第5話 落ちて一大事(前編)
その後しばらく、聖女様の周囲は慌ただしかった。
レシクラオン神皇国を統べるファンデンディオル家にのみ生まれる聖女は、原則年に一度、他国へ出張儀式に行く。レシクラオン神皇国内で数日おきに行っている「離穢の儀」と「清祈の儀」を他国でも行うためだ。
末期の病や致命傷のけが以外ならば完治させることのできる聖女の癒しの力は、常に他国も欲している。レシクラオン神皇国の歴史上、聖女の力を欲するあまりに聖女が他国に誘拐されそうになった事件が何度か起きているが、そうならないようにレシクラオン神皇国は公式に聖女を他国へ向かわせ、その力を決して独り占めしているわけではないと示すのだ。
そしてこの年の出張儀式の行き先には、グントバハロン国が予定されていた。しかしどういうわけかノルティスラ連邦に行き先が変更されそうになり、だがその予定がまた変わり、結局当初の予定通りグントバハロン国に正式決定となった。二転三転した調整内容をルシリシアもパメラたち使用人も少し不思議に思ったが、出張儀式に向けて急いで準備を進めた。
ルシリシアはいつになく厳重な警備体制に守られながら、グントバハロン国に向かう。これまでパメラは、「まだ若いから」という理由で出張儀式に付いていくメンバーに選ばれたことはなかったが、さすがに二十二歳という立派な大人になり、聖女様に仕え始めて十年は経っているということで、今回初めて同行した。グントバハロンへは海路で向かうこともできるが、万が一にも嵐に遭って聖女を失うわけにはいかないので、どんなに遠くとも陸路で行けるならば基本的には陸路で移動する。そのため、訪問するだけでもなかなかの長旅で、パメラはルシリシアと共に馬車に乗っているだけではあったが、不慣れな旅の道にかなり疲れてしまった。とはいえ聖女の侍女として同行しているのだから、休憩のたびにお茶の用意をするなどしてルシリシアを気遣った。
ルシリシアの身の回りの世話をする侍女としての仕事には慣れきったものだと思っていたが、まだまだ不慣れなこともあるのだと、パメラは出張儀式の往復の道中で己の未熟さを感じた。この先も聖女付き侍女として働きたいならば、何かひとつでも、今以上に侍女として成長する必要がある。パメラは現状の自分に甘えることなくこれからも頑張ろうと思った。
そうして無事に出張儀式を終えてレシクラオン神皇国に戻ってきたルシリシアは旅の疲れが出たのか少し熱を出してしまい、数日間寝込んだ。
パメラはある時神官から聞いたのだが、他国で行う儀式はレシクラオン神皇国で行う時よりも、聖女の身体への負担が大きいらしい。というのも、レシクラオンの民は常日頃からウォンクゼアーザを熱心に信仰しており、神に祈りを捧げている回数も多い。民自身が日頃の祈りによってウォンクゼアーザの加護を多少なりとも受けているので、レシクラオンの民に癒しの力を使うのに聖女自身はそれほど力まないでいられる。ところが、他国はレシクラオン神皇国ほど熱心な信徒ではない。ウォンクゼアーザの名前や「白き心を持つ者には神の祝福が授けられる」という伝承は広まっているが、では日々神に祈りを捧げるかというとそうではない。そうした信仰心の少ない他国の民を癒すために、聖女はいつも以上に強く神と通じ、その力をより多く借りなければならないのだそうだ。その結果、発熱したり全身に倦怠感を覚えたりするなど、聖女の身体には明確な不調が出る。聖女の出張儀式の回数をもっと増やしてくれと要求してくる国もあるようだが、そうした事情もあって、レシクラオン神皇国としては聖女の出張儀式は年一回という原則にしていた。
出張儀式後の疲れを十分に癒すこと数日。ルシリシア同様にしばらく多忙とのことだったディルクとジェレミーたちも仕事が少し落ち着いたらしいので、パメラは再びジェレミーと結託して聖女様を真夜中の散歩へ誘った。ルシリシアは決してパメラに仔細を語らなかったが、幸せそうな表情を見ればディルクとの仲がとても良好なのはすぐに理解できた。
(心なしか、以前よりもおきれいになったなあ、ルシリシア様)
午前中に「清祈の儀」を終えて昼休憩を挟んだのち、離小城の庭をのんびりと散歩しているルシリシアを少し離れた場所から見守りながらパメラは思った。
パメラが童顔すぎるのでルシリシアの方が年上に見られがちだが、ルシリシアはパメラより三歳ほど若い。しかし聖女としての重責が彼女を大人びさせているのか、澄んだ表情や凛とした姿勢ゆえに年齢よりも大人っぽく見えていた。それがディルクとの逢瀬の影響だろうか、以前にも増してルシリシアは美しくなったように思う。満月を思わせる銀髪と同じくらいに肌は透き通って、神の祝福とも言える陽光の下で輝く。ゆっくりとはにかむ笑顔は愛らしくて、露草色の瞳はいつでも慈愛に満ちている。
(恋をすると女性はきれいになるって言うけど、本当なのかもしれないわ)
聖女でありながらもディルクと男女の仲になっている自分に、ルシリシアはまだ葛藤があるようだった。その葛藤を鎮め、神に許しを請うためか、ルシリシアは儀式がない日でも神聖殿にこもって祈り続けることがある。神官たちは実情を知らないので「本当に聖女様は日々熱心に神に祈られて、聖女の鑑ですね」と感心していたが、聖女様の秘密の恋を知るパメラとしては「自分を責めなくていいのに……聖女様だって恋をしてもいいのに」とはがゆく思っていた。
そんなある日、パメラは夕方からの勤務だったので城下町にある狭い集合住宅の自室でゆっくりと朝食のパンを食べていた。ルシリシアが楽しめそうな本でも買いに本屋へ寄ってから離小城へ出勤しようかと考えていると、玄関ドアがノックされた。来客なんて珍しいと思ってドアを開けると、そこには自分と同じ聖女付き侍女がいた。確か彼女は、昨夜の遅番から今朝の朝番勤務のはずだ。
「あら、おはようございます。どうされたんですか?」
「いえ、それがね。聖女様がすごく取り乱されて、あなたを呼んでほしいと」
「聖女様が?」
「ええ、様子が変なのよ。とても寒いのかガタガタ震えて、でも体調不良とも少し違うみたいで……とにかく、勤務時間前で悪いけど急いで来てくれる?」
(ルシリシア様、いったいどうされたのかしら)
ルシリシアはパメラと違って、いつでも冷静な人だ。パメラはこの十年間、ルシリシアが大声を出したり、騒いだりしている姿を見たことがない。いつでも強い自制心を持って、心の中を平穏に保つように努力している健気な女性だ。
そんなルシリシアが、侍女が不思議に思うほどに取り乱すなど、いったい何があったのだろう。パメラは呼びに来た侍女と共に離小城へ向かう馬車に乗り込んだ。そして離小城に着いてルシリシアと二人きりになると、最悪の事態になっていることを知った。
◆◇◆◇◆
(うーん……)
その日の朝、ジェレミーは考え事をしていた。
聖女付きの侍女パメラと知り合ってから数ヶ月。聖女様の秘密の恋をアシストするためにずいぶんとパメラと顔を合わせてきたからか、最近は家名ではなく「ジェレミー様」と名前で呼ばれるようになった。すると不思議なことに、ジェレミーの心の中の一部分がほわほわと温まった。そして、以前にも何度か「かわいらしいな」と思っていたパメラのふとした瞬間の笑顔を、もっとかわいいなと思うようになった。
(恋はするものじゃなくて……)
聖女様と尊敬するディルクには悪いが、ジェレミーは一目惚れというものをあまり信じていなかった。快く思っていないと言ってもいい。なぜなら自分が一方的に一目惚れをされることが多く、そしてだいたい一目で好いてきたその相手は、「何か思っていたのと違う」という理不尽な理由でジェレミーのもとを去り、良い印象がないのだ。
だから、自分が誰かに一目惚れをすることはないだろうと思っていた。その予想通り、一目惚れはしなかった。その代わりゆっくりじわじわと、どうやら自分は恋に落ちてしまったらしい。
(いや、まあ……うん)
自分の気持ちを自覚しながらも、ジェレミーはその場で足踏みをしているような気分だった。
パメラという女性はひどく童顔だ。二十二歳という年齢が信じられない。まだ十六ぐらいの、かろうじて成人したばかりぐらいの年齢に思える。言動も時々とても子供っぽいし、離小城に仕える年上の使用人仲間からたしなめられることがよくあると言っていたが、その様子が容易に想像できた。
しかし聖女様を思う気持ちは本物で、心の底から聖女様を敬愛していることがよくわかる。聖女様の役に立つことが生き甲斐で、聖女様のためにできることならなんだって喜んで行う。その純粋さが眩しく、その健気さが愛おしく思う。実際にやっていることは聖女様を離小城から脱走させるというとんでもない犯罪まがいの行為なのだが、なんだかんだその手伝いをしてしまうのは、聖女様を思うパメラを助けてやりたいという気持ちもあるからだ。
そんな聖女様第一のパメラは、ジェレミーの顔面の良さに見惚れはしない。だいたい初対面でこの顔に惹かれる女性が多い中で、パメラは最初からまったく、ジェレミーの顔の良さに意識が向かない。それはジェレミーにとって居心地のいい距離感だった。いい意味でパメラはジェレミーに興味がないので、高望みの理想像を押し付けてくることなどしないし、ジェレミーが情けない言動をしても幻滅などしない。パメラといる時のジェレミーは、ありのままの自然体でいられる。聖女様とディルクの蜜夜が過ぎるのを彼女と共に待つ時間は、異性と二人きりであるということをまったく意識せずにリラックスして過ごせた。
(パメラ嬢は僕に興味がないから、一緒にいて心地いい……でも、僕に興味がない女性を好きになってどうするよ)
もしも「君のことが好きだ」と言ったら、パメラは苦虫を噛み潰したような表情をするに違いない。聖女様たちほどではないが、明るい未来に進める可能性の低い恋だ。
「おはようございます~」
ジェレミーは覇気のない声で挨拶をしながら、特殊作戦部隊の庁舎に出勤した。考え事をしながらのんびりと歩いていたせいか、始業時刻まであとわずかだ。
「うっす。なあ、部隊長がディルク班長を呼び出したらしいんだが、お前、何か聞いてるか?」
ジェレミーと同じく、ディルク率いる第二班のメンバーである褐色肌のセリオが尋ねてくる。ジェレミーは騎士の証であるマントを一度脱ぐべく、マントを止めている肩章を外しつつ首を横に振った。
「いや、特には」
「そうか。神官や司法院の職員たちも来ていたらしいから、何かあったんじゃないかと思ったが」
「神官と……司法院の職員?」
「ああ。俺は見ていないが、朝一で何人か来たそうだぞ」
(軍事院の庁舎じゃなくて、わざわざこっちの特殊作戦部隊の庁舎に?)
その瞬間、ジェレミーの背中に一筋の冷風が流れた。訓練場での鍛錬に備えて動きやすい服に着替えようとしていた手は、再び肩章でマントを肩に止める。
「なあっ、なんかディルク班長が連行されたって噂なんだけどマジ!?」
そこへ、同じ第二班メンバーのリュークが飛び込むようにして待機室に入ってきた。セリオとリュークは、互いに聞きかじった情報をすり合わせしてディルクを案じる。
(これは……っ)
しかしジェレミーはそんなセリオとリュークには何も言わずに、早歩きで部隊長室を目指した。そしてノックもせずにドアを開けて、中にいた部隊長のロミルド・ダウフをじっと見つめて尋ねた。
「ディルク班長はどこへ連れていかれたんですか」
「ジェレミーか。お前たちは何も知らなくていい。本件はすでに神聖院と握り合った。非常に残念だが、ディルクの首だけですむ。これ以上特殊作戦部隊から罪人を出さないためにも、首を突っ込むな」
窓を背にした椅子に腰掛けていたロミルドは深いため息をついた。
「惜しいことだ。ディルクほど実力があって頭もキレる兵士はそういない。いつかはこの特殊作戦部隊を任せられる男だと思っていたが」
話にならない。ジェレミーはそう判断すると、黙って部隊長室を後にした。