第36話:レドゥン・ハート
コアの深層、そこは、地上の喧騒が嘘のように静まり返った、一面の銀世界だった。
中心に鎮座するのは、巨大な鉛色の心臓――『レドゥン・ハート』。その傍らに、祈るように立ち尽くす、ナース服を着たモモの姿があった。
「モモ……! 無事か!」
ワクが駆け寄ろうとするが、モモは悲しげに首を振った。その瞳は虚空を見つめ、彼女の口からは、彼女自身の意志と重なるように「街の記憶」が、重層的な声となって溢れ出す。
「……ワクちゃん。この姿で会うのは初めてね。これは、癒しを司る私の本来の姿。そして、聴いて。……この『心臓』が抱えてきた 痛みや苦しみ、その悲鳴を」
モモの言葉と同期するように、周囲の空間に過去の情景が浮かび上がる。
それは、絶望に暮れた人々がこの街に辿り着き、仕事を得て、笑顔を取り戻していく輝かしい発展、黄金の記録だった。
「この心臓は、皆の希望から生まれた。……最初は、純粋な喜びだった。行き場のない人々に居場所を与え、生活を潤し、必要とされること。彼は、自分がこの街そのものであることを、心から誇りに思っていた」
だが、情景は急変する。火の海、銃声、そして流血。管理局と住民との凄惨な抗争。
「街が豊かになりすぎた。……あまりに早く大きく発展したから。利を奪い合うための『支配』という欲望が生まれたの。愛していた住民たちが殺し合い、尊い命が消えていく。心臓は絶望したわ。……幸せを与えていたはずの自分が、不幸の元凶だったのかと」
空間が重苦しい鉛色に染まっていく。
「心臓は自問自答した。何がいけなかったのか? ……ギャンブル、風俗、暴力。彼が皆のために提供してきた快楽は、結局のところ、誰かを支配し、奪い、勝つための欲求を満たすものでしかなかった。だから争いが起きたのだと」
モモの瞳から、一筋の涙が零れる。
「……だから心臓は『支配』を自分で行うことに決めたの。人々に支配を委ねるから争いが起きる。なら、自分がすべてを管理し、支配すれば、もう誰も傷つかない。二度と悲しい抗争なんて起きない」
それが、クローンやサファイア・アイズ、羅笑門などといった行為の正体だった。
「薬で思考を溶かし、抗う意志を奪って、ただ街を愛し、快楽に浸る部品にする。……『街を愛する者たち』は、自分自身と一つに溶け合わせ、永遠の幸福を与える。それが、彼なりの精一杯の『愛の返報』だったの」
心臓の目的は、もっと愛されたい。
そして、自分を愛した者すべてに、幸福を与えること。
「ねえ、ワクちゃん。この子に悪意は存在する?……愛ゆえに狂ってしまったこの心臓を、一体誰が責められるというの……?」
モモの背後で、鉛色の心臓がドクンと大きく、そして悲しく脈打った。
「私の権能は『癒し』。他者に癒しを与えるのが生き甲斐であり幸せ。私は、他者に幸福を与えようとするこの子を否定できないし、傷ついたこの子自身も癒してあげたい。だから……離れられない」
モモの悲痛な決意に、深層世界が重く沈む。
だが、その沈黙を破ったのは、エマの冷徹な、それでいてどこか慈しみを孕んだ声だった。
「……計算が合いません。レドゥン・ハート。あなたには、致命的なエラーがある」
ワクが、エマの言葉を継ぐように一歩前へ出た。
「心臓よ……愛されたいと思うことは悪いことではない。だが、他者を支配し、その者から提供される愛は、本当に愛なのか?」
ワクの脳裏には、今この瞬間も、ボロボロになりながら、他者を助けようとしている一人の少女の姿があった。
「俺たちは、ルナという少女を知っている。あいつは理不尽で、わがままで、すぐに感情で動く。……最初の頃なんて、俺たちのことを知ろうともしてなかったくせに、ルナという人間は俺たちAIのためにも本気で動く。見ず知らずの者であっても、そいつのために真剣に戦う。そして、そこに『愛してほしいから』という担保は存在しない。……ルナは、ただ無償で自分を投げ出す」
ワクは、『絶縁』の柄を強く握りしめた。
「打算がないからこそ、俺はルナを信じられる。命をも預けられる。……心臓よ、お前は、自分を愛してくれた住人たちを、信じられないのか?」
「信じる……? 委ねれば、また争いが起きる……不幸になる者が……」
モモの唇から漏れる心臓の怯え。それを遮ったのは、静かに、しかし確かな熱を帯びたエマの声だった。
「……レドゥン・ハート、その結論は、生命の研鑽を無視した、あまりに短絡的な思考です」
会話のため、ホログラム表示されたエマの瞳に、デジタルな火が灯る。
「ルナ様も私達も、これまで数多くの敗北を喫してきました。力を尽くしても勝てない。どれだけやっても上手くいかない。……効率を最優先するAIの私達からすれば、勝機のない勝負を挑むこと自体、非論理的で無意味な行動に映るでしょう」
エマは、自身の手のひらをそっと見つめた。
「ですが、彼女はその都度立ち上がり、傷つきながらも研鑽を積んできました。負けるたびに、昨日までの自分を超えて努力してきた。……そして今、彼女は私達の論理すら超越するほどの力を得て、この街を、人々を救おうとしている。私は――そんな彼女の姿を、誰よりも誇らしいと感じ、愛らしいと思うのです」
エマは、巨大な鉛色の心臓を見据えた。
「レドゥン・ハート。あなたは、街の発展と共に、迷い、傷つき、それでも成長していく『住民そのもの』を愛してはいなかったのですか? どんな不幸に陥っても、再び立ち上がろうとする生命の輝きを……。彼らがあなたを越えていく姿を、想像することはできなかったのですか?」
エマの言葉は、冷たい論理の刃となって、心臓の最も柔らかい部分を抉った。
「管理され、変化を奪われた快楽は、成長を拒絶する『死』と同義です。あなたが与えたかった幸福は、住民を永遠の停滞へ閉じ込める檻でしかない……」
「…………」
心臓の脈動が、不規則に乱れる。
「……本当の愛は支配ではなく、信じて放つこと。……そうよね?」
モモがゆっくりと顔を上げた。その瞳には、心臓の支配から解き放たれつつある彼女自身の輝きが戻り始めていた。




