2、平和を演じる魔法使い
洗い桶の中で、暖かな水が指先に絡みつく。クリスティンは、隣で危なっかしく皿を濯ぐメルセデスの手元を横目で追った。彼女の指先は霜焼けで赤く、触れれば壊れそうなほど細い。
「……メルセデス。もっと、お湯を足しなさい。指が動かなくなる」
「あわあわ、大丈夫です! これくらい、平気……ひゃっ」
案の定、滑った皿が桶の中に水飛沫を上げた。クリスティンは無言で彼女の手からスポンジを取り上げ、自分の指を彼女の手首に這わせる。驚くほど冷えていた。石鹸の匂いと、微かに混じる彼女の体温。
「いいから。……君は、あっちのテーブルを拭いてきて」
「はーい」
メルセデスがテーブル席を片付けに行く。クリスティンは知っている。この大公国では、鉄の塊が雪を削り、泥に塗れた男たちが悲鳴を上げている。だが、いま指先に残るのは、食器の泡の感触だけだ。
「戦争だから、あっちの大学は休みで。……まあ、実家が一番落ち着くしね」
適当な世間話を口に放り込みながら、彼は汚れた皿の裏側を指でなぞった。
大公国が戦火の中で見せた英雄的な抵抗は、西の連合を動かすに十分な大義を議会に提供した。連合の重鎮たちは、大公国への援軍を求める民衆の熱狂的な声に頷きながら、机の下で軍事介入という選択肢を構想していた。
彼らの頭の中にあるのは、単なる弱者に対する同情ではなかった。彼らが真に狙っていたのは、ゴニアタイトの弱体化だった。リトセラス王国とヴァカムエルタ都市国家連合を参戦させ、両国からゴニアタイトへの鉄鉱石のルートを遮断するのが、彼らの本当の目的だった。
帝国の大公国への侵略を阻止することは、帝国と秘密協定を結んだゴニアタイトの勢力を削ぐもので、西の連合の東方における戦略的な地位を強化することなると考えられていたのだ。
西の連合の政策担当者にとって、この帝国と大公国の戦争への介入は、友愛の精神の発露ではなく大陸の覇権を塗り替えるための、計算し尽くされた一手だった。
夜の帳が下りるとクリスティンの瞳には鋭い光が宿る。
彼の正体は大公国の魔法使い、二つ名は「黄昏の探索者」。大公国の首都キルトセラスの大学への留学中に大公国の機関にその才能を見込まれ、スカウトされたエリートだった。大学生という表の顔を演じながら、魔法使いとしての訓練を積んでいる最中、帝国が大公国への侵攻を開始した。彼はそのまま大公国宰相府に所属する魔法使いとなった。
クリスティンは自室の机で、古びた羊皮紙を広げる。大公国宰相府からの指令書。そこには、クラドダス港の深浅図と、西の連合の艦隊が掲げる予定の信号旗のパターンが記されていた。
ペンを持つと、昼間の洗い物で割れた皿によってできた、指の付け根の小さな傷が滲みる。クリスティンが故郷に帰ってきたのには訳があった。西の連合の宰相メソライト伯爵と大公国宰相オパビニア侯爵が独断で進める、西の連合の強行上陸計画を成功させるためだ。中立国であるヴァカムエルタの主権を無視し、軍を上陸させることで既成事実として、なし崩し的にヴァカムエルタを参戦させる。
西の連合の援軍がこの港を埋め尽くせば、この国の中立という名分は失われる。援軍を招き入れるための誘導灯を灯す。それが自分の役割だ。そうすれば、大公国の戦況は一変する。
机の脇には、メルセデスが昨日焼いた、焦げたクッキーの小袋がある。
クリスティンは、宰相からの指令とは別に、クラドダスに入り込んだ帝国の工作員を狩っていた。母さんとこの街の平和を乱すものは許せない。昨日も街の裏通りで火を放とうとした工作員を二人の喉首をかき切った。雪の上に散った血は、朝には新しい白に塗りつぶされる。
「最近、街の墓場が荒らされる奇妙な事件が起きている。調べてみないと……」
クリスティンは独り言をつぶやきながら、クッキーを一口噛んだ。ひどく硬く、そして不器用な甘さが口の中に広がった。奥歯に挟まった欠片を舌で探りながら、彼は夜明けまでの時間を逆算する。
「あいつ、明日の朝は起きられるかな。……冷え込むって、予報で言ってたし」
窓の外、凍りついた海は真っ暗で、何も見えない。ただ、遠くで波が防波堤を叩く、重苦しい音だけが、絶え間なく響いていた。




