第5話 落ちて一大事(後編)
(たぶん、ディルク班長と聖女様の逢瀬が神聖院にバレた。でも、僕やパメラ嬢がその逢瀬に協力していたことはおそらくバレていない)
どういう経路でどうやって知られてしまったのかはわからないが、ロミルドの口ぶりからすると、自分は聖女様とディルクの秘密の逢瀬に関わっていないと思われている。ロミルドと神聖院は、逢瀬相手がディルクであることは確信しているようだが、協力者については素性が判明していないか咎めるつもりがないかだ。
「セリオ、神官のほかに司法院の職員も来ていたんだよな?」
部隊長室から待機室へ戻ったジェレミーは、リュークと立ち話をしていたセリオに尋ねた。
「ああ、見かけた奴らから聞いただけだが」
(司法院の職員……ディルク班長が連れていかれた先は司法院の庁舎かそれとも……)
「なあ、ディルク班長、なんかやらかしちまったのか?」
「ディルク班長に限ってそんなことはないと思うが」
リュークとセリオも、ジェレミーと同様にディルクのことを尊敬している。非常に頼れるリーダー気質のディルクは、部下たちに慕われやすい。連行されたらしいと聞いてもまだ、彼らはディルクを信じていた。
(でも、聖女様と密通したという罪は事実なんだ)
リュークとセリオを疑うわけではないが、ディルクのことを思うとここでそう簡単に事実を共有するわけにもいかない。ジェレミーは二人に真実を告げることはせず、しかしあらぬ噂が立たないように動いてもらうことにした。
「リューク、君が聞いた噂ってどこから広まってるんだ」
「え? オレは第四班から聞いたけど。第四班は夜勤だったから、朝一でここに来た神官たちを見たんだって」
「そのうち部隊長からもお達しがあるかもしれないが、この件についてあまり噂話を広めないよう、第四班に釘を刺しておいてくれないか」
「お、おう。わかった」
「ジェレミー、どこに行くんだ?」
訓練場でも巡廻警備でもなく、何か別の場所へ行きそうな様子を察してセリオが問いかける。
「神のご意思に従うだけだよ」
それだけ言い残すと、ジェレミーはセリオとリュークに振り返ることなく待機室を出た。
(ウォンクゼアーザ様、これもあなたの望んだことですか。それとも……)
庁舎の敷地を出たジェレミーは心の中で神に語りかけながら、つい少し前に出たばかりのリエルソン家の屋敷に戻る。そして空いている馬車の御者台に乗り込むと、馬の背に鞭を入れた。
(神の望みでないのなら、なんとかします。だからお導きください)
すっかり思考がパメラに似てしまったようだ。だが、神頼みをするしか今はほかに方法がない。そしてジェレミーが穢れのない気持ちで神に語りかけると、不思議なことにジェレミーは馬車を秘密の道へと自然に誘導していた。人通りが少なくやや遠回りではあるが、こっそりと離小城の北側に通じる道――ディルクとの逢瀬に向かう聖女様を乗せて深夜にこっそりと何度も往復した道だ。なぜいまその道を進むのか自分でもわからなかったが、ジェレミーは神託だと思うことにした。
そうして道のほぼ終点となる林に覆われた場所で馬を止める。いつも夜に来ているその場所は視界が悪く、人目を忍んで行動するには絶好の場所だった。日常で使う道としてではなく、離小城で万が一火災などが起きて表の道を使えない場合の緊急用としてはるか昔に整備されて以来、ほとんど管理されていないのだ。
その場所で待つことしばらく。まさか本当に来るとは思っていなかったが、夜の脱走時と同じように黒いフード付きのローブをまとったパメラとルシリシアが現れたので、ジェレミーはいよいよウォンクゼアーザの御心をすぐ傍に感じた。
「え、ど、どうしてっ」
ジェレミーの存在に聖女様は目を見開いて驚愕した。ジェレミーは車体の扉を開けて二人を誘導しながら苦笑する。
「ウォンクゼアーザ様のお導きですよ、聖女様。自分はディルク班長が連行されたと聞いて、軽い情報収集をしてから一か八かでここに来ただけですが」
聖女様とパメラが車体に乗り込んだので、ジェレミーは扉を閉めて御者台に座る。さて、幸運にもこの二人と合流できたがこれからどこへ行けばいいのか。そう考えつつも、ひとまずジェレミーは馬を走らせる。すると車体の小窓からパメラが大きな声を出した。
「ジェレミー様、光の届かない裁きの場ってわかりますか!? ウォンクゼアーザ様が、そこに行けと」
「裁きの場……裁判所……光が届かない……暗い……地下……地下裁判所か!」
「地下裁判所!?」
「死刑に値する重罪を犯した者は、普通の法廷ではなく裁判所の地下にある薄暗い場所で裁かれるんだ」
「じゃあそこです! そこにエングム様がいます!」
「了解!」
ジェレミーは頷くと鞭を持つ手に力を入れて、速度を上げるように馬に命じた。
「パメラは神の声が聞こえるの?」
開け放たれたままの小窓から、車内の聖女様とパメラの会話がうっすらと聞こえてくる。
「いえ、はっきりと聞こえるわけではなくて……そうおっしゃっているように感じたんです。何かこう、心の中にふわっと言葉が浮かんでくるような……でもこれってきっと、ウォンクゼアーザ様のお言葉ですよね?」
「ええ……ええ、そうよ。私にも、神はそうやってお答えしてくださるの」
神は声を持たない。風が木の葉を揺らす音や、雨が地面を打ち付ける音、そして人の喉が発する声のように、その言葉を明確な「音」として人々に聞かせることはない。だが、神の意思は音ではなく頭、あるいは心の中にふわりと下りてくる。頭で思考するよりも先にふと浮かぶ単語、それこそが神から人への「応え」だ。
そうしてウォンクゼアーザに導かれるように三人は城下町にある裁判所に向かった。入り口の守衛に足止めされるもどうにか突破し、神の声なき声を受け取るパメラの先導で、地下裁判所への入り口と思しき扉までたどり着く。開錠する術がなくてどうしたものかと思ったが、ルシリシアが神へ祈りを捧げると、扉の鍵はガチャッと音を立てて外れた。そして三人は灯りの乏しい階段を下りて、薄暗い法廷内になだれ込むようにして入る。しかしその瞬間に聞こえたのは、ディルクの死刑を言い渡す裁判長の厳粛な声だった。
「判決を言い渡す! ディルク・エングム、聖女強姦の罪で死刑に処す!」
パメラたち三人が開けたドアの先は、二階席のようだった。二階席は中央の長方形のくぼみに落ちないように手すりがあり、裁判官たちが四方に散らばって座っている。その裁判官たちは中央の空間を見下ろしており、その視線の先の一階部分には、両手首を身体の前側で手錠にて拘束されているディルクがいた。頭上の四方から裁判官たちに見下ろされるその場所が被告人席のようで、吹き抜けと言えば良い表現に思えるが、実際はただただ裁判官たちに上から睨みつけられるだけの冷たい空間だ。
「取り消して……取り消してくださいっ! 私は強姦などされていません! ディルク様にはなんの罪もありません!」
ルシリシアは手すりに身を乗り出すようにして叫んだ。誰でもいい。どの裁判官でもいいから、たったいま下された残酷な判決を取り消してほしい。裁判官たちをきょろきょろと見やるルシリシアの表情は、今にも泣き出しそうなほどに必死だった。
(ディルク班長……)
ジェレミーは地下裁判所内にいる司法院の職員たちを一通り観察してから、最後に苦しげな表情でディルクを見下ろした。
死刑という判決に至るまでにどのような審議があったのかはわからない。しかし、特殊作戦部隊の部隊長ロミルドいわく、「本件はすでに神聖院と握り合った」とのこと――つまり厳正に争点が争われることなどなく、この裁判は最初からディルクの死刑ありきのはずだ。
突然の聖女様の乱入と、そしてその聖女様からの反論に裁判官たちは動揺していた。しかし、ジェレミーたちから見て左手側、一階にいるディルクから見て正面側の二階席部分に立つ裁判長が立ち上がり、ルシリシアを大声で注意した。
「ここは裁きの場! 聖女様といえども口出しは許されませんぞ!」
さらに、近くにいた裁判官たちも口々にルシリシアをたしなめた。
「聖女様、どうやってこの裁判のことを把握されたのかは存じませんがお控えください。こたびの件はあなた様一人の問題ではない。神聖院全体のスキャンダルなのですよ」
「そうです。これはあの男一人の首で神聖院を守るための裁判でもあるのです」
「何を……何を言っているの?」
彼らの言うことに理解が及ばないルシリシアは、目を見開いて呆然とした。そんなルシリシアに関係者の思惑を解説するように、ジェレミーは呟く。
「清らかな聖女様が男と密通しているなんて、公にはできない。でもどうやらその事実があったらしく、それを知ったお偉い方々から神聖院が非難されている。その神聖院の体面を守るためにも、聖女様と密通したらしいディルク班長を極刑にして、聖女様と神聖院はあくまでも被害者にしておきたい……ってところかな」
おそらくだが、神聖院を非難しているのは元老院だろう。
実は先日、ジェレミーたち特殊作戦部隊が入手した証拠によって、ある元老院議員が有罪になった。罪状は「聖女の私的利用」だ。その元老院議員は新興国であるノルティスラ連邦を聖女の出張儀式の行き先に選定することと引き換えに、自身が営む商会とノルティスラ連邦の貿易を有利に進めようと画策していた。自身の儲けのために、尊き聖女を利用しようとしたのだ。しかしその企みは暴かれ、今年の出張儀式は当初の予定通りグントバハロン国になった。ルシリシアはおそらく知らされていないだろうが、出張儀式の行き先がなかなか決まらずに二転三転した裏には、実はそのような事件があったのだ。
そしてこれはジェレミーの予想にすぎないが、その件で神聖院は恨まれた。有罪となった元老院議員はほぼ全財産に近い資産を没収されることと、議員資格を剥奪されることで収監は免れたはずだが、聖女様の密通というスキャンダルを告発して、「神聖院は聖女様を正しく管理できていない」という論調で非難して一矢報いようとしたのだろう。個人的な恨みで組織全体を憎んでどうするのかとも思うが、しかし神聖院が聖女様の密通を防げなかったのは事実だ。そして神聖院としても、聖女様と関係したディルクは確かに加害者だ。ディルクにすべての罪を押し付けて被害者面したいという目論見は当然考えるだろう。
「まったく嘆かわしい。なんたる醜態、なんたる恥さらし。我がファンデンディオル家の祖先が興したこのレシクラオン神皇国史上、最大の不祥事ぞ。聖女という神聖な身に生まれておきながら、その立場をまったく理解していなかったのか」
裁判長の隣にいた神皇が、ひどく冷たい声でルシリシアを叱責した。
神皇はルシリシアの実の父親だ。しかし聖女として産まれたルシリシアは生後すぐに血族と引き離されて生育されたので、神皇との間に親子としての感情はほぼないだろう。
「聖女はありがたき神の力を、国のために使えばよい。そのためだけに生きて死ねばよいのだ。こんなどこぞの馬の骨とも知れぬただの兵士にその身をさらけ出すなど言語道断であるぞ」
聖女にもかかわらず一人の男を好いたこと。そのことを徹底的に責められ、けなされ、否定されたルシリシアは胸を詰まらせながら泣いた。そんなルシリシアに、階下からディルクが告げる。
「いつかこうなるとわかっていた。この結末を覚悟してお前を抱いたんだ。でも、そのことに一切の後悔はない。心の底から愛してるよ、ルシー。お前を抱けて……いや、お前と出逢えて本当に幸せだった。ありがとうな」
「ディ、ルク……様っ」
聖女様は床に膝を突き、幾粒もの涙を流した。そんなルシリシアに寄り添うパメラの背中を見つめながら、ジェレミーは思う。
わかっていたはずだ、いつかこうなることを。聖女様とディルクの進む先に、きっと明るい未来はない。必ず誰かの首が飛ぶ。それほどまでに、このレシクラオン神皇国において聖女様の恋というのは許されざる罪なのだ。神皇の言うとおり、聖女に生まれた以上、生涯その身は清く、神と通じるためだけにあらねばならない。
(でも……)
ジェレミーは拳を握り締めた。
(神よ……こうなることをあなたも承知だったのですか)
それならなぜ、何度も何度もパメラと自分を導いたのですか。いつかこうしてディルクに死刑が言い渡されるかもしれないのに、なぜ聖女様とディルクが結ばれるように取り計らったのですか。自分と、そして聖女様のことを心から思いやるパメラはこんな結末をむかえたかったわけじゃないのに。
その時、地下裁判所に奇跡が起きた。法廷内の中央に巨大な光の球体が出現し、その中に神皇がとらわれたのだ。そしてその神皇に神が憑依し、ウォンクゼアーザは神皇の喉を借りて仰せになられた。
〝白き心の聖女……汝に罪はあらず……白き心の兵士……汝にも罪はあらず〟
地下裁判所内にいたすべての人間が、目の前の光景を信じられないと思った。パメラとジェレミーも、聖女様と同じようにきょとんした表情で光る球体を見つめる。
〝稀代の聖女……汝の白き心に……祝福を〟
そう言い残すと、球体は目を開けていられないほどの光を放った。その場にいた全員が目を閉じ、そして光がおさまったのを感じてゆっくりと目を開けると、まるで何事もなかったかのように地下裁判所内は静まり返っていた。
そして、神に憑依されたことで息も絶え絶えに疲弊したらしい神皇が、先ほどとは打って変わって覇気のなくなった声でディルクの死刑判決の無効を命じた。自身の身に憑依した神がそう仰せであるから、と。
裁判官たちはどよめいた。聖女である以上、生涯清らかで聖なる身であらなければならない。その聖女様を穢した男は当然罰せられるべきだ。長らくこの国はそうして聖女の神聖性を保ってきたし、何よりもそう法律で定め、そして厳正に順守してきた。聖女を罪に問うことはできないが、相手の男はまず間違いなく罪人だ。それなのに、その罪を神が認めないというのはとても不条理だ。信じがたい。聖女の神聖性は、そもそも神のためのものであるはずなのに。
「神皇陛下! 我が国の法は聖女のあらゆる神聖性を厳しく定めております。神がお許しになったとはいえ、ディルク・エングムの罪は罪であります!」
太った裁判官の男は強い声で神皇に反論した。司法院としては、些細な法律違反も許してはならない。その純粋な正義感が裁判官たちにはあった。
「どこが……」
すると、パメラがわなわなと肩を震わせた。ジェレミーはこれまでの付き合いから「あ、これはまずい」と瞬時に予感したが、しかし立ち上がって手すりを両手で掴み、誰にともなく勢いよく叫び出すパメラを止める気にはなれなかった。
「人が人を愛することのどこが罪なんですかああああ! だいたい、聖女は誰かを好きになっちゃいけないとか、そういう規則の方がおかしいんですよおおおお!!」
とてつもない声量だった。老いた裁判官たち何名かが両手で耳を覆ったが、腹の底から湧き出てくるようなパメラのその声は不思議と、ジェレミーにはひどく清々しいものに聞こえた。




