「おはようございます、ぺゼリーニさん」――
「おはようございます、ぺゼリーニさん」
「おはようございます、サリエリさん。よい一日を」
書物庫へ行くと、鍵のかかった扉の前に憲兵隊の紺色の制服を着た男が立っていた。
「あの何かご用ですか?」
憲兵が振り向いた。端整な顔立ちで背が高く、軍服がきちっと似合っていた。コニーは持参金付きの結婚のことをふと思い出した。
「コンツェッタ・サリエリさん?」
「はい。わたしです」
「あなたはこの書物庫の管理をしていると伺いました」
「はい」
「あなたのご協力を必要としています」
「協力ですか。あ、でも、先に部屋を開けていいですか?」
「もちろんです」
書物庫にコニー以外の人間が入ってきたのは数年ぶりだった。
「それで、ご用件は?」
「その前に自己紹介をさせてください。わたしは第五憲兵大隊所属、ミケーレ・カラヴァッジョ中尉です」
「ご丁寧にどうも。わたしはコンツェッタ・サリエリです。でも、もう、名前はご存じでしたね。それではご用件を」
仕事にがっつくような自分に苦笑いをしつつ、カラヴァッジョ中尉は一枚の紙片をカウンターに置いた。
サント・ヴェッキオ。
そう書いてあった。
「無理を承知でお願いするのですが、この書類庫に、このサント・ヴェッキオに関する書類、あるいはその名前が出てきた書類はありますか?」
「ちょっと待っていてください」
コニーは自転車に乗って、十八番目の棚の目線の高さの紙バサミを取り出した。
それをカウンターに置くと、コニーは、
「これは一か月前に持ち込まれたものです」
と、言った。
それは古王国島のレンジャーノ県にあるファルコーネ宮殿の課税審査に関する書類だった。いくつかの銀行が売買に興味を持っているらしい報告書もはさんである。
中尉は形の良い眉を少し寄せた。
「これのどこにサント・ヴェッキオが?」
コニーは二枚目の書類の右端を二十度に傾けた鉛筆の芯でこすった。すると、サント・ヴェッキオの文字が浮かび上がった。誰かがこの書類の上でそう書いたのだ。さらに名前の上にはバネ付きのクリップでとめた跡がある。誰かがこれらの書類一式を〈サント・ヴェッキオ〉と書いたメモと一緒にまとめておいたということだ。
「驚いたな」
カラヴァッジョ中尉が言った。
「あなたはこのことを覚えていたのですか?」
「たまたまです。これは来て、一か月のものでしたから、たまたま覚えていました。もう少し時間をくださったら、古い書類も取り寄せできますけど」
「あなたはこの膨大な書類の内容を覚えておいでなのですか?」
「はい。それなりに。それで、古い書類にサント・ヴェッキオが記載されているかの調査についてはどうしますか?」
「お願いします。いや、あなたのおかげで捜査が大きく進むかもしれません。最近は手詰まりだったから、これが新しい突破口になるかもしれない」
中尉はすぐにでもファルコーネ宮殿に向かいたいようだったので、形だけコーヒーを勧めた。中尉は少し困った顔をしたが、礼を失したくなかったので、一杯だけいただきますと言った。
省舎に寄り添うように立つ、大蔵省役人専門のカフェが中尉のコーヒーとコニーのココアをボーイに持たせてやってきた。ココアはスプーンを入れると立つほど濃く、カップの上に小さな蜃気楼が見えるほど熱かった。
「すごいココアですね」
「わたしの楽しみのひとつです」
「あなたは何年、この書物庫に?」
「八年です」
「ずいぶん長いのですね」
「はい。最初の赴任場所からずっと固定されています。たぶん、これからもずっと固定ですね」
「優れた頭脳をお持ちなのにもったいない」
「ただ、記憶力が人より、ちょっといいってだけです。それで、世の男性たちは記憶力のいい女性を嫌います。執念深そうだって」
「わたしはそうは思いません。確かに聡明な女性を嫌う心の狭い人間はいますが、それと同じくらい、優れた女性を尊敬する人もいるのですよ」
あなたはどっちなんですか? と、きいてみたくなった気がしたが、子どもっぽすぎるのでやめておいた。
中尉はコーヒーをごちそうさまでした、と立ち、扉のノブをつかんだ。
「あの」コニーは急に声をかけ、それから自分でも想像もしなかった質問をしてしまった。「また、お会いできますか?」
カラヴァッジョ中尉はにこりと笑って、「もちろんです」とこたえた。