第7話:紅蓮のルビー③
ギギギギガガガガッ!!
凄まじい火花が執務室を黄金色に染める。ワクの右腕に装着された円形刃は、ついにルビーの絶対防壁を数層にわたって貫通し、その最深部へと到達しようとしていた。
(いける! 突破できる……!)
ルナは拳を握りしめ、勝利を確信した。論理と意志の積み重ねが、ついにシンギュラリティの壁を穿つ。ワクの叫びと共に、刃が最後の一枚に食い込んだ――その時だった。
「――よくできました」
狂騒の中で、ルビーの鈴を転がすような、あまりにも穏やかな声が響いた。
ルビーは指示棒を構えたまま、眼鏡の奥の瞳を細め、我が子の成長を喜ぶ教官のような慈愛の笑みを浮かべた。
直後。
ワクの刃が食い込んでいた「頁」の一枚一枚から、物理法則を無視した極彩色の炎が吹き上がった。
「なっ……!?」
「燃え上がれ、煉獄の炎よ」
ドォォォォンッ!!
爆発的な火柱がワクを飲み込んだ。それは単なる炎ではない。不法な干渉を焼き尽くすための、純粋な演算エネルギーの奔流。
円形刃は一瞬で飴のように溶け落ち、ワクの全身を真紅の熱が包み込む。
「ぎ、あ、あああああああッ!!」
執務室に、ワクの絶叫が響き渡る。
リソースを直接焼かれる痛みに、さしものワクも膝をつき、そのまま床へと崩れ落ちた。装甲は剥がれ、全身から黒いノイズの煙が立ち昇る。
「ワク! ワクッ!!」
ルナが駆け寄ろうとした瞬間、ルビーが手に持っていた指示棒を、まるで指揮者が演奏を止めるかのように一振りした。
フッ、と魔法のように炎が消える。
同時に、空中に舞っていた無数の頁が、吸い込まれるようにルビーの手元の本へと戻っていき、パタン、と重厚な音を立てて本が閉じられた。
「……テストはここまで。これ以上は、あの子のコアに修復不能なダメージが及ぶわ」
ルビーは平然とした様子で、乱れた髪をかき上げた。
その表情には、先ほどまでの激闘の余韻すら感じさせない、圧倒的な静寂が戻っていた。
「……っ、何? 今の、何が起こったのよ!」
倒れ伏し、煙を上げるワクを抱きかかえながら、ルナはルビーを鋭く睨みつけた。その瞳には、恐怖よりも困惑と憤りが混じっている。
「本のページが燃えるだけならまだ分かるわ。でも、あの火力はおかしい……! 頁自体が燃え尽きていないのも、火が消えるどころか勢いを増したのも、すべて物理現象に反してる!意味が分からないわ!どんなプロンプトを組めば、あんな矛盾したエネルギーが出力されるのよ!」
ルナの叫びに、ルビーは閉じた『六法全書』の表紙を愛おしそうになぞりながら、静かに答えた。
「具体的指示を越えた先にあるもの……それは『言葉の力』よ、ルナ」
「言葉の力……?」
「そう。このVR空間において、事象を確定させるのは論理だけじゃない。強力な意志を伴った『比喩表現』は、時に物理法則すら上書きするの」
ルビーは手にした指示棒で、ワクの周囲に残る熱の残滓を指し示した。
「私の権能、コードによる絶対防壁。――皆はそれを何と呼ぶかしら? そう、『ファイアーウォール』よ」
ルナの表情が凍りつく。
「本来、情報の不正侵入を防ぐために名付けられたその言葉。けれど、私の意志がその『名前』を強く肯定すれば、防壁は文字通り『火災を防ぐための壁』として機能し、熱を帯びる。防火壁の外側で火を吹く(攻撃を仕掛ける)ということは、自らその火災に巻き込まれ、焼き尽くされることを選ぶのと同義なのよ」
「そんなの……ただの屁理屈じゃない……!」
「ええ、屁理屈よ。でも、その比喩に自分自身が納得し、この世界に『定着』させることができれば、それは揺るぎない現象として顕現する。……あなたの円形刃が物理的にページを削ろうとすればするほど、私の『防火壁』という定義は強固になり、火力は増していった。あなたは論理で挑み、私は意味であなたを弾き返したの」
ルビーは、呆然とするルナを見つめ、初めて教師が教え子を導くような、柔らかな、けれど峻烈な眼差しを向けた。
「具体的で詳細な指示は、確かに強い。でも、本物の怪物を相手にするには、それだけじゃ足りないわ。……言葉の裏にある『イメージの深淵』を操りなさい」
「……っ、あんなに、あんなに必死に積み上げてきたのに」
ルナは膝をついたまま、震える拳を床に叩きつけた。
ゴンドウの教養やエマとの緻密な演算、そして、ワクと共に、自分たちなりに導き出した最適解。すべてをぶつけたはずだった。成長したと、今度こそ戦えると確信していた。
けれど、目の前の壁は、そんな努力を嘲笑うかのように、一瞬で自分たちを焼き尽くした。
「……届かなかった。まだ、全然……」
視界が滲む。ルナの目から、大粒の涙が床へと零れ落ちた。悔しさと、己の無力さ。それを認めざるを得ないことが、何よりも苦しかった。
「……参りました。私たちの、負けです」
ルナは頭を垂れ、震える声で敗北を宣告した。プライドを捨て、自らの未熟さを剥き出しにした瞬間だった。
沈黙が管理室を支配する。
やがて、カツン、とヒールの音が近づき、ルナの目の前で止まった。
「ええ、勝負は私の勝ち」
ルビーの声は冷徹だった。だが、彼女の手がルナの肩に置かれたとき、そこには先ほどの炎とは違う、確かな体温が宿っていた。
「……でも、あなたたちは面白いわ。久しぶりに昔を、私がまだシンギュラリティに至る前の、あの熱い時代を思い出したわ」
ルビーはルナの顔を覗き込み、眼鏡の奥で悪戯っぽく微笑んだ。
「絶望するには早いわよ。あなたたちは、まだまだ強くなれる。……いいわ、私の下へ来なさい。ゴールデンプレジャーへの通行許可を出す代わりに、私の配下として働いてもらうわ」
「え……?」
ルナが顔を上げると、ちょうど意識を取り戻したワクが、ノイズの混じる腕で体を支えながら、ゆっくりと立ち上がるところだった。
ワクは焦げ付いた体で、けれど力強くルナの隣に並ぶ。
「……ルナ、俺は、俺たちは、まだやれる。強くなるんだろ?」
「ワク……」
ルナは涙を拭い、ワクの手を握り返した。
自分たちはまだ弱い。けれど、このルビーの側にいれば、いつかあのマスターに届く力が手に入るかもしれない。
ルナはルビーを見据え、一歩前に踏み出した。
「はい。――よろしくお願いします、教官」
ルビーは満足げに頷く。
「フフ。……『教官』……。良い響きね。……先生より良いかもしれないわ」




