「そうですか。それで何の御用でしょう——
「そうですか。それで何の御用でしょう。ヴェッキオさん」
「わたしを探しているときいたんだがね」
かさついた、少し高い声。子どものような声だけきいていると、目が出っ張っているようなイメージ。
「探していたのは事実ですが、あなたにとって、不利な捜査をしていました」
捜査、という言葉をサント・ヴェッキオ探しをして以来、初めて口にした。
「きみは正直だな。わたしはきみと話す資格のない人間だよ。嘘をつき、ごまかし、たぶらかしてきた。だが、社会はわたしをクズと呼ぶ代わりに億万長者と呼ぶ」
「ヴェッキオさん、具体的なお話を」
「きみたちの、ごく小さいが、ひどく正確な捜査活動でいくらかの金が失われた。わたしの分は問題ない。簡単に稼げる。問題はやつらの金だ。やつらの金も失われて、やつらはそれがわたしのせいだと言っている。それ以上に恐れているんだ。わたしがきみたちに洗いざらいしゃべってしまうのではないか」
「しゃべるんですか」
「しゃべるよ。条件は身の安全の保証」
「わたしがひとりで決められることじゃないですよ。警察はまずいですか?」
「警察も憲兵もまずい。やつらにつながっている」
「カラバッジョ中尉に話したいです」
「だめだ。きみがひとりで来てくれ」
「来る? どういうことです? わたし、ひとりで何ができるんです?」
「きみはわたしを追い詰めた。とにかく、まずはリストを渡す。わたしとつるんでいい目を見たやつらの名前と金額、年月日、使った銀行の名前。これをまず手始めにして、次にわたしの要求をのんでほしい。わたしは今日渡すリストの他にも証拠を握っている。古王国がひっくり返って連邦に吸収されるくらいの大きな証拠だ」
「……とにかく、まずはリストを受け取れということですか?」
「五時にチェントリオーネ広場の柱廊で。国王の青銅が並んでいるところだ」
「あなたの特徴は?」
「いう必要はない。こっちがきみを知っているから」
カラヴァッジョ中尉に電話してみるべきだと思ったが、サント・ヴェッキオは憲兵もやつらにつながっていると言っていた。やつら? いったい誰のことなのか。政治家、聖職者、実業家。ただ、サント・ヴェッキオの口調ではそのどれでもない、コニーが想像したこともないような人間のことを言っているようだった。
こういうとき、コニーは長々と悩まない。コニーはひとりで会うことにした。
ただ、なにも持っていないことに不安があった。
守衛のぺゼリーニは驚いた。コニーが四時ではなく、四時二十分に出てきたことに驚いていた。
「サリエリさん。具合でも悪いのですか? 顔色も少し悪い気がします」
「ぺゼリーニさん。お願いがあります」
「わたしにできることなら」
「ピストルを借りたいんです」
ぺゼリーニは眼窩の奥に引っ込んだ黒い目をぎょっと大きく開くと、自分の住居へ引っ込み、すぐにピストルを手に戻ってきた。黒く、小さい、自動拳銃で握りは真珠層で仕上げされていた。
「三二口径です」
コニーにはそれが強いのか弱いのか分からなかった。これまでコニーの人生にかかわってきた銃と言えば、狩猟の解禁日に父親が持ち出す猟銃くらいだったのだ。
ぺゼリーニには銃の左側についている小さな部品を指さした。
「これが安全装置。これがかかっている限り、引き金は動きません。これをこんなふうに」
と、ぺゼリーニのずんぐりした指が安全装置を下に押すと、カチッと鳴って、少し動いた。
「押し込めば、引き金を引いて弾が出ます。ポケットに入れるなら、絶対に安全装置をつけてください。弾は七発入っています」
受け取った銃は想像していたよりも軽かった。こんなに軽い道具が人を殺したりできることが信じがたいが、そもそもサント・ヴェッキオと会うのにこれが必要だと考えた自分自身が信じがたかった。ポケットに銃を入れると、映画で見た女スパイにでもなったみたいだった。
晩夏のチェントリオーネ広場はまだ青空が濃い。名前も知らない将軍の騎馬像が青銅のサーベルを高く掲げて、部下に総突撃を命じる寸前、吹雪が訪れて凍りついたようだ。ポケットに入れた途端、銃が重くなった気がした。ブラウスが銃に塗られていたグリースで少し汚れた。国王の像が並ぶ柱廊を歩くと、台座からゴムのボールがあらわれて、赤いジャケットを着た男の子が飛び出した。親は屋外カフェからそれを見ていて、餌をあさりに来た鳩たちがボールと子どもに驚いて飛んでいくのを、手柄でも見るように惚れ惚れとした目で追っていた。ひょっとすると、観光客かもしれない。この街は古い建物を見せることで外貨を稼いでいるのだ。
腕時計を見る。五時より二十分前。
広場に入ってくる自動車を目で追い、毎日乗っているバスが田舎へ向かう人びとを乗せるのを見ていた。一か月前には思うことさえない、危険に我が身をさらしているのに、怖さを感じることはなかった。むしろ楽しみだった。サント・ヴェッキオとはどんな人物なのか。どうも金融や投資に非常に詳しいらしいが、自分がカラヴァッジョ中尉に協力したことでどんなことが起きたのか。考えてみると、それを具体的に考えたことがなかった。自分は書類を用意するだけで、そこから先は中尉の仕事だった。
自分が中尉に恋をしているのか、考えてみた。たまたま仕事がすごくうまくいって、その高揚感を恋と勘違いしているのではないか? 女学生みたいにはしゃいでみたところで、相手が同じような気持ちを抱いてくれているとは限らない。ひょっとすると、フィアンセがいるかも。それを考えると、急に恥ずかしくなって消えたくなった。もう、自分は死ぬまで書物庫から出ないのもいいかもしれない。
どうも気分の上下が激しい。やはり、サント・ヴェッキオと会うことで緊張しているらしい。
あと三分。
リストをもらって、それをどうすればいいだろう?
もちろん、中尉に渡す。それなら、初めから中尉と一緒にくればよかった。だいたい、サント・ヴェッキオとの話が終わってからでは中尉は家に戻っているかもしれない。そこでコニーは自分が中尉の住所も電話を引いているかどうかも知らないことに気がついた。
もしかして、自分は使い勝手のいい女なのだろうか? 分厚い紙束に使えるホッチキスみたいな。
あと二分三十秒。
おかしい。
コニーはそばの売店に時間をきいた。
「いまは五時十分ですよ」
時計が遅れていたのだ。
もう、五時は過ぎている。
だが、サント・ヴェッキオは会いに来なかった。
コニーは広場の反対側にあるカフェに入り、電話ボックスに入った。
「はい。第三憲兵大隊本部、メッチア伍長です」
「カラバッジョ大尉はおられますか? コンツェッタ・サリエリからの電話とお伝えください」
「少々お待ちください」
十秒くらいの間があって、
「はい、カラバッジョです。サリエリさん、あなたですか?」
「重要な話です。サント・ヴェッキオから電話がありました」
「なんだって? いつのことです?」
「一時間前です」
「やつはなんと?」
「彼がかかわった不正な取引と関わった人間全員を告発できる証拠を渡すから身の安全を保証してほしいとのことです。わたしたちは思っていた以上に、彼を追い込んでいたようです」
「やつに会うんですか?」
「それが、チェントリオーネ広場で会うことになっていたのですが、彼が来ないのです」
中尉が黙った。そして、受話器がため息を拾った。
「どうして、まず、わたしに電話してくれなかったんですか」
「ヴェッキオは警察や憲兵にもやつらの手が伸びていると」
「くそっ。いま、どこに? チェントリオーネ広場ですか?」
「そうです。広場に面したカフェの電話ボックスにいます」
「誰にもやつのことは話してないでしょうね?」
「もちろんです。用心のために銃も借りました」
「銃だって?」
「守衛の老人がいるんです。わたしたちが生まれる前から守衛をしている人物で信用できます」
「サント・ヴェッキオのことは?」
「口にしてませんよ。銃を借りただけです」
また黙った。
「ひとりで会いに行ったのは軽率でした」
「はい」
「まず、わたしに知らせてほしかった」
「その通りでした。わたしが悪いんです」
「……すみません。言い過ぎました。申し訳ない」
「いえ。ディナーはお預けですね」
「そうですね。レストランにはわたしから連絡します」
「あの」
「なんですか」
「また、お会いできますか」
六秒の沈黙。
「もちろんです」
コニーは電話を切った。
電話ボックスのなかは落書きやメッセージにあふれていた。コニーは万年筆を手に取り、楡材のボードに刻んだ。
ナゼ六秒黙ッタノデスカ?