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古王国の話 ~とあるカラビニエーレ~  作者: 実茂 譲
百科事典のコンツェッタ
3/50

その日、帰りのバスで揺られながら、――

 その日、帰りのバスで揺られながら、カラヴァッジョ中尉が「もちろんです」とこたえたのは彼女に会いに来るのではなく、サント・ヴェッキオが記載された書類に会いに来るのだ、と、分別がつき始めたばかりの女学生みたいに自分に言いきかせた。

 あの後、コニーは自転車で書類庫を走りまわり、サント・ヴェッキオに関連する書類をいくつか見つけた。たいていはサント・ヴェッキオという言葉がちょっと出てくるだけなのだが、見つければ見つけるほど、サント・ヴェッキオが何なのか分からなくなった。人の名前か、銀行の名前か、はたまた山の名前か。銀行や教会、土地開発会社の取引がかかわっていて、どれもきれいなお金の動きに見えたのだが、サント・ヴェッキオという言葉がたった一語登場しただけで全てがうさん臭くなってくる。担保の価値はきちんと調査されていない気になり、巧妙な横領がなされている気になり、全ての関係者が集まったいかがわしい会談での葉巻の煙がにおってきている気になってくる。

 政治献金がらみの記録にサント・ヴェッキオが出てくると大変なことになる。政治家たちはサント・ヴェッキオの名前こそ挙げないが、政治家として、非常に類まれなる能力を発揮できる人士がいると、分かる人にのみ通じるやり方でサント・ヴェッキオをほめたたえている。

 ところが、教会の資料ではサント・ヴェッキオは聖具か何かで、それが祭壇で祀られているだけで教会の土地で働く小作人は文句を言わず、さぼらず、いかがわしい労働組合運動に毒されず、きちんと働き、小作料を収めるようになったということだ。

 彼女は自分のことを何の取柄もない、ごく平凡な女性と思っていた。書物庫に対する管理と記憶は仕事の一環であり、誰からも必要とされないので、取柄に数えていなかった。記憶力も書物庫に関することだけで、二代前の国王の名前が分からず、歴史のテストで苦労したこともある。

 そんな彼女をカラヴァッジョ中尉が頼りにしてくれているのだ。

 ハンサムな軍人がお金の世界の悪を暴くためにコニーを必要としている、コニーは彼と一緒に犯人を追いつめるのだ。まるでとっくの昔に卒業した恋愛小説みたいだった。

 彼女は家に帰ると、庭でパイプを吹かしているサリエリ氏に例の持参金と海軍士官の話を蒸し返した。そして、彼女は憲兵隊はどうかときいてみた。

「それはつまり警察官と結婚するってことだ」

「それはいいってこと?」

「罪に対する寛容さの度合いによる。その憲兵隊長が――もちろん、相手は憲兵隊長でなければならない、平の憲兵と結婚するのはまた別の話だ――人間というのは過ちを犯す生き物だ。別に殺人や営利誘拐を見逃せとは言わない。売店の販売免許の更新を忘れたとかほんのちょっとだけの速度超過とか、その稟性に悪が巣食っているわけではない、ちょっとした不注意から犯した罪まで厳しく取り締まるのはいただけないって話だ」

 コニーは考えた。カラヴァッジョ中尉はそういったことも厳しく取り締まるだろう。なぜなら、彼の取り扱う犯罪は免許の更新や酔っ払い運転の摘発ではなく、大きな犯罪だからだ。

 コニーは三日間、あちこちから〈サント・ヴェッキオ〉がかかわる様々な書類を集めて、カウンターの端に積み上げた。三日目にファルコーネ宮殿が貴重文化財として国から得る補助金の、試算に関する書類が届いてきた。サント・ヴェッキオのことは書いてなかったが、それもカウンターの端に積み上げた。

 彼女の定時は四時であり、カラヴァッジョ中尉は三時にやってきた。カウンターに積み上げられたサント・ヴェッキオ絡みの書類に驚き、目を輝かせ、自分が打ち倒すことになるであろう悪の存在を紙とインク越しに強く感じた。

 コニーは中尉がファルコーネ宮殿で何を調べたのか知りたくなり、例の宮殿への補助金の試算を見せた。中尉はしばらくそれを眺め、数字を目で追った。サント・ヴェッキオのことは書いておらず、この書類は彼女が自分で選んでくれたものだと知った中尉はコニーに宮殿での出来事を話した。

「まず、これを見てください」

 そう言って、何枚か写真を見せた。その写真は黒焦げになった廃墟を、内側から撮ったものだ。そもそも、扉と壁が焼け落ちた建物に外も内もないのだが。

「これがファルコーネ宮殿です。ひどいありさまでした。十年前に火災にあって、全てが焼け落ちたのです。外来種の雑草が繁茂し、水浸しになり、それに、この写真――そう、壊れた注射器です。ファルコーネ公爵が言うには若者たちが夜ごと集まって、騒ぎ、この注射器で麻薬をやっているのです。え? ファルコーネ公爵ですか? ええ、近所に住んでいます。ニンジンを育てて暮らしているそうです。本人曰く、古王国政府の雀の涙みたいな年金で暮らしているから税金は納めていないと。ただ、村役場にニンジンを貢いでいると言っていました。老人はこんな有様になっても、宮殿を手放さなかったのですが、つい先月、手放したそうです。なんでも、この廃墟に固定資産税がかかることが急に決まり、この廃墟を言い値で売り払ったと。売った相手は文化保存協会という団体で、数名の議員が理事を務めているのですが、この団体が買い取ると、払われる補助金がその書類に記載されているわけです。これが何を意味しているか分かりますか?」

「さっぱりです」

「資金洗浄という言葉をきいたことは?」

「いえ」コニーは濡れた紙幣が洗濯ばさみでとめられている様を想像した。

「これはつまり、犯罪で稼いだ汚れたお金を、ちゃんと稼いだお金に見せかけることです。もし、誰か犯罪者が麻薬や強盗で稼いだお金をちゃんとしたお金に見せたいなら、文化保存協会に秘密の出資をし、二束三文で廃墟を買い取り、その廃墟がいかに文化的で貴重な遺跡であるかを数名の議員を使って、文科省を納得させ、そして、その保存のために補助金が出れば」

「その補助金が洗った後のお金?」

「そういうことです。わたしはこの三年間、犯罪者たちの金を洗う人間、あるいは集団がいると思って捜査してきました。しかし、そうした資金洗浄には政治家や聖職者、果ては軍人まで絡むことになり、わたしのまわりの将校たちはわたしの捜査に否定的です。もう、あきらめかけていたそのとき、あなたのことをきいたのです。大蔵省に保管された書類を全て暗記している女性がいると」

「どなたからきいたんですか? ここに配属されて以来、あんまり人とお話することはなくて」

「ラギエッロ少佐、もう退役されたのですが、彼があなたのことを」

「うーん。覚えがありませんね。知らない人が知らないところでわたしのことを知っているっていうのは変な気分です」

 その後、コニーが渡したサント・ヴェッキオの書類はどれも資金洗浄に絡んだものだった。どれも巧妙なカモフラージュがなされていたが、ひとつの資料だけでは分からないものも、複数の資料と比較しながら読んでいけば、真実は玉ねぎを剥くみたいに徐々に明らかになっていった。十一個買ったことにされた十個のトマト。存在しないふたつの旅行代理店のあいだで交わされた契約。倒産寸前のおもちゃ工場への奇妙な融資。その他にも軍への需品納品や大蔵省の官用自動車修理などでも料金のごまかしや架空の口座への入金があった。そして、そのどれにもサント・ヴェッキオが絡んでいる。

 一か月後、中尉から一緒にディナーでもと誘われた。

 コニーはもちろん誘いを受けた。

 この一か月でコニーは自分が大きく変わった。化粧をするようになり、服が少し明るいものを選ぶようになり、カラヴァッジョ中尉のことを考えると、体が軽くなり、鼻歌など歌いながらカウンターを吹いたり、自転車を漕いだりした。両親は娘の上機嫌の正体をある程度当てていて、どうか単なる勘違いで終わりませんようにと教会に蝋燭を奉納したりした。

 物事は全て日なたのなかで優しく温められていた。

 中尉とディナーの日。ディナーは午後七時。家に帰ってから、化粧をして、手持ちの服で一番いいものを着て、母から真珠の首飾りを借りる予定だった。

 勤務終わりの十分前、書物庫の電話が鳴った。

「はい。こちら、書物庫です」

「あなたがコンツェッタ・サリエリかい?」

「はい。あなたは?」

「わたしはサント・ヴェッキオだよ」

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