターで帳簿をつけている。
「あ、お帰り。……これ、食べる?」
差し出されたのは、少し形の崩れたアップルパイ。一口噛むと、煮詰まったリンゴの酸味が口の中に広がった。シナモンの粒が歯に当たる。
「……ねえ、クリスティンさん」
「ん?」
「あ、ええと。なんでもない。美味しいです、これ。少し、酸っぱいけど」
クリスティンはペンを置き、眼鏡のブリッジを押し上げた。
クリスティンが失敗したメルセデスを慰めるように言ったことが何度も頭に浮かぶ。
「僕は、頑張ることと耐えることは違うと思うんだ」
「適性があったり、好きなことなら、時間も何もかも注ぎ込めばいい。それは疲れることかもしれないけど、頑張ってって応援するよ」
「でも、適正もなく、嫌なことだったら、そんなところからは逃げ出せばいい。それは耐えてるだけのことだから、最終的には自分をダメにするよ」
クリスティンの口調はどこか自分に言い聞かせているかのようだった。
「あっ、ちょっとぼーっとしてました。コーヒー、淹れますね」
メルセデスがカウンターに入って、豆を挽き始めた。ガリガリという乾いた音が店内に響く。自分がリトセラスの出身だと嘘をついていること。本当は帝国の魔女として、この街の安寧を壊しに来たこと。それらは正直にクリスティンに言えることではなかった。
彼が帳簿をつける姿を見ていると、胃のあたりがじりじりと焼けるように重くなる。
サイフォンから立ち上る湯気が、二人の間を白く遮る。
外はまた雪が降り始めていた。窓ガラスに当たる雪の粒が、微かな音を立てている。
西の連合が机上に広げたのは、救援の地図ではなく、中立国の主権を食い破るための侵攻ルートだった。
「軍の名称は『大公国義勇軍』とする。これならば、表面上は熱き志を持った有志の集まりに見えるだろう」
西の連合の宰相、メソライト伯爵エドゥアルドスは、冷徹な筆致で計画書に署名した。
その狙いは極めて大胆、かつ傲慢だった。数千の正規兵を「義勇軍」という美名で包み隠し、ヴァカムエルタ都市国家連合の要衝、クラドダス港へと強行上陸させる。そこからリトセラス王国の領土を縦断し、一気に大公国へと流れ込む。それは、国際政治の舞台に向かって「大公国を救うための聖戦だ」と叫びながら、中立国を無理やり参戦させようとする暴挙だった。
メソライト伯爵の瞳には、傲慢な成功への確信があった。彼は大公国の宰相オパビニア侯爵と密約を交わしていた。
「ヴァカムエルタには、選択の余地を与える必要はない。我が艦隊がクラドダスを埋め尽くしたとき、彼らは否応なしに戦火の当事者となるのだ」
平和を謳歌していた中立国ヴァカムエルタを、なし崩し的に戦場へと引きずり込み、大陸の勢力図を根本から書き換える。その冷酷な決断とともに、兵員を詰め込んだ艦隊が、クラドダスを目指して抜錨した。海を割って進む大型帆船の群れは、小国への救援という大義を旗印に掲げながら、静かな港へと破滅を運び込もうとしていた。




