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陰口提供屋

作者: 結城 刹那


 1

 

 閑散とした薄暗い部屋にキーボードの電子音が響き渡る。

 世界中のほとんどの人たちが別の世界で人生を謳歌している最中、俺はこの世界に残り、ただひたすらに指を走らせる。


 全ては正義に忠実であるために。

 

「よし、セキュリティを突破。この前よりは精度が上がっているようだが、まだまだ俺の敵ではないな」


 俺は人々が生活を楽しむ仮想空間『アナザーワールド』の不正アクセスに成功した。

 アナザーワールドのセキュリティは日に日に強固なものになっている。それもそのはずで俺を含めた世界中のハッカーが日常的にアクセスをしようとしているからだ。


 彼らのほとんどは『ユースティア』と呼ばれるハッカー集団に所属している。

 ユースティアの目的は『世界をクリアにすること』。アナザーワールド内で隠れて悪事を働くものたちを取締る役目を担っている。国際的な組織ではなく、秘密裏に結成された組織だ。


 俺はその中で『陰口提供』を担当している。アナザーワールド内の会話ログから依頼された人物の陰口をしている内容を探し出して提供する役目だ。


 セキュリティーを突破した俺はまず、対象のアバターの情報を確認する。

 俺は依頼主からいただいた情報を元に対象の特定を行う。

 名前は高橋 杏里。年は俺と同じ17歳で誕生日は11月19日。


 以上の情報で絞ると一人の女性がヒットした。

 高橋 杏里。三船高校の二年C組の生徒のようだ。

 

「やはりか……」


 俺は一人でにぼそっと呟いた。

 彼女はどうやら俺のクラスメイトのようだ。名前から察しがついたが、ありきたりな名前のため確信にまでは至れなかった。しかし、全ての情報が垣間見えた今、仮説は実証された。


 クラスメイトとはいえ、仕事は遂行しなければならない。

 彼女のアナザーワールド内での在籍場所、交友関係を検索し、その中に属する人をターゲットに陰口やうわさなどの口頭情報を検索していく。


『杏里は彼氏がいるにもかかわらず、他の男と遊んでいる』

『杏里はパパ活をして大金を稼いでいる』

『高橋ってエロい体してるよな。普段聴く声からして喘いだ時の声も良さそうだし。エッチしたいわ』


 検索に引っかかる会話内容はどれも淫らなものばかりだった。

 本人も不貞操であれば、彼女の陰口をする奴らも全員不貞操だった。類は友を呼ぶとはまさにこのことだろう。


 黒く塗られた世界を白くするのが俺の役目。

 俺は検索結果を元にレポートを書いて依頼主へとファイルを送信した。

 しばらくした後に、依頼主から承諾のメールが届く。アプリで口座を開くと依頼金である30万円が振り込まれているのが確認できた。


 溜まったお金は目当ての企業へとエンジェル投資する予定だ。

 アナザーワールドはまだできて間もない。そのためいろいろな起業家がアナザーワールドの世界をより良くしようと思考を巡らしている。


 世界をより良くしようと熱心に活動する彼らを俺は応援したい。

 元々、正義の名の下に行っているため、金銭的なものは目的としていない。しかし、ユースティアはボランティア的行動を許してはいないため、仕方なくお金をもらっている。


 座っている椅子に強くもたれかかり、真っ暗な天井を見上げる。

 今日もまた混沌とした人間関係を潔白にした。満足感を覚えた俺はセキュリティ突破のために使った頭を休めるために一眠りすることにした。


 ****


 アナザーワールドは非常に良くできている。

 目の前に映る机や椅子はおろか、窓から見える建築物、自然物もリアルワールドさながらに創られている。


 この世界にログインする目的は俺には一つしかない。それは『通学』だ。

 仮想世界の構築によって、日常生活の多くのことがデジタルへと移行した。学校教育もまたその一つである。


 普段はアナザーワールドを外側から見ているが、唯一学校だけはアナザーワールドの中に入っている。友達も趣味もない俺にとっては、アナザーワールド内の世界は退屈そのものだった。


 人生における唯一の楽しみはアナザーワールドを外から見渡すことだ。

 世界中の人々が何に熱中しているのか、どんな会話をしているのか、手に取るように全て分かる。その瞬間、自分はまるで神様になったような気分になる。


 その瞬間が心地よかった。

 現実世界は多勢に無勢が絶対的でつまらない世界だから。


「そういえば杏里、さっきの男子生徒って誰だったの?」


 窓から見える街並みに目を凝らしていると、覚えのある名前が聞こえた。俺は反射的に声のした方へと顔を向けていた。教室は生徒たちによる雑談でうるさかったが、その声だけはなぜか鮮明に聴くことができた。


 見ると三人の女子生徒が一人の机の周辺に屯している。


「ああ、あれ。一個下の後輩。この前、目の前で筆箱落としたからとってあげたんだ。そしたら、一目惚れしちゃったらしくてアプローチかけられたの」


 椅子に座った彼女が自慢げな様子で答える。偉そうに肘を机につけながら浮世話に花を咲かせていた。髪は茶色に染められ、スカートを短くしている。夏服の第二ボタンまで外しており、おそらくしゃがめば豊満な胸が垣間見えることだろう。


 高橋 杏里。昨日の陰口提供のターゲットとなった人物だ。

 容顔、容貌は整えられており、美しく魅力的な姿に多くの男たちが一目惚れするのは無理もない。しかし、あの横暴な態度を見ると俺には合いそうもない。


「羨ましいなー、杏里は。そうやって、すぐ男子に惚れられて」

「まあ、日頃の行いがいいからかな」


 高橋の発言に対して、三人の女子生徒は吹き出すように笑う。

 こうして見る限りは四人の女子生徒は楽しく団欒しているように思える。

 やはり人というのは末恐ろしい生物だな。全くもって心を読み取らせてくれない。


 机の周りを囲む彼女たちは昨日、高橋の陰口を言っていた生徒たちだ。

『杏里は傲慢で嫌なやつだ』とか『生まれ持った遺伝子が良かっただけで努力なんてしていないのになんであんな偉そうなの』とか『変な男に連れられて人生めちゃくちゃになればいい』など、高橋に対して大層ひどい陰口を言っていた。


 それでいて、当の本人の前では、その様子を一切見せず団欒を楽しんでいるのだ。見る限り仲良く見える様から彼女たちの演技力の高さが窺える。世渡り上手とはまさにこのことを言うのだろう。


 にしても、クラスメイトの陰口を知ると生きづらくなるものだな。

 今までは普通に見れた光景もその裏で何が行われるか知るとなんだかヒヤヒヤする。まあ、俺には一切関係のないことだから怯えたところでなんの意味もない。


 ひとりでに小さくため息をつくと、椅子から立ち上がる。

 嫌なことを考えて、蝕まれた心を清めようと風に当たることにした。校舎と校舎をつなぐ渡り廊下がそれを行うための最適なスポットだ。


 他人であろうが陰口を知ると心が蝕まれる。

 これからも多くの陰口に触れていくために心のケアは絶やさずに行う必要がある。

 自分の心のケアはいずれ世界の心のケアにつながる。塵が積もれば山となるのだ。


 この時はまだ、自分の行っていることが正義であると心から思っていた。

 それを疑うなんて微塵も思うことはなかった。潔白な世界が一番綺麗であり、邪悪が漂う混沌とした世界は汚らわしいものだと本気で思っていた。


 一ヶ月後、高橋 杏里が自殺したことを聞かされるまでは。


 2


「それで、なぜ自首を?」


 白を基調とした薄暗い狭い一室で俺を含む三人の人物が椅子に座っていた。

 一人は俺の前で尋問を行う女性の刑事さん。ショートヘアに華奢な体つきは来ているスーツにうまくフィットしていた。


 そしてもう一人は、尋問のログを取るこれまた女性の刑事。金髪のミドルヘアをポニーテールにしている。スーツではなく白衣を着飾る姿は刑事というよりは研究者と言ったほうが頷ける。


 ログひとつ取るのに人手がいるというのはリアルワールドの悪いところだ。アナザーワールドならば、常時システムがログをとってくれている。

 とはいえ、ログ取りの刑事さんの手があまり動いていない様子から察するに人工知能によって音声データを文字に変換しているのだろう。彼女はその動作の確認をしているのだろうか。全くもって意味の感じられない役目だ。


 まあ、それは俺も同じか。

 高橋 杏里の陰口を提供してから一ヶ月後、彼女は自殺した。家の風呂場で手首を切って倒れているのが見つかったらしい。


 その訃報を聞いた時、俺は真っ先に自分が彼女を殺したと思った。

 まさか陰口を提供したからと言って、人が死ぬなんて思いもしなかったからだ。ただ、この事件をきっかけに俺は過去に提供した人物のその後について調べてみることにした。


 すると、その数パーセントは不幸なことに巻き込まれていた。自殺はもちろん、いじめや性被害など様々な事件の被害者になっていたのだ。

 世界をクリアにするための行いが、より世界を暗黒に導いていた。その事実を知った時、俺は自首を決意した。


「自分の行いが世界に悪い影響を与えていたことに気づいたからです」

「なるほどね……わかったわ。取り調べはこれで終わり。あなたの場合、自殺関与よりはアナザーワールドのセキュリティに不正アクセスしたことが問題になりそうね。おそらく在宅事件として扱われるでしょうから、しっかりと日常生活を送って、裁判に臨みなさい」


 女性の刑事は椅子から立ち上がり、取調室を出ていく。続いて白衣を着た彼女が席を立ち上がった。


「取り調べは終わりだ。さっさと出ろよ」

 

 俺に一言おいて、彼女もまた出ていく。何だかログをとっていた彼女の方が偉そうに感じられた。そんなどうでもいいことを思いながら彼女に言われた通り無気力に椅子から立ち上がる。取調室の小さな窓から流れる白い光がなんだか鬱陶しかった。


 ****


 家に帰ったのはいいものの特に何もやることはない。というよりは何もしたくない気分だった。椅子に深く座りながら目の前にある四つのスクリーンに目をやった。スリープモードにしているためスクリーンは暗いままだ。ガラスに反射して俺の顔が映し出されている。


 自首を決意して、昨夜は一睡もできなかったからか目元にはくまがある。

 ひとまず、これからどうするかは寝てから考えよう。腐った脳では何もアイディアが浮かびはしない。椅子から立ち上がり、ベッドの方へと足を運ぶ。


 すると、インターホンが鳴った。

 眠りを妨げられたことに苛立ち、反射的に舌打ちしてしまう。このまま無視するのも一つの手だが、万が一刑事さんだった場合に面倒なことになる。


 仕方なく足先を変え、玄関の方へと歩いていった。

 ドアの穴から外の様子を見る。目に映ったのは金髪の白衣を着た女性だった。無視しなくて良かったと心の中で安堵する。


「何かご用ですか?」


 ドアを開けて応じる。女性の刑事さんは微笑みながら手をあげ、挨拶した。


「さっきぶりだね。暇なものだから君のところに来てみたんだ」

「暇って……ちゃんと刑事の仕事をしてくださいよ。事件はたくさん起こっているでしょうに」

「私には関係のないことだ。刑事でもないからね」


 女性は意味のわからないことを言う。先ほど取り調べに同行したのに刑事ではないとは。


「じゃあ、あなたは何者なんですか?」

「しがない探偵さ。刑事課に赴いて幼なじみと話していたところに君が自首しに来たからね。私も同行させてもらったんだ」

「それ、大丈夫なんですか?」

「バレなきゃ平気さ。それにバレても責任を取るのは桔梗だからね。私には関係ない」


 目の前に映る彼女はとんでもない人間だった。できれば今すぐにでも、扉を閉めて部屋に戻りたい。そっと扉を閉めようとすると彼女はドアを掴み逆方向へと引っ張る。力は彼女の方が強く、すぐにドアは開かれ、彼女は中に入ってきた。


「不法侵入です。警察呼びますよ」

「アナザーワールドのセキュリティに不正アクセスした君と同罪だな」


 彼女の言葉に俺は思わず口を噤んだ。この人は何を言っているのだろうか。


「一体、ここに来て何をするつもりですか?」

「君の行っていた不正アクセスについて今ここでやってみてくれないか?」

「はあ。自首した手前でできるわけないでしょ」


「まあまあ。私に脅されたと言ってくれれば、それでいいさ」

「……さっきの件があるから怪しいんですよね。何も知りませんはなしですよ」

「もし、不審に思うなら動画を撮ればいい。そうすれば証拠になるだろ」


 俺は彼女を訝しく覗く。まさか自ら首を絞めるようなことを提案するとは。ただ、彼女の瞳を見る限り、怪しい様子は一切ない。彼女から感じられるのは『興味』や『好奇心』といったものだった。


「わかりました。ついてきてください」

「物わかりが良くて助かる」


 そう言うと彼女は靴を脱ぎ、部屋へと上がる。今日会ったばかりの人間の部屋にも躊躇なく入るなんて彼女のパーソナルスペースはどうなっているんだか。


 探偵さんを連れて自分の部屋へと入っていく。俺は探偵さんに言われた通り、スマホを使って動画を撮影する。


「キッチンはどこにある?」

「何しにいくつもりですか?」

「包丁を首元につけてあげた方が脅した感が出ると思ってね」

「自分の罪を重くしてどうするんですか……」


 ほんと何を考えているんだか。彼女の思考に全くついていくことができない。馬鹿と天才は紙一重というが、彼女は明らかに馬鹿側の予測不能な思考の持ち主だ。

 小さくため息をついて、パソコンのスリープを解除する。


「それで不正アクセスするのはいいですけど、アクセスしたら何をすればいいんですか?」

「おっと、そこまで考えていなかった。じゃあ、私の陰口を検索してくれ」

「わかりました。名前と誕生日を教えてください」

織本おりもと 香織かおり。10月29日が誕生日だ」


 彼女からいただいた情報を脳にインプットし、まずはアナザーワールドのセキュリティへと入り込む。ここは注意して行う必要がある。スクリーンに並ぶコードに目を注ぎながらキーボードを叩く。


 探偵さんは物音ひとつ立てず、後ろで見守ってくれている。閑散とした部屋でキーボードの音が奏でられる。いつものようにセキュリティを軽々突破すると、先ほど脳にインプットした情報を打ち込み、探偵さんの特定にかかる。


「アナザーワールドを構築するエンジニアから君のアクセスはバレないのか?」

「そんなヘマはしないですよ。俺のパソコンのセキュリティを甘くみないでくれますか?」

「なるほど。防御がしっかりしているからこそ、攻撃も強いということか」


 短いやりとりをした後、探偵さんの情報が掲示される。そこから彼女の関係者に焦点を当て『織本』や『香織』で検索をかけた。すると、数多くの検索結果が表示された。


「めちゃくちゃ噂されていますね。それも全部悪い噂だ」


 それもそうか。先ほど無理やり部屋に入ってくるほどの横暴を見せられて、彼女にいい噂が立つとは到底思えない。

 自分が招いたこととはいえ、後ろの彼女の情報を検索するんじゃなかったと後悔する。この惨事を目の当たりにして彼女はどう思うだろうか。


「んー、案外悪口は少ないようだな。予想外なのは、桔梗がこんなにも悪口を言っているくらいか。まあ、迷惑かけているからしょうがないっちゃしょうがないか」


 探偵さんは全く動じることなく、冷静に画面を覗いていた。流石は横暴な態度を見せるだけあって、鋼のメンタルだな。


「それにしても、私が見込んだ通り、いい手際の持ち主だね。なあ、君に頼みたいことがあるんだが、ちょっといいかな?」


 探偵さんは画面に向けた顔をこちらに向ける。彼女の瞳から感じられるのは『期待』だった。一体俺の何にそんな期待しているのだろうか。なんの話をするのかと首を傾けていると、彼女は笑顔で口を開いた。


 3


新崎しんざき 美咲みさきについて、アナザーワールドでの彼女の行動履歴を共有しました。桔梗さんから聞いた情報と相違はなさそうですね」

「仕事が早いな。新米助手は頼りになる」


 外の景色を眺めていた香織さんは、椅子を半回転させると自分の席に戻ってパソコンをいじり始めた。おそらく俺が共有した情報を確認しているのだろう。

 一仕事終えた俺はほっと一息つく。これで事件は程なくして解決することだろう。


 彼女と初めて会ってから半年が過ぎた。

 あれから俺は『不正アクセス禁止法』のため半年の懲役を受け、刑務所生活を行うことになった。元々、一年の懲役だったが、自首したことで減刑されたらしい。


 刑務所生活を行うことになり、学校へ通うことがなくなった俺は自分の進路を断つことになってしまった。まあ、自分で招いたことであるため仕方がない。

 しかし、俺の技術力を見込んだ香織さんが俺を自分の探偵事務所へと誘ってくれ、無事新たに自分の進路を確立することができた。


 行き場のなかった俺は香織さんからの助け舟に乗るしかなかった。

 とはいえ、香織さんの探偵事務所に入ったのは俺にとっては運の良かったことかもしれない。横暴な態度の彼女だが、見かけによらず非常に正義に忠実である。


 世界を潔白にするために不正アクセスを働いた俺と同じく、彼女の横暴さは正義に忠実だからこそのようだ。ここ数日間の彼女の様子を見て、俺はそう確信した。彼女も俺も同類だ。だからこそ、彼女と一緒にいるこの空間は意外と心地よかった。


「バッチリだな。この報告書を桔梗に渡すとしよう。ご苦労様」

「これで、新崎さんの罪は証明された感じですかね」

「ああ、あとは桔梗たち刑事課の仕事だ。我々の介入はここまでだな」


 香織さんの探偵事務所は主に二つの役割を担っている。

 一つは依頼人に対して特定人物の身元や素行調査を行うこと。これに関してはアナザーワールドのセキュリティ突破は違法行為となるため、アナザーワールドに乗り込んで調査をする必要がある。いつものように外から調査できないのは俺にとっては骨の折れることだった。


 もう一つは刑事課からの依頼。

 これは刑事課の桔梗さんが香織さんと親友のために依頼を受けているらしい。刑事課の事件においてはアナザーワールドのセキュリティ突破が承諾されることがあるので、その際は俺の出番となる。いつもと同じようにセキュリティを突破し、データを取得する。取得したデータは香織さんがチェックし、桔梗さんへと送られる。


 今回の件は桔梗さんからの依頼であり、アナザーワールドの情報を取得する許可があったので、俺が担当することとなった。


「それにしても、悲惨な話ですね。元々、アナザーワールド内での暴力が原因で夫を殺傷しまったなんて」


 今回の事件は、美咲さんの夫である恭介さんがアナザーワールド内で暴力を振るっていたことが原因だった。アナザーワールドアバターは現在のリアル世界の自分の体を解析して生成される。


 そのため、リアルワールドで暴力を振るって痣をつけた場合はアナザーワールド内のアバターにも痣がつく。逆にアナザーワールドで痣をつけたとしても、一度リアルワールドに戻って、またログインすれば痣はなくなるのだ。


 これを利用して、恭介さんは何度も美咲さんに暴力を振るった。痣や傷はできなくとも受けた時の痛みは鮮明に脳に残る。その苦痛の積み重ねによって、とうとう心の糸が切れた彼女はリアルワールドで恭介さんを殺すこととなった。


 事の発端は恭介さんのDVなのに、最終的な罪を背負ったのは美咲さんだ。

 これを悲惨と言わず、なんと言えばいいのだろうか。


「難しい問題だな。元を辿れば、新崎 恭介もまた仕事の負担や上司への厳しい態度が原因で多くのストレスを抱えてしまったのが原因なんだ。さらに調べれば、その上司にも色々とストレスを抱える原因が出てくるだろう」

「世界は真っ暗闇ですね。これじゃ、クリアになる時代は来そうにない」

「そうとも限らんさ。少しずつだが、世界は徐々に白くなりつつある。まだまだ真っ暗闇ではあるが、90パーセントの黒が80パーセントくらいには薄まっている。白くなっていくのは時間の問題だろう」


「だといいですが。ねえ香織さん、陰口についてどう思いますか?」

「随分と突発的な質問だな。半年間の刑務所生活で答えは出なかったのか?」

「いえ。半年間考えても、陰口は悪だと結論づけています。ただ、香織さんの意見を聞きたかっただけです」


「その件に関しては私も同意見だよ。陰口は悪さ。ただ、もう少し詳しくいうのであれば、『必要悪』とでも言うべきだろう。生物が存続するために二つの分かれ道がある場合、一定数は右へ一定数は左へいくのがベストなんだ。それが対立を引き起こし、正義と悪が生まれる。つまりは、我々が生物として生きている限り、正義と悪は必要となる。悪は決してなくならない。むしろなくなってしまった場合が、一番恐ろしい事態に陥ると考えるべきだろう。そうは言っても、人が死ぬような悪は排除しなければならない。では、悪の中で一番被害を最小限に抑えられるものは何かと言われれば『陰口』になってくる。だからこそ、陰口は『必要悪』なのさ」


 なるほど。香織さんらしい希望のある現実感の伴った見解だ。

 

「とは言っても、陰口を言うならば、ちゃんと隠す必要はある。張本人にバレてしまったら、言い合いならまだしも喧嘩に発展する危険があるからね」

「そうなると、俺は心底最低な行いをしていたということになりますね」

「はっはっは。まあ、今こうして世界の役に立っているんだから落ち込むことはない。なあ正善しょうぜん、幸せになるために必要なものって何かわかるか?」

「お金持ちになるとか、モテるとか、頭が良くなるとか、ですかね」

「模範解答を出してきたな。まあ、それらも一定の幸福度を得られることは間違いないだろう。ただ、最も幸せになる方法は全く別だと私は思う」

「それはなんですか?」


 俺の質問に対して、香織さんは得意げに微笑む。

 まるで餌に食いついた魚を見るような視線だった。

 香織さんは人差し指を一本立てると俺に向かってこう言った。


「幸せになる方法はひとつ『何も気づかないことさ』」


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