第四話
二人はゆっくりと歩いていた。
夜の静寂が、足音とともに流れていく。
神社を抜けると、蛇道の先はほとんど人影もなく、街灯の灯りだけがぽつぽつと並んでいた。
風が吹くたびに、彼女の髪飾りが微かに揺れる。
彼女が、ふと足を止めた。
「ねえ」
透もつられるように立ち止まる。
「あなた、私の名前を知らないでしょう?」
「……そういえば」
彼女はゆるく微笑む。
提灯の灯りの名残が、その横顔に淡く影を落としている。
「琳」
「……琳」
その名前を、透はゆっくりと口にした。
琳。
澄んだ音の響き。
けれど、それが本当に彼女の名前なのか——どこか、確信が持てなかった。
琳はどこか遠くを見つめるように、小さく息を吐く。
「覚えておいて」
「また、会うかもしれないから」
「……会うかも?」
「でも、会わないかもしれないわ」
琳の声が、夜風に溶けるように囁かれる。
透が何かを言おうとした瞬間、風が吹いた。
柔らかな髪が、ふっと舞い上がる。
街灯の光が揺れ、影がわずかに滲む。
気づけば、琳の姿はそこになかった。
「……琳?」
透は、あたりを見回した。
誰もいない。
ただ、彼の足元に、緑のカーネーションが落ちていた。
透は、それをそっと拾い上げた。
指先に触れる花びらは、ひどく冷たかった。
静かな夜の空気の中、透はしばらく立ち尽くしていた。
琳。
彼女は、確かにそこにいたはずなのに。
それなのに、まるで最初から存在しなかったみたいに、夜は静かだった。