第三話
「狐はね、自由に姿を変えるの」
彼女はそう言って、そっと緑のカーネーションに触れた。
提灯の炎がゆらめき、髪飾りの緑が微かに揺れる。
透は、その言葉を反芻する。
「私も、変わるのよ」
「……変わるって、どういう意味?」
彼女はふっと笑った。
「そのままの意味よ」
「例えば?」
「例えば……そうね」
彼女はゆっくりと顔を上げ、透の瞳を覗き込むようにした。
赤い提灯の光が、瞳の奥に反射する。
「あなたの瞳も、夜の色ね」
透は息をのんだ。
「……それは?」
「言葉の通り」
彼女はくすくすと笑う。
けれど、その笑顔の奥には、また微かな翳りがあった。
「昼間は?」
「……何?」
「昼間は、どこにいるの?」
彼女はしばらく黙った。
提灯の光が、静かに影を揺らす。
そして、ふわりと微笑んだ。
「秘密」
「……」
「だって、夜の住人だから」
透は何かを言いかけたが、結局、何も言えなかった。
沈黙が落ちる。
夜の空気は冷たく、けれど、どこか柔らかかった。
「ねえ、願い事をする?」
不意に、彼女が囁く。
「願い事?」
「そう。神社でしょう?」
透は提灯の下に目を向ける。
風に揺れる明かりの下、小さな賽銭箱がぽつりと置かれていた。
「別に……ないけど」
「そっか」
彼女は、くすりと笑う。
「私はあるわ」
「……どんな願い?」
「それも、秘密」
透が口を開く前に、彼女はすっと鳥居をくぐった。
石造りの門の向こう、夜の闇が深く広がっていた。
「さあ、どうする?」
彼女が振り返る。
提灯の光を背に、まるで夢の中のように佇んでいた。
透は、静かに息をのむ。
そして、一歩踏み出した。
石造りの鳥居をくぐると、神社の境内はひっそりと静まり返っていた。
遠くで虫の声が響き、提灯の明かりが風に揺れている。
彼女がふと足を止める。
「狐はね」
「……うん?」
「気まぐれなのよ」
透は、横顔を見つめる。
彼女は境内の奥、暗闇へ続く石段をじっと見つめていた。
「人に化けるのも、心を惑わせるのも。全部、気まぐれ」
「……そうなの?」
「そうよ。ある日ふっと消えて、またある日、ふっと現れる」
彼女の声は静かだった。
どこか、独り言のようでもあった。
透はゆっくりと、石段の先へ視線を向ける。
闇の奥へと続く階段。
その先には、何があるのだろう。
「消えるって……君は、どこかへ行くの?」
彼女はゆるく微笑む。
「さあ、どうかしら」
彼女はそう言って、階段を上りはじめる。
透もその後を追う。
風が吹く。
木々がさわさわと揺れ、月光が影を伸ばす。
「……私はね、消えてしまうのかもしれない」
その言葉は、あまりにも自然だった。
だからこそ、透は思わず足を止めた。
「……え?」
彼女は振り向かない。
ただ、夜の闇の中へゆっくりと歩いていく。
透は、気づけば彼女を追っていた。
そして——
ふいに、彼女の身体がぐらりと揺れた。
「……っ」
階段の途中で、彼女の足が一瞬、もつれた。
透は反射的に手を伸ばす。
指先が彼女の腕を掴んだ。
「……大丈夫?」
「……ふふ」
彼女は、透の手を見つめる。
ふわりと微笑んで——
「手を離してもいいのよ?」
「いや、離したら危ないだろ」
透がそう言うと、彼女は少しだけ頬を紅くした。
提灯の灯りが揺れる。
二人の影が、静かに寄り添った。