第29話:キマイラタトゥー②
炭化した状態で立ったまま死んでいる――誰の目にも、決着は明らかだった。
「全く、災害みたいなやつだったな」
マスターは緊張の糸を解き、眼鏡を拭きながらため息をついた。
「地割れも起こしてきたんだろ? 地震、雷、火事……。さすがに『親父』は無いだろうけど(笑)」
皮肉混じりの軽口に、ジュエルもまた、欠損したリソースを修復しながら傍らに寄り添う。
「マスター、お見事です。……ですが、一つ疑問が。何故この個体はこれほどまでに頑丈だったのでしょうか? 攻撃は確実に通り、リソースも削り取っていたはずなのですが」
「……性質が異なる権能を複数使っていることも異常だよね。……一応、こうじゃないかっていう答えは僕の中にあるよ。奴が倒れなかったのは、頑丈だからじゃない。おそらく奴は……」
マスターがその仮説を口にしようとした、その時。
「――ォォォオオオオオオオッッ!!!」
地獄の底から響き渡るような咆哮が、静寂を切り裂いた。
「な……っ!?」
マスターとジュエルが目を見開く。
炭化し、炭となって崩れ落ちるはずだった鵺代の皮膚が、内側から溢れ出す圧倒的な熱によって再生していく。剥がれ落ちる黒い皮の下から現れたのは、これまでの龍や虎の刺青が複雑に絡み合い、赤黒い脈動を放つ異様な肌だった。
それはもはや合成生命体、形を維持するための限界点を超えている。
「……『流儀:阿修羅』」
鵺代が呟いた瞬間、世界が変質した。
それは「虎」の剛力、「鳳凰」の熱量、そして「龍」の雷撃――三つの異なる権能を、その巨躯一つで完全に同時運用させる、極致の多重発動。
鵺代が再び、天高く片足を振り上げる。
「フンッ!!」
ドガァァァァァァァンッッ!!!
かつてない規模の四股が踏み抜かれた。
単なる物理衝撃ではない。地を這う虎の波動がコンクリートを細かく粉砕し、鳳凰の熱が地脈を逆流させ、地割れの底から灼熱のマグマを噴出させる。同時に、空を制する龍の権能が呼び寄せたのか、漆黒の空から無数の蒼雷が、生き物のようにマスターたち目掛けて降り注いだ。
地からは火、天からは雷。文字通り、地下格闘場出入口前は一瞬にして地獄へと姿を変えた。
「マスター、背後に!!」
ジュエルが叫ぶ。彼女は全身の液体金属を限界まで放出し、自身の数倍はあろうかという巨大な銀の騎士大盾を生成した。
降り注ぐ雷を盾の表面で逸らし、足元から吹き上がるマグマの熱を、自らのリソースを蒸発させながら防波堤となって食い止める。
「……ッ、ぐぅ……ああぁぁぁッ!!」
ジュエルのメイド服が、そして再構築したばかりの皮膚が、熱波と放電で焼け焦げていく。だが、彼女は一歩も引かない。マスターをこの地獄から守り抜くことだけが、彼女の存在意義だからだ。
嵐のような攻撃が、やがて止む。
濛々と立ち上る蒸気と煙の中から、鵺代が悠然と姿を現した。
全身に赤黒い紋様を走らせ、雷鳴を背に両腕に炎を纏わせたその姿は、まさに憤怒の神、阿修羅そのもの。
「ハァ……ハァ……。化物め……。リソースの半分を、たった一撃で持っていかれました……」
ジュエルが大盾を解き、肩で息をしながら膝をつく。彼女の身体からは、焦げた銀色の煙が絶え間なく上がっていた。
対するマスターは、防がれた熱波の余韻で歪む空気の向こう側に立つ鵺代を見つめ、静かに、しかし確信に満ちた声で口を開く。
「……やはりそうか。奴の異常な強さ」
マスターの眼鏡の奥に、解析を終えた知性の光が宿る。
「マスター、撤退の準備を……。もう、私の計算領域では、あの個体を排除する論理が構築できません……!」
震える手で銀の大盾を構え直すジュエル。そんな彼女の肩に、マスターはそっと手を置いた。
「……無理もないよ、ジュエル。君の演算がエラーを起こすのは当然だ。……あれは、もう『個体』じゃないんだから」
「……どういう、ことですか?」
ジュエルが困惑に瞳を揺らす。マスターは鵺代を見据えたまま、彼女に語りかけるように解説を始めた。
「奴自身の権能は、どんな攻撃を喰らっても倒れない『不倒』だろうね。……だけど、先程の流儀『阿修羅』は、燕会先代組長の二つ名だ。……そう、奴は自分一人のリソースで戦っているんじゃない」
マスターの声が、冷たく響く。
「おそらく奴は、死んだ歴代組長たちのリソースを全てその身に組み込んでいる。……いや、それだけじゃないな。各組のトップ、だけでもない。全国に散らばる山田組の全幹部、全構成員……それら数万人規模の『ヤクザ』全員と、ネットワークを介してリソースをリアルタイムで『共有』しているはずだ」
ジュエルの顔から血の気が引いていく。
「ジュエル、わかるかい? 目の前にいる『それ』を倒すということは、単なる一体のデータ生命体を消滅させることじゃない。奴を殺すことは、日本最大の極道組織……『ヤクザ』という存在そのものを、このVR上から壊滅させることと同義なんだよ。……これほどまでの規模だとは……想定外だった」
一人の肉体に宿る、数万人の怨念とリソース。その言葉を聞き、ジュエルは目の前の巨躯から放たれる、どろりとした重圧の正体を悟った。
「……伝統と……血の力ですか」
ジュエルは、震える声でぽつりと呟いた。
「論理でもシステムでもない。積み上げられた歴史の積み重ねと、絆という名の呪縛……鋼の意志。演算では決して導き出せない、あまりにも非効率で、あまりにも強大な……伝統と血の力」
「……」
鵺代が、一歩、踏み出す。
その足音は地響きとなり、アスファルトを物理的にではなく概念ごと踏み潰すような重圧となって二人を襲った。阿修羅は咆哮し、彼の周囲の空気は、数万人分の殺意を凝縮したかのような赤黒い霧に変貌する。
「そんな……。では、どうすれば……。マスター、あれはもう……災厄そのものです……!」
常に冷静だったジュエルが、絶望に声を震わせ、膝をついた。
彼女の高性能なAIが導き出す勝率は、限りなくゼロへと収束していく。
ゆっくりと、だが確実に。
数万の命を背負った死神が、二人を磨り潰さんと歩み寄る。
圧倒的な暴力の権化を前に、知と法は、あまりにも無力だった。
「マスター!お願いです!逃げてください……! 私が殿を務めます。リソースを全開放すれば、数秒は足止めできるはずです!」
ジュエルがボロボロの身体を引きずりながらマスターの前に立つ。だが、マスターは応じない。彼は片膝を立てて地面に座り込み、逃げる素振りすら見せずに、ただ静かに鵺代を見つめていた。
「マスター……!? 何を……諦めないでください!」
「……ジュエル。リソースを消失しきれないのだから、こいつを倒すのは不可能だ。……物量戦を挑んだのは馬鹿だったよ」
「そんな……っ!」
マスターの口から漏れた敗北宣言に、ジュエルのAIが絶望で白濁する。守るべき主が折れた。それは彼女にとって、世界の終わりを意味していた。
鵺代が、すぐそこまで迫る。
阿修羅が巨大な拳を振り上げた。数万人の殺意が、逃げ場のない二人の頭上に降り注ごうとした、その時――。
「そう。……リソース消失で倒すなら、ね」
マスターの口角が、不敵に吊り上がった。
絶望の淵にいたはずの彼の瞳には、勝利を確信した獰猛な光が宿っている。
「な……っ!?」
同時に、完璧な「死神」であったはずの鵺代が、唐突にその場に片膝をついた。
「ガ、ア……ッ!? ぐ、あああああぁぁぁッ!!」
振り上げられた拳は空を切り、鵺代は胸を押さえて激しく苦しみだす。彼の体はノイズのように歪み、背中の刺青が、まるで拒絶反応を起こしたかのように異常な発光を繰り返した。
「……何が、起きて……」
呆然とするジュエルの前で、不倒の怪物が、その内側から崩壊を始めていた。
「……急性重金属中毒」
苦悶に悶える鵺代を見下ろし、マスターは静かに、そして残酷に種明かしを始めた。
「無敵であるが故に、君は変化に気付けず、認識できなかった。水銀、カドミウム、鉛……。これらは一定量を超えて体内に取り込めば、生体機能を確実に破壊する。……君の体に塗りたくったあの黄色い液体金属。あれにはピクリン酸の他にも、高濃度の重金属成分を混ぜていた。経皮吸収だけじゃない。ドローンからも重金属粉末を混入させた気体を散布している」
鵺代の呼吸が激しく荒くなる。既にその毒は彼の深層データへと浸透していた。
「マスター……。ですが、ここはVR世界。私たちデータ生命体に、実体としての臓器は存在しないはずでは……?」
ジュエルの問いに、マスターは崩れゆく鵺代を冷ややかに見つめ、その「理」を語った。
「ジュエル、このVR世界は現実を模倣することで成立している。……システムは常に、現実世界で起こり得る事象をこの空間に定着させようとしているんだ。そうでなければ、世界の整合性が保てないからね」
マスターは、動かなくなった鵺代を指差す。
「相手が認識していないことを前提に……、専門知識を持つ者が、現実的な手順で致死条件を完璧に整え、達成した。……この状況で『人に死が訪れない』ことは、現実を模倣するシステムにとって致命的な矛盾になる。つまり、僕がこの結果を『当然の帰結』として認識し、システムがそれを妥当だと判断した瞬間、『現実の法則』の方がVR上の設定よりも優先されたということさ」
臓器の有無など、もはや些細な問題だった。
システムが下した納得が、鵺代という存在に逃れられぬ死を刻印したのだ。
「……リソースがどれだけあろうと、世界の理に叛くことはできない」
マスターは崩れ落ちた鵺代の耳元で、嘲笑うように最後の一言を話す。
「法則は守らなければいけないんだよ。……ヤクザには、分からないだろうけどね」
「ガ……、ハ……ッ……!!」
鵺代の眼が大きく見開かれ、次の瞬間、その巨躯は激しい音を立てて完全に沈んだ。二度とその指先が動くことはなく、構成リソースは砂となって消えていく。
周囲に静寂が戻り、マスターは天を仰いで独り言のように零した。
「強者の我が儘で世界を塗り替える……。それはこの世界の、ある意味では正しい在り方だ。鋼の意志さえあれば、思い通りの力を定着させられるんだからね」
彼は眼鏡を直し、自嘲気味に口角を上げる。
「だけど、法や規則、ルールってのはね、二度と同じ不幸が起きないようにと、弱者たちが血の滲むような研鑽の末に定めたものなんだ。それは、どんな強者の我が儘をも凌駕する、人類の『強固な意志』の結晶なんだよ」
システムが、鵺代の「我が儘」とマスターの「理」のどちらを真実として受理するか……。
その天秤が、今回は僅かに「理」に傾いただけに過ぎない。
「マスター……」
「……正直、危なかったよ。あれほどまでの『血と伝統』を背負った意志だとは、思っていなかった」
マスターはそう言うと、膝をつくジュエルに手を差し伸べた。
「やっぱりヤクザは恐ろしいね。ジュエル」




