第一話
「彼女と出会ったのは、静かな夜だった。
細く入り組んだ“蛇道”――その先に、
緑のカーネーションをつけた、誰かが立っていた。」
夜、細く複雑に入り組んだ住宅街の道――「蛇道」を歩くのが、いつから習慣になったのか。
透は、自分でもはっきりとは思い出せなかった。
ただ、最初はたぶん、偶然だった。
暑さの残る夏の夜、気まぐれに遠回りをした。
坂道を上るうちに、気づけば蛇道に迷い込んでいた。
夜風が頬を撫でる。遠くで車の音が響く。
静かな住宅街の向こうに、コンビニの明かりがぽつんと灯っていた。
人の気配はなく、街灯の光がぼんやりと敷石を照らしている。
その時だった。
ふと、視界の端で何かが揺れた。
街灯の下、長い髪がそっと靡いていた。
細い指先が、髪飾りに触れる。
緑のカーネーションが、かすかに光を帯びるように見えた。
あの時、何を思ったのかは覚えていない。
ただ、その姿が妙に心に焼きついて離れなかった。
── だから、翌日も、またその道を歩いた。
理由なんて、特になかった。
ただ、なんとなく。
ゆっくりと蛇道を抜け、坂を降りていく。
そして、再び角を曲がる。
……そこに、彼女はいなかった。
透は静かに息を吐いた。
本当は、期待していたのかもしれない。
でも、それが何に対する期待なのか、自分でも分からなかった。
夜の街は、何事もなかったかのように静まり返っている。
坂道を下る足音だけが、淡く響いた。
── それでも、また歩くだろう。
たぶん、明日も。
―――
その夜、月がよく見えた。
まるで夜空にぽっかりと穴が開いたように、白い光が降り注ぐ。
雲一つない空の下、蛇道の石畳は青白く光り、道の先がどこへ続くのかさえ分からなくなる。
透は、いつものように歩いていた。
もう理由を考えることはやめた。
ただ、足が自然とこの道を選ぶ。
角を曲がる。
── そこに、彼女がいた。
月光の下で、ゆっくりと髪が揺れる。
緑のカーネーションが、静かに夜気を孕む。
夜風がふわりと吹き抜ける。
ワンピースの上に羽織った着物風のカーディガンが、淡く揺れた。
星と花の模様が月光に照らされ、静かな波紋のように浮かび上がる。
揺れる髪の下、首元には細いリボンのチョーカー。
控えめな装飾が、月の光を淡く反射していた。
まるで、この夜に生まれた存在のように。
静かに、穏やかに、けれど確かにそこにいた。
「ねえ」
透は息をのんだ。
彼女の方から、声をかけてきた。
「あなた、どうしてそんな顔をしてるの?」
彼女は楽しそうに笑う。
まるで、最初からここにいることが決まっていたような顔で。
透は答えられずにいた。
驚きや喜びよりも先に、ひとつの考えが脳裏をかすめた。
── これは夢だろうか。
あまりにも、出来すぎている。
この場所で、満月の下で、再び出会うなんて。
「……驚いた?」
「いや……」
「嘘」
彼女はまた笑う。
けれど、その笑顔の奥に、微かな翳りがあった。
透が言葉を探していると、彼女がふと夜空を仰ぐ。
「綺麗ね」
満月を見つめる彼女の横顔は、どこか遠くにいる人のようだった。
「満月の夜は、死んだ女のように綺麗」
彼女が呟く。
それは、まるで誰かの言葉をなぞるように。
透は彼女の横顔をじっと見つめた。
それを察したのか、彼女は目を細める。
「どうしたの?」
「……いや」
「また嘘」
彼女は小さく笑うと、ふわりと前髪をかき上げる。
その仕草が、妙に艶めかしく見えた。
透の心臓が、ひどく静かに鳴った。
夜風が吹く。
彼女の髪が、ほんの少しだけ揺れる。
「ねえ、今日はついてこないの?」
彼女の声が、ほんの少し、挑発するように響いた。