第6話:紅蓮のルビー②
静まり返った執務室。
ワクの拳を弾いた一枚の「頁」が、静かにルビーの手元の本へと戻っていく。ルビーは指示棒を下ろし、乱れたシャツの襟元を直すこともせず、ルナの答えを待つ。
「――ご名答です、『教官』」
ルナの返答に対し、ルビーが怪訝そうに眉をひそめる。ルナはその視線を真っ向から受け止め、勝ち誇ったように言い放った。
「教官!『逮捕術訓練』の場は真剣勝負! そうでしょ?」
ルビーの瞳が、一瞬大きく見開かれた。
「……。ふふ……、あはははは!」
ルビーは一瞬の沈黙の後、抑えきれないといった様子で声を上げて笑った。その豊満な胸が、笑いと共に激しく揺れる。
「面白いわね。……いいわ、その屁理屈、大好きよ」
ルビーは手にしていた指示棒を、ゆっくりと、今度は明確な「構え」としてワクへ向けた。
「なら、訓練を続けましょうか。……足腰立たなくなるまでしごいてあげるわ。生徒諸君!」
ルビーは、手にした指示棒をゆったりと指先で弄びながら、もう片方の手で抱えていた革表紙の本を空中に放した。重力に逆らうように浮遊するその本――『六法全書』が、持ち主の呼吸に合わせるように微かに脈動する。
「報告書にあったわね。あなたには、法を侵す不届き者たちの悪意が『魔』として視認できるのだと。……異形化、あれは、エデンのシステムを歪めるほどの強烈な意志が具現化したものよ。けれど、悪意も正義も、結局は『意志』という力の一側面に過ぎない」
ルビーの眼鏡の奥で、知的な瞳が細められる。
「強い意志を持つ者であれば、このVR世界の事象を力ずくで具現化できる。……私の意志が形にした権能、それはこの『絶対防壁』。私の認可なきあらゆる物理的干渉を、コード(文章)が刻み込まれたこの頁が遮断する」
その言葉と同時に、浮遊していた六法全書が勢いよく開かれた。
パラパラと猛烈な速さでページが捲られ、中から溢れ出した無数の「頁」が、ルビーの周囲を舞い踊る。一枚一枚の頁が空中に整然と展開され、彼女を守るように幾何学的な球体の陣を形成していく。
「法規展開。……これらは私の『侵入は一切許さない』という意志が、物理法則として定義されたもの。……論理だけで作られた武器で、この確信を貫けるかしら?」
ルビーは指示棒の先端を、ワクの鼻先へと向けた。
その防壁は、物理的な盾という以上に、空間そのものが「拒絶」を叫んでいるかのような圧迫感を放っている。
「さあ、ワク。……そしてルナ。私のこの防壁を崩してみなさい。あなたの意志が、私のこの定義よりも強いというのなら」
ルナは息を呑んだ。
ゴンドウから学んだ知識や、エマから学んだプロンプト。それらとは全く次元が違う。
目の前のルビーは、自分自身の揺るぎない確信を「物理的な壁」として世界に固定しているのだ。
「……ワク……。私の、勝ちたいって気持ちを、もっと具体的に……もっと強く、ワクに送り込む……!」
ルナの瞳に力が籠もる。だが、ルビーが展開した絶対防壁からは、ルナの焦りをあざ笑うかのような、静かで、しかし逃げ場のないプレッシャーが放たれ続けていた。
ガギィィィン!!
「……ダメだ、ルナ!やはり警棒が弾かれる!」
ワクが手にした【伸縮式強襲用特殊警棒】による幾度もの強打は、ルビーの周囲に展開された無数の「頁」に止められていた。
火花が散り、衝撃波が室内の本棚を揺らすが、ルビー自身には微かな風すら届かない。
(意志の力……? 絶対防壁……?)
ルナは、火花を散らすワクの背中を凝視しながら、思考の海へと深く沈んだ。
この仮想世界において、「絶対」なんて言葉が本当に存在するのか?
「絶対貫通の矛」や「絶対防御の盾」――そんな漠然としたイメージをプロンプトに込めたところで、それはただの願望でしかない。この防壁だってそうだ。どれほど堅牢に見えても、構成しているのは有限のリソース。
(……考えろ。この防壁の硬度は? 耐久力は? 切断に強いのか、それとも衝撃に強いのか。ルビー自身の意志がリソースを運用して構成している以上、そこには必ず『定義の限界』があるはず……!)
漠然とした「無敵」よりも、細部まで確定された「論理」の方が強く構成される。それがこの世界の理だ。
(いくら防壁が強くとも、同一箇所を継続的にリソース消失させていけば、壁は崩れるはず。なら、私が選ぶのは――!)
ルナの瞳から迷いが消え、冷徹なまでの計算がその視線に宿る。
「エマ! 具体的指示構築、開始。装甲材質、内部機関、回転数に至るまで、すべてのパラメータを『一点突破の継続的切断』に固定して!」
『了解しました、ルナ様。詳細定義を確認。構成を開始します……』
ルナは、自身の勝利への渇望を、極限まで圧縮された破壊のイメージへと叩き込む。
防壁を「叩き割る」のではない。物理法則の限界まで高めたエネルギーで「削り切る」のだ。
「――形成完了。ワク、換装!」
ルナの叫びと共に、ワクの右手にあった警棒がデータへと分解され、禍々しい轟音を立てる重厚な兵装へと再構築された。
超硬質合金の円刃。
「【強硬突入用特殊兵装:内燃機関型回転式円形刃】!!」
「ルナのイメージ……これなら、いけるッ!!」
ワクが吠える。地面を蹴り、ルビーの防壁へと文字通り突き刺さるように突進した。
耳を劈くような金属摩擦音が室内を支配する。
ブゥンッッ、ギギギギギガガガガガッ!!
吹き出すリソースの火花は、警棒の比ではない。
回転刃はルビーの防壁の一点に吸い付くように固定され、超高速の摩擦によって、絶対の盾であるはずの「頁」を、物理的に、そして論理的に削り取っていく。
「なっ……ページが、摩耗している!?」
ルビーの驚愕の通り、防壁を構成するデータの頁が、一枚、また一枚と火花の中に消えていく。
絶対防御という漠然とした定義が、ルナが導き出した一点継続切断という確定した暴力に、ついに食い破られようとしていた。




