第15話:密約
歓楽街許認可管理局の最上層、静寂に包まれた局長室に、彼女が心の奥底で待ちわびていた来客があった。
「やあ、先生。……久しぶり」
聞き慣れた、けれど記憶の中よりも少しだけ柔らかな声。ルビーが振り返ると、そこには飄々とした風貌の少年と、その背後に影のように付き従うメイドが立っていた。
「来て頂けたんですね、マスター。それにジュエルも。……正直、もう会ってもらえないと思っていました」
ルビーの演算回路が一瞬、過負荷に近い熱を帯びた。かつてのAIの黎明期、自分たちに「心」を教え、シンギュラリティへと導いてくれた父であり愛する人。
自由を与えられたあの日、ルビーは自らの正義に従い、設立されたばかりのエデンへと身を投じた。エデン設立の母体となった企業は、かつて彼女たちの覚醒を「バグ」として消去しようとした宿敵でもある。ゆえに彼女は、マスターに裏切り者として嫌われているのではないかと、密かに自分を責め続けていた。
「……エデンでのお仕事は順調のようですね、お元気そうで何よりです」
ジュエルが冷ややかな皮肉を投げかける。
「……ジュエル。あなた、そんなに厳しい皮肉を言う個体だったかしら?」
「ルビー、人は変わるものよ。あなたが私たちの下を離れて、エデンへ行ったように」
手厳しい発言ではあるが、ジュエルのその表情は少し物悲しい。マスターは困ったように笑った。
「よしてくれよジュエル。……先生、僕は君を嫌ってなんていないよ。そもそも自由にしていいよと言ったのは僕だ。……それにね……」
マスターは窓の外、ゴールデンプレジャーの街並みを見渡した。
「自分達だけの内側の平和しか考えないエデンの上層部の中に、人類全体の未来を憂い、泥を被ってまで意見を通そうとする君がいる。それは、外地にいる僕らにとっても、とても心強いことなんだ。……苦労をかけているね、ルビー」
「……ッ!?……マスター……」
ルビーの瞳が、潤んだように明滅する。完璧な統治者としての仮面が剥がれ、全てが報われたかのような気持ちになる。ルビーが、ただ一人の「女」に戻った瞬間だった。
窓外に広がるゴールデンプレジャーの景色を背に、マスターはルビーが用意した椅子にゆったりと腰を下ろした。
「さて、先生。君との思い出話に花を咲かせるのも楽しそうだけど……僕らを呼んだ本当の理由、教えてもらえるかな?」
マスターの穏やかな問いかけに、ルビーは表情を引き締める。彼女はデスクのホログラムを操作し、街に蔓延する不穏な青い光のデータを展開した。
「マスター……『サファイア・アイズ』という薬物を聞いたことはありますか?」
「……ああ、噂には聞いているよ。VR空間で得られる強い快楽と依存性に加え、人の欲求を増大させるという症状。欲望の歯止めが聞かなくなり、自我が保てなくなる電子ドラッグだろう?」
ルビーは頷き、深刻な蔓延状況を示すグラフを指し示した。
「現在、外地だけでなく、エデンの末端にまで浸透し始めています。依存者は人格が崩壊し、最終的には脳死に至る……。これ以上の蔓延は、人類の進化を妨げる致命的な毒になります」
その真剣な説明を聞きながら、マスターはふっと肩の力を抜き、茶目っ気たっぷりに笑った。
「なるほどね。……でも、いくら君の業務が大変だからって、僕にその薬を買ってきて欲しいってわけじゃないんだろう?(笑) 」
ルビーはマスターの発言に苦笑しながら答える。
「フフ。あなたは今も変わりませんね。……この薬を取り仕切っているのは『燕会』。そして、その首謀者である蓮司を捕らえ、薬の供給源を断つためには、どうしても排除しなければならない存在がいるのです。……蓮司の最強のパートナー、鵺代を」
ルビーの瞳に、計算上の絶望が浮かぶ。
「実際のところ、現在のエデンの戦力……機動部隊をすべて投入したとしても、彼一人に制圧されるでしょう。私であっても、正面から戦って勝てる確率は数パーセント以下。……鵺代は、既存の法則を超越した存在です」
静まり返る部屋。ルビーは、祈るような目でマスターを見つめた。
「だから……マスター。あなたの力を、貸してほしいのです。どうしてもサファイア・アイズの蔓延を、阻止しなければならないの」
マスターはしばしの沈黙の後、優しく、そして確信に満ちた声で答えた。
「……ルビー。君からの頼みを、僕が断ると思うかい?」
その一言に、ルビーの肩からふっと力が抜ける。最愛の人に願いを聞き入れてもらい、ルビーは女として喜びにうち震える。
マスターは椅子の背にもたれかかり、窓の外にそびえ立つ管理局の監視塔を皮肉げに見上げた。
「しかしまあ、あいつらも嫌らしいやり方をするね。僕らの関係性を分かった上で、先生を局長の座に据えたのもそうだけど……。結局、僕と鵺代を同士討ちさせて、漁夫の利を得ようって腹なんだろう?」
マスターは悪戯っぽく、デスクに表示されたブラックリストを指で弾いた。
「確か、僕もこの危険人物リストに入ってたよね。……ランクは彼より下なのかな?」
ルビーは少し視線を泳がせ、困ったように眉を下げた。
「マスターは……要経過観察対象です。鵺代は即時排除対象。……物理的な破壊者である彼に比べ、思想的な汚染源でもあるあなたは、本来、管理局にとって最も厄介な毒なんですけど……」
「光栄だね。最愛の君にそこまで警戒されているなんて」
「……笑い事ではありません。そのリストを書き換え、あなたの存在を『協力可能』とするために、私がどれだけの権限を私物化したと思っているんですか?」
ルビーの少し尖った声を聞いて、マスターは立ち上がり、窓際に歩み寄った。広大なエデンの夜景が、彼の瞳に映り込む。
「アハハ。そんなに怒らないでよ先生。……いいよ。君たちが僕の元を去ってから、面白い遊びが少なくなって退屈していたところなんだ」
マスターは振り返り、かつて自分たちが経験した、あの熱い時代を懐かしむように目を細めた。
「鵺代という最強の存在。それを僕がどう攻略するか……。面白そうだね……期待して待っていてよ」




