第3話 協力者、あなたに決めた(前編)
パン屋マリエットはごくごく普通のパン屋だった。木造の平屋で、商品が並べてあるブースの奥に、店主夫妻が忙しなくパンを焼く厨房がある。イートインスペースも充実しており、アイスレモンティーが店のお勧めドリンクとのことだった。
そのパン屋でチキンサンドを購入してのんきに食べながら、ジェレミーは聖女付き侍女のパメラと向かい合っていた。一応城下町内の巡廻警備中であるジェレミーとしては、こんな風にあからさまに座って休憩するのではなく、パン屋の建物の陰で立ち食いをして用事だけすませたいところではあったが、最初の予想に反して話が長くなるかもしれなかったので、パメラと共に店内のイートインスペースの椅子に腰を下ろしたのだった。
「人目があるので〝聖女様〟とは言わずに……そうですね、〝露の方〟という呼称でお願いできますか」
「いいよ、わかった」
「それで、露の方がお会いしたという黒髪の殿方はリエルソン様の上司の方だったのでしょうか」
「うん、本人に確かめた。間違いないよ」
神の力を使って人々を癒すことができる、唯一無二の神聖な聖女。その聖女様が一目惚れをした相手は間違いなく、ジェレミーが属する神皇軍特殊作戦部隊第二班を率いる班長、ディルク・エングムその人だった。
「では、あの、そのお方のお名前と……あとどういう方なのか、差し支えない範囲で教えていただけますか?」
ジェレミーと違って、パメラはスモールサイズのアイスティーだけを頼み、しかしそれにたいして口も付けずに身を乗り出すようにしてジェレミーを見つめた。
「名前はディルク・エングム、三十一歳。代々神皇軍の軍人になっているエングム家の三男坊。二人の兄は騎士の称号を持っているけど、ディルク班長は三男だからただの兵士。でも特殊作戦部隊の軍人としての実力は折り紙付きだよ。武器の扱いや任務中の判断力に長けてる。個人的な能力で言ったら部隊の中でも一、二を争うんじゃないかな」
「優秀な方なんですね?」
「性格はぶっきらぼうであまり冗談とか言わないし、実直で堅物だけど憧れてる後輩たちは多いね。僕もその一人だ。ディルク班長みたいな、男らしい男になりたいと思うよ」
そう言ってからジェレミーは後悔した。後半はわざわざ言わなくてもいいことだ。ディルクと違って甘い王子様のような面構えの自分が「男らしい男になりたい」などと言うと、たいていの女性はジェレミーの見た目と理想のギャップをあまりよろしくとらえない。「あなたはそのままでいいのに」と、あからさまにがっかりした表情でたしなめてくるのだ。
「同性から憧れられるタイプの男性なんですね。私はあまりそういう方をお見掛けしたことがありませんけれど……露の方ってば、どうしてそんな男性に……」
パメラも何かしら指摘するかとジェレミーは予想したが、しかしパメラはジェレミー自身については何も言わなかった。というより、昨日会った時もそうだったが、パメラの頭の中はとにかく聖女様のことでいっぱいで、自分がイケメン騎士と一緒にいるという状況をなんとも思っていないようだ。
「エングム家を私は知らないのですけれど、騎士になれる家系なのに騎士っぽくはないお方なんですかね」
「まあ、そうだね。エングム家の実家は大きな屋敷だけど、班長はそこを出て城下町の集合住宅で一人暮らしをしてるし、仕事にストイックだから……なんていうか、まあ、その……僕としても、とても露の方に気に入ってもらえるとは思えないんだけど」
「けど?」
ジェレミーの語尾が妙に濁ったのを、パメラは聞き逃さなかった。
「いや……うん、だから……不思議だね、って話」
「ちなみに、リエルソン様が露の方のことをお尋ねになった時、エングム様はどんな反応でした?」
「どんな、って……」
「あーあの時かー、って感じでごく普通の世間話のように話されたのか、それとも露の方と同じように、少しはエングム様にとっても特別な思い出になられたのか」
「思い出……うーん……そうだなあ」
明確なことは何も言わず、それ以上話をしてくれるなとやや強引に会話を切り上げたディルク。逃げたようにも見えたあの様子を、どう表現すればいいだろうか。
(パメラ嬢に言ってもいいのか? 言わない方がいいよな? ディルク班長のあの反応はたぶん……だって……なあ)
ジェレミーは胸中で歯切れ悪く思案した。
ディルクは「忘れたいからもう話すな」という趣旨のことを答えただけだ。普通に考えれば、聖女様と目を合わせてしまった程度の経験が忘れたいほどに苦々しいものになるとは考えにくい。ならばなぜ忘れたいのか。それは、その瞬間に抱いてしまった感情が決して叶うはずのないものだとわかっているからではないだろうか。叶うはずがないから思い出すだけでも苦しい。もう忘れたい。それはつまり――。
「エングム様は露の方のことをどう思っていらっしゃるのでしょうか」
「いや……どうって……」
――好きになってしまったのだと思われる。ディルクもきっと聖女様と同じように、少し目が合っただけの相手のことを好いて、しっかりと恋に落ちてしまったのだろう。
「パメラ嬢はさ、どうするつもりなのかな」
「えっ?」
チキンサンドをたいらげたジェレミーはパメラに尋ねた。
「名前と人となりを伝えたところでどうにもならないよね? だって露の方は誰よりも特別な存在だ。名前を知ることぐらいで満足してもらってそれで終わるならまあ、いいんだけど……人の気持ちってどうなるかわからないよね? それも恋心なんていう厄介なものは」
特定の異性を好いた経験は、ジェレミーにもある。それ以上に異性から好かれた回数の方が多いが、しかし当事者になったことがあるからこそわかる。恋とは複雑怪奇で、自分の感情がいつも以上にままならなくて、好きなのに傷つけてしまうことがある。好きだからこそ傷ついてしまうことがある。「見た目は素敵なのに中身はなんだか違うのね」なんて言われた日には、自己の存在を徹底的に消してしまいたいと思ったこともある。
そんな風に、誰かとの恋愛関係とはいつでも順風満帆に進むものではない。むしろ自分も相手も、心の中が嵐のように何度も荒れ狂うのだ。
そんな嵐に聖女様を突き落としたいのか。生涯神に祈りを捧げるべきさだめの聖女様の心に、そんな波風を立てたいのか。そもそも、聖女の恋は許されてはいない。聖女様がディルクと結ばれることなどありはしないのだ。
「そうですね、わかりません。私は恋をしたことがありませんし……あ、先輩侍女がお勧めしてくださった恋愛小説はいくつか嗜んだので、一応恋心への理解はあるつもりですが」
「恋愛小説って……ふふっ」
パメラがその童顔に似つかわしいほどにとても青臭いことを自慢げに呟いたので、ジェレミーは思わず噴き出して笑ってしまった。
「何がおかしいんです?」
「いや、ごめん……なんでもないよ。それで、わからないけど伝えるのかな」
「ええ、伝えます。そのあとのことはなるようになぁ~れ、です。それにきっと、何か必要なことがあればウォンクゼアーザ様が教えてくださるような気がします」
「神が?」
この世界を創ったというウォンクゼアーザ。絶対のその存在が、まさか恋愛アドバイスをくれるというのか? ジェレミーはパメラの言うことを少し愚かしく思った。
「ええ、きっと教えてくださいます。だって露の方とエングム様の出逢いもきっと、神の思し召しですから」
「うーん……まあ、そうなのかなあ」
「とにもかくにもありがとうございました、リエルソン様。軍事院の庁舎であなたと会えたのも、きっとウォンクゼアーザ様のお計らいなのでしょう。神に感謝します」
さすがは聖女に仕える侍女だ。何かとつけて神の名を持ち出し、すべての縁を神の采配によるものと感謝する。信心深い、典型的なレシクラオン神皇国の民らしい。
(でも、そうとしか考えられないか)
パメラと別れ、再び城下町内の巡廻に繰り出したジェレミーはぼんやりと考えた。
この流れが神の意思によるものだとしても、行く先は変わらない。聖女には恋も結婚も許されていないし、離小城からほとんど出ることのない聖女がディルクと会えることはない。決して結実しない想いなのだ。たとえ両人が想い合っていたとしても。
(はー……恋なんてするもんじゃないな)
ディルクの率いる班に入って以降、ジェレミーはどんなに女性から告白されようとも「今は仕事のことが一番だから」という理由ですべてお断りしてきた。両親からはもうそろそろ結婚してほしいとせっつかれているが、リエルソン家の跡取りのことならまず兄がなんとかするべきだろうと言ってお茶を濁している。
それよりも、理想としているディルクの下で働ける間は彼を目指して少しでも成熟したい。この甘いマスクに似合わない仕事内容だとそしられようとも、自分なりの理想に近付きたいのだ。
そう考えるジェレミーは、しかし大事なことを失念していた。恋とは「する」ものではなく「落ちる」ものであるということ。本人の理性や確固たる意識を差し置いて、気付いた頃にはすでに始まってしまっているものであるということを。
◆◇◆◇◆
「ルシリシア様、わかりましたよ。特殊作戦部隊第二班の班長さんだそうです」
ある日の夜、ルシリシアの私室からほかの侍女がいなくなったのを見計らってパメラはそう切り出した。そしてルシリシアが恋をした相手――それが神皇軍特殊作戦部隊に所属しているディルク・エングムという兵士であることを教えた。
それからパメラはルシリシアに尋ねた。ディルクに恋をして以降、神に祈る時間が増えたルシリシアだが、ウォンクゼアーザは何か言っていないかと。するとルシリシアは首を横に振った。神は楽しげに「白き心」と伝えるだけで、その真意はわからないと。
「パメラ……私、胸が苦しいの」
ソファに座っているルシリシアは俯き、苦痛を感じているような表情になった。
「あの人に会いたい……ふれたい……でも私は聖女として生きなきゃいけない……誰かを好きになることなんて許されない……それなのに、今のこんな私を、神はただ嬉しそうに見ているだけ……どうしてなの……わからない……私……」
「ルシリシア様……」
そうしてルシリシアは静かに泣いた。頬を伝う透き通った涙がきれいだと、パメラは思わず見惚れそうになった。
「苦しくて……心が痛いの。それでも消えてくれないの……あの人の面影が」
ルシリシアは確かに恋をしている。けれども聖女という立場ゆえにその恋が絶対に叶わないことをきちんと弁えている。初恋も未経験のパメラは、ルシリシアの胸を引き裂かんばかりに痛ませている切なさがどんなものなのか、想像することしかできない。だが聖女として美しく育ったルシリシアの表情をそんなにもつらそうにさせるのなら、それはけがをした時に感じる本当の痛みと同じなのだろう。
神はルシリシアを選んで癒しの力を与えて聖女にさせたのに、なぜその聖女に痛みを与えるのだろうか。誰とも愛し合うことなく生涯独身を貫かなければならない聖女のルシリシアに、なぜディルクという男性との恋を許すのだろう。
(そもそも、聖女は恋も結婚も禁止というその前提がおかしいのでは?)
切なさで心を痛ませるルシリシアをしばらく眺めていたパメラは、ルシリシアを慰める言葉を懸命に探した。そしてその結果、ひとつの確信を得た。するとどことなく小さくなっているルシリシアと違って、やけに熱い自信が身体の内側からみなぎってきた。