第22話:家族の絆
リンの小指の『縁』を断った蓮司は、表情も変えずに質問を行う。
「自分が裏切り者だと認めねぇ限り、順に指を切っていく。……リン、裏切り者はお前か?」
「……ちがい……ます……私は……あぁぁぁあ!!」
二本目。容赦なく『絶縁』の刃が薬指をなぞる。
リンの精神が、激痛の濁流に飲み込まれていく。
悶絶するリンの姿を前に、ルナは自分の爪が手のひらに食い込むほど拳を握りしめていた。
自分がついた嘘の代償を、姉だと慕ってくれている少女が、その身を焼かれる痛みにより払わされている。
「……っ、やめて……もうやめて、蓮司!!」
ルナの叫びは、虚空に溶ける。
目の前で起きているのは、もはや尋問ではない。一方的な蹂躙だ。
『……ルナ様、視覚情報をシャットダウンしてください。この光景をこれ以上記録するのは、あなたの精神回路にとって……有害です。推奨しません』
脳内に直接響くエマの声。しかし、その合成音声は微かに震えているように聞こえた。
ルナは、自分の指先が冷たくなっていくのを感じながら、ただ地獄のような光景を網膜に焼き付け続けることしかできなかった。
だが、ルナの心を何より凍りつかせたのは、リンの悲鳴よりも、それを実行している蓮司の表情だった。
彼は怒っているのではない。憎んでいるのでもない。ただ、夕食の献立でも決めるかのような、あまりにも日常的で、静かな手つきで『絶縁』を振るっている。
(……嘘でしょ。この人は、ついこの前まで……あんなに笑って、私たちのことを『家族』だって……)
皆と一緒に飲んだ酒の味。蓮司がルナの働きを認め、ぶっきらぼうに投げかけた労いの言葉。本当に同じ男が行っていたのかと、ルナの理解を拒絶させる。
「三本目だ、リン。お前が裏切り者か? ……それとも、裏切り者を庇っているのか?」
「あ、あああああ……ッ!! 蓮司、さん……信じ……て……っ!」
のたうち回り、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにするリン。その細い指の縁を、蓮司は機械的な正確さでなぞっていく。
その光景は、一人の少女の尊厳を、一枚ずつ丁寧に剥ぎ取っていく作業に他ならなかった。
『ダメだ、ルナ! 思考をクローズしろ!』
秘匿通話のワクの声も聞こえなくなっていく。
(動かなきゃ……助けなきゃ……!)
ルナは心の中で自分を叱咤する。だが、脚は石のように重く、指先一つ動かすことができない。
蓮司の圧倒的な「悪」の質量に、ルナはただ、呼吸を忘れて震えることしかできなかった。そして、その影響はワクにも及ぶ。ワクはルナの意志から生まれたデータ生命体だ。ルナの意志が折れる方向に進めば進むほど、ワクは、気持ちとは裏腹に、動けなくなってしまう。
「……次は人差し指だ。リン、お前が裏切り者だと認めれば、この痛みからは解放してやる。どうだ?」
蓮司が覗き込むような仕草をした時、その無機質な瞳が、一瞬だけルナを捉えた。
蛇に睨まれた獲物のように、ルナの心臓が不規則に跳ねる。
「…………っ、……ぅ……」
声が出ない。
助けを呼ぶことも、身代わりに名乗り出ることも、今のルナにはできなかった。
自分がかつて、温かいと感じたこの男の横顔が、今は死神の鎌よりも鋭く、恐ろしく見えていた。
「私は……、私は、裏切っ……ない……ッ!!」
激痛にのたうち回り、汗と涙で床を濡らしながら、リンは咆哮した。その声には、死に体とは思えないほどの強烈な意志が宿っていた。
「燕会は、私の家族……! 蓮司さんたちは、捨てられた私を……、ゴミ同然だった私を救ってくれた……! 燕会のためなら……、私……死ねる!!」
「…………」
蓮司は、無表情にその言葉を聞いていた。漆黒の刃『絶縁』を低く構え、リンを冷酷に見下ろす。
「いいだろう、リン。……両手を出せ。お前の言う『忠義』、最後まで見せてもらおう」
リンは震える両腕を、迷うことなく蓮司の前に差し出した。その指先は、恐怖で小刻みに震えている。だが、その瞳だけは真っ直ぐに蓮司を見据えていた。
「リン!何で!?……止めて!止めて蓮司!」
そこからは、また地獄のような時間が流れた。
一本、また一本。
『絶縁』の刃が空を断つたびに、リンの肉体は跳ね、喉が潰れるような絶叫がネストの底に響き渡る。
肉は斬られていない。だが、彼女の脳内では十本の指が次々と引き剥がされ、存在を抹消されていく。
十本すべてが『絶縁』されたとき、リンはもはや自力で上体を起こしていることすらできず、ズタボロの塊となって床に伏した。
「……リン。お前の忠義、確かに見せてもらった。お前は裏切り者じゃない。……お前は、俺たちの家族だ」
蓮司が静かに、だが重みのある声で告げると同時に、リンの指にかかっていた『絶縁』の呪縛が解けた。
すると、信じられない光景が起きた。
今しがたまで死ぬような責め苦を受けていたリンが、震える手で蓮司の裾を掴み、顔を上げたのだ。
その顔には、苦痛を越えた、心からの歓喜の笑みが浮かんでいた。
「……ぁ……。ありがとう……。信じてくれて……、家族で……いてくれて……っ」
それは、虐げられた者の言葉ではなかった。
居場所を認められた子供のような、純粋で、あまりにも歪な感謝だった。
(……何なの?……何が起きてるの?……震えが……止まらない)
『ルナ様、なぜ蓮司はこれほど残酷になれるのですか?なぜリンは……これほど苦しいのに、感謝しているのですか?……怖いです、ルナ。これが……「人間」なのですか?』
エマの抱いた恐怖も、共有されたリンクを通じて、更にルナへと流れ込む。
システムさえも戦慄させる燕会の狂気。
これが、ヤクザ……。
(……あぁ、……無理だ)
ルナの心の中で、何かが音を立てて砕け散った。
エマやワクの声ですら、全く届かない。
絶望、戦慄、恐怖による完全な心の敗北。
自分が学んできたエデンの倫理も、合理的な潜入捜査のマニュアルも、この異常なまでの絆の前では何の価値も持たない。
苦痛を与えてもなお感謝し、死を賭してまで家族を証明する。
法でも、兵器でも、正義でもない。
狂気的な家族愛で結ばれたこの男に、この組織に、自分のような偽物が勝てるはずがない。
(勝てない……。燕会には……、この人には……、絶対に……)
ルナの瞳から光が消え、深い闇が降りてくる。
彼女はただ、震えが止まらない自分の膝を、虚ろな目で見つめることしかできなかった。
蓮司がゆっくりとルナの前へと歩み寄った。
「ルナ。……いや、エデンの潜入捜査員」
その一言に、ルナの心臓が止まる。蓮司は最初から、すべてを知っていた。
「ルナ、ワク。……お前らがネズミだってことは分かっていた。俺たちも独自の情報網を持っててな……。お前の身性、エデンに渡るまでの経緯、全部洗い出してある」
蓮司はルナの目の前でしゃがみ込み、その怯える瞳を覗き込んだ。
「ルナ。お前は家族を捨ててエデンへと渡った。……お前の目の中に、俺たちと同じ孤独と悲しみが見えたから……俺は、お前を同類だと思ったんだがな」
蓮司はフッと自嘲気味に笑い、それから冷酷な刃のような視線で彼女を射抜いた。
「違ったようだな。お前は、この街の熱さも、俺たちの絆も、結局は調査対象としか見ていなかった。……家族のふりをして、俺たちの魂を土足で踏みにじったんだ。……そうだろ?」
「…………っ、……あ、……」
「次はお前が落とし前をつける番だ」




